立夏から小暑へ(三)-「夏は来ぬ」雑感-

 今回は7月の下旬に出掛けたウオーキングの話である。年金者組合の新聞に挟まっていたチラシには、溝の口にある「二ヶ領用水『久地円筒分水』見学」とあった。もちろん私などは聞いたこともない大分変わった場所のようなので、出掛ける前から愉しみであった。暑い盛りに入ってきたので、比較的近辺の、しかもそれほど歩かないコースを選んでくれたようだ。

 この投稿は、「立夏から小暑へ」とタイトルを付けているが、当初は「初夏から盛夏へ」とするつもりだった。このブログを書いている今日などは、猛暑日になるという予報なので、盛夏でもよかったのだが、私の感覚からすると、どうも7月半ばに盛夏という言葉は使いにくい。昔の夏休みの記憶と結び付いて、夏の本番は8月であるとの思いが今でも強いからであろう。そこで、あえて旧暦の節季を使うことにした。

 私は夏が好きである。冷えたビールに枝豆、トウモロコシ、冷奴、西瓜、氷水などと書き連ねているだけで、心愉しくなる。夏そのものが好きだということもあるが、それ以上に、夏が近付いてくる気配を感じるのが大好きなのである。売り払った5階の畳の部屋で、もうすぐ夏休みだと思いながら、微風に顔を撫でられつつ、大の字になってうたたねたこともあったが、そんな振る舞いに惹かれるのである(笑)。

 「立夏から小暑へ」などと旧暦を使用したこともあって、急に文語体の気分になり、久方ぶりに文部省唱歌の「夏は来ぬ」や「海」を聴いてみたくなった。歌詞はなかなか難しい言い回しなのだが、それでも無駄のない言葉で紡がれた詩情溢れる清々しさが、ともに素晴らしい。今日まで歌い継がれるだけのことはある。旧きものの新しさとでも言おうか。しかし、「夏は来ぬ」を聴いていて引っかかりを感じる箇所があった。この唱歌の歌詞は5番まであり1番は誰でもご存知かとは思うが、気になったのは2番である。その歌詞は次のようになっている。1番、2番ともに紹介してみよう。

 卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

 さみだれの そそぐ山田に 賤の女(しずのめ)が 裳裾(もすそ)ぬらして 玉苗植うる 夏は来ぬ

 2番の歌詞にある「賤の女」は、現在では「早乙女」に変えて歌われている。「賤の女」とはいやしい身分の女という意味だから、田植をする若い女性を表す美しい日本語である「早乙女」とは、大分違いがある。何時、何処で、誰が、何故に変えたのかがいささか気になって、調べてみたのだがよくわからなかった。

 「夏は来ぬ」の作詞者は、歌人でもあり、万葉集の研究者としても高名な佐佐木信綱である。苗を「玉苗」と表現しながら、田植をする女を「賤の女」と呼ぶところに、万葉に心酔した彼の精神構造の一端を垣間見ることができるだろう。気になってついでに彼の経歴を調べてみたら、「夏は来ぬ」を作詞した1896年の2年前には、『支那征伐の歌』や『征清歌集』といった歌集を刊行していた。日清戦争の最中である。

 何とも美しい叙情歌が、韓国の植民地化を目指す戦争とまったく違和感なく同居できるのである。季節の移ろいとその美しさを讃える歌が、日本の素晴らしさを誇ることへと転じ、それが世界に冠たる日本へと広がり、そこに政治的な意図が働けば、いつとはなしに国家意識の高揚にまで結び付いていくということなのであろうか。私などは、干からびた感性の持主に反発するあまり、叙情豊かであることを高く評価しかねない人間の一人である(笑)。しかしながら、それだけでは心情が聡明であるとは言えないということなのだろう。自戒が必要である。その辺りのことを、中野敏男著『詩歌と戦争ー白秋と民衆、総力戦への「道」ー』(NHK出版、2012年)を読みながら学ばせてもらった。

 急に上述のようなことを書き始めたのは、東京五輪でスポーツ選手の活躍を純粋な気持ちで屈託なく褒め称え、「頑張れニッポン」などと熱狂しているうちに、そうした大勢に同調しない人々を、「反日」とまで言い募るようなとんでもない輩が現れてきたからである。あまりにも愚劣であり、無気味でさえある。その精神構造は、「非国民」を摘発した昔と少しも変わっていない。こうした現状を見聞きするにつけ、「純粋」や「熱狂」や「同調」が内包しかねない危うさに、無自覚であってはならないとの思いが強まってきた。

 話を佐佐木信綱に戻すと、アジア・太平洋戦争下で、日本兵が所持することを許された一般書の一冊が、彼の『新訂新訓 万葉集』(岩波文庫、1927年)であったという。そこには、天皇を讃える歌や防人歌だけではなく、日本の春夏秋冬を愛でる歌も沢山あり、それらの歌は死地に赴く兵士の心を慰撫したのではあるまいか。万葉集は、そうした形で戦争を支える役割を担わされてきたのである。そんな過去を、日本文学報国会の短歌部会の部会長まで務めた当の佐佐木信綱は、一体どのように考えていたのであろうか。

 あまりに前置きが長くなった。集合場所の田園都市線溝の口駅から少し歩くと、大山街道の表示が見え、その側には溝国神社があった。そこに顔を出してからまた大山街道に戻った。しばらくすると二ヶ領(にかりょう)用水が現れる。用水の両脇はきちんと整備された散歩道となっており、木々や花々も植えられていた。ところどころに鯉の泳ぐ姿も見えた。この用水は、地元の人々によって大事にされているのであろう。夏の日差しは厳しいのに、水が流れているところを歩いている所為なのか、気持はどこかほっとしている。

 この用水を左手に折れてしばらく歩くと、目的地の二ヶ領用水久地円筒分水に辿り着く。本筋だったここの話や、帰路に立ち寄った「大山街道・ふるさと館」については、次回にあらためて詳しく触れることにしたい。溝の口の駅周辺は開発が進んで昔の面影はすっかり失われているが、少し足を伸ばせば、至る所にひっそりと歴史が息づいていた。


https://youtu.be/NS465piE7vg?t=86

https://www.youtube.com/watch?v=cycXDPu1H6I