早春の南信州紀行(二)-飯田から天龍峡へ-
今回の調査旅行は2泊3日の行程だったが、宿泊先は2泊とも飯田市内の同じホテルだった。ホテルの朝食は7時頃、そして出発は9時頃というケースが多いが、今回もそうだった。私は何時も旅の荷物を少なくすべく努めているので、旅装を整えるような時間はほとんどいらない。そんなわけで、朝食後出発までの時間を利用して、写真を撮るために外に散歩に出ることにしている。徘徊老人になりかかっているので、帰り道を忘れないように気を付けながら、街中や路地裏をのんびりと歩く。そんなことをしていると、ごくたまに心惹かれる光景に巡り会うことがある。
今回気になったのは、ホテルのすぐ側を通っていた飯田線である。静かで落ち着いた単線の鉄路にすぎないのだが、側に佇んで眺めていると、深い郷愁に誘われ、旅情を掻き立てられる。長く続くその鉄路が、わが人生の来し方と行く末を暗示しているように思えるからなのか。この飯田線は、愛知県の豊橋駅から諏訪湖の近くにある長野県の辰野駅までを繋いでおり、全長約200キロ。その間に94駅もあるとのことだから、人々の生活に密着した鉄道なのであろう。全部乗り通すと7時間も掛かるらしい。途中には秘境の駅舎や絶景ポイントもあるようだから、一度乗ってみたくなった。しかし、年寄りにはかなりの苦行かもしれない。
では今回我々が泊まった飯田とはどんな町なのだろう。飯田線と呼ぶぐらいだから、この辺りの中心都市であることはわかる。市のホームページなどによってその特徴を簡単に紹介してみる。飯田市は日本のほぼ中央に位置し、長野県の最南端、いわゆる伊那谷(天龍川に沿って南北に伸びる盆地、伊那平や伊那盆地とも言う)における中心都市である。人口は約10万5千人、天龍川(龍の字は歴史的な景観を現す場合に用いられているようだが、地図上では竜である。ここでは便宜上龍に統一した)の両岸に広がる面積は約659平方キロメートル。東に南アルプス(赤石山脈)、西に中央アルプス(木曽山脈)が聳え、山裾には扇状地と段丘が広がり、豊かな自然と優れた景観に恵まれ、四季の変化にも富んだところである。
飯田市は、古くから日本の東西を結ぶ「文化の回廊」の要地として栄えたようだ。人々の進取の気性と学究を大事にする気質は、古層の文化をよく伝え残しながらも新しい文化をいち早く取り入れて、特色のある文化を築いてきた。江戸時代の儒学者太宰春台(だざい・しゅんだい)、明治期の日本画の革新に貢献した菱田春草(ひしだ・しゅんそう)、「日本の博物館の父」として知られる田中芳男、象徴派の詩人でもあり英文学者でもあった日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)、演劇研究家の河竹繁俊、法曹界で活躍した今村力三郎、郷土史家の市村咸人(いちむら・みなと)、農業経済史の古島敏雄ら優れた文化人が輩出した。日本民俗学の創始者柳田國男の養家の故郷もこの飯田である。近年は、りんご並木や天龍峡のあるまち、民俗文化の息づくまちとして知られ、また「人形劇のまち」として広く親しまれている。また、飯田市には古代から近現代に至るまで、全国でも有数の膨大な量の歴史資料が残されている。
おおよそ上記のような内容の紹介文であった。読んでいて気になることが三つあった。一つは、日本の東西を結ぶ「文化の回廊」の要地という表現であり、しかもそこに登場した人物のなかに専修大学とも深い繋がりのある今村力三郎の名を見付けたことであり、二つ目は、飯田には「全国でも有数の膨大な量の歴史資料」が残されていると書かれていたことであり、そして三つ目は、「人形劇のまち」として広く親しまれているとあったことである。
まずは今村に関する話から。専修大学で長年教えてきたので、勿論彼の名前だけは知っていた。気になってあらためて調べてみると、1889年から弁護士としての活動を開始し、1894年から1954年に没するまで在野の法曹として活躍した人物だった。足尾鉱毒事件の弁護を担当したことから、田中正造を介して幸徳秋水と知り合い、後に大逆事件の弁護を引き受けることになった。そのことはよく知られていることだろう。とりわけ興味深かったのは次のようなエピソードである。1946年当時今村は80歳を超えていたが、学生からの懇請もあり、修善寺の別荘での隠居暮らしから足を洗って専修大学の5代目の総長に就任している。
当時は、旧制大学から新制大学への移行期であり、それに伴って新たな大学設置基準が定められために、施設や人員を整備することが求められていた。しかしながら、財政的な困難に直面していた専修大学は、存亡の危機に立たされていたようだ。それを乗り切るために、今村自身も、杉並にあった広大な屋敷や修善寺の別邸を専修大学に寄贈している。その後は校舎の一隅に居を構えて生活し、葬儀も大学内の体育館で行われたと言う。上に立つ人間の範を示したとも言えようか。専修大学にとっての至宝のような存在である。
もう一つは、蓄積された膨大な量の歴史資料を活用するために、2003年に「飯田市歴史研究所」が設立されていることである。多くの自治体では、地域に残された歴史資料は教育委員会などの管轄になっているのではないかと思われるが、飯田ではそうではない。「現在及び未来の市民のために、歴史的価値を有する記録を収集し、保存して、広くその利用に供するとともに、歴史、文化等を科学的に調査研究して、これを叙述し、もって市民の教育、学術及び文化の向上発展並びに活力ある地域社会の創造とその持続に寄与する」ことを目標として、この研究所は現在まで多様な活動に取り組んできている。
重要なのは、「文化の回廊」に蓄積された歴史遺産=地域遺産は、今後の「地域づくりの核」となるものだと位置付けられていることだろう。なかなかユニークな存在である。この研究所からは定期的に刊行物も発行されているが、それとは別に研究所編の『満州移民 飯田下伊那からのメッセージ』(現代史料出版会、2007年)を見付けたので、早速購入しておいた。満州移民の前史から戦後史までをカバーしたなかなか興味深い著作であり、序を書いた中村政則は、「これまでの類書(通史)の水準を大きく引き上げた」と述べていたので、その内容については後に触れてみたい。
三つ目は、飯田が「人形劇のまち」と呼ばれていることである。交通の要衝の地であった飯田は、中馬(百姓馬を使った民間の運送業者のこと)による交易なども盛んで、人形浄瑠璃が伝えられた当時、経済的にも文化的にも豊かな土地だったと言う。山の人々は木を切り出し、農家は桑を育て蚕を飼って生糸をとって、暮らしていた。農閑期には、当時の流行の人形浄瑠璃一座を呼んで大いに楽しんでいたらしい。そして、黒田や今田の人々をはじめ、多くの人々が旅の一座から人形遣いを教わり、やがて祭りと結びついて、地域の人々の手によって現代にまで伝えられていくのである。
「伝統芸能の宝庫」とも言われる飯田には、じつにたくさんの祭りがある。自然への畏敬の念を抱いた人々が、神輿や獅子舞、神楽など人形浄瑠璃以外にも様々な芸能を奉納したからだという。それらは神事であると同時に人々の楽しみの場であり、地域の若者を鍛え育てる場であり、そして人々の繋がりを密にするものでもあったようだ。伊那谷には、数えきれないほどの獅子もいる。各地域が競い合い、地域毎に独自の獅子や獅子舞が生まれてきたのである。このように、飯田の人々は昔から芸能を観ること、演じること、支えることを楽しんできた。そうした気質が、現代に生きる飯田の人々に受け継がれているに違いなかろう。
2日目の午前中にわれわれは飯田市内を巡った。訪問先は、川本喜八郎人形美術館と飯田市美術博物館である。先の飯田市の紹介からすれば、当然訪ねるべき場所であったろう。人形美術館については既にブログで紹介済みなので、ここで改めて紹介することはしない。一つだけ付け加えておくとすれば、人形の多くは勇壮な男性であったが、ただ一人女性がいた(他にもいたかもしれないが、目に入らなかった)。貂蝉(ちょうせん)である。彼女は『三国志演義』に登場する架空の人物のようだが、古代中国四大美人の一人に数えられるだけあって、その妖艶な姿に魅入られた。人形として作られたが故の得も言われぬ美しさである。「沈魚落雁」の美女と言うことか。人形美術館から街中を歩いて飯田市美術博物館に向かった。原広司(はら・ひろし)の設計によるこの美術館は、南アルプスをイメージしたというなかなかユニークな作りであった。ここには、菱田春草の絵が展示されていたし、また隣接して日夏耿之介記念館、柳田國男館があった。
次に向かったのは、名勝天龍峡である。天龍川は以前から急流として知られていたが、江戸時代には峡谷に特別な名称はなく、周辺の地名の大田(おおだ)と崖を表す当地方の言葉「ホッキ」を合わせて、一帯は大田ホッキと呼ばれていたという。弘化4年(1847)に江戸時代に漢学者として知られる阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)がこの地を訪れるのだが、その際にこの峡谷に名がないことを知ることになる。そこで、天龍川に因みこの峡谷を天龍峡と命名したのだという。
天龍川から天龍峡と名付けられたというのだから、なんともベタなネーミングだと言う他はない。わざわざ朗廬の頭を煩わすこともなかったであろう。そうなると、問題は天龍川の天龍の方である。この川は諏訪湖を水源とし、両山脈から流れ込む多くの支流を合流して南下し、遠州灘へと注いでいるのだが、それが天龍川と呼ばれることになったについては諸説あるらしい。諏訪湖の龍神信仰によるとの説ももっともらしいし、この川の激しくうねる水流が天に昇る龍に似ていたことによるとの説ももっともらしい。
われわれが吊り橋の上から眺めているだけでは、両岸の鋭く切り立った岩肌の間をゆったりと流れる春の川のようにしか見えなかった。川の水に溶け込んだ微粒子によって、川面はエメラルドグリーンのような色に輝いていた。景観は美しいのだが、こうしたところで撮る写真はどうしても絵葉書のようになりやすい。自分らしい写真を撮ることは難しかった。1882(明治15)年には近代書道の父といわれた書家日下部鳴鶴(くさかべ・めいかく)が訪れ、天龍峡を中国の神仙思想の聖地になぞらえ、峡谷の特徴ある奇岩や淵など10ヶ所に名をつけて十勝とし、鑑賞のガイドとしたらしい。それぞれの岩肌にはその名が彫られているとのことだが、今回目にすることは出来なかった。
日下部鳴鶴の名を目にして、昔酒田の鐙屋(あぶみや)で彼の書を見たことを思い出した。その話をシリーズ裸木の第3集『カンナの咲く夏に』(2019年)で触れたことがあったからである。再録してみる。「この鐙屋には各部屋に扁額が掛けられていた。相当の数である。まったく意味もわからずに眺めていたのだが,そのなかに「穆如清風」と書かれたものがあった。そこでもらったパンフレットによると、書家は日下部鳴鶴(くさかべ・ めいかく)という人物で、「穆(ぼく)として清風の如し」と読む。人の気性の和らげることを、清風の和らげるに喩ふと書かれていた。穆という字は、ほんのりと和らぐとか、穏やかでつつしみ深いという意味であるが、年寄りはすべからくかくありたいものだと自戒しつつ、改めて扁額をじっくりと眺めてきた。鳴鶴83歳の時の書だというが、字体もまた清風のような清々しさであった。」
ところで先にも触れたように、天龍川は「暴れ天龍」の異名を持つ日本屈指の急流河川である。急峻な谷を下るので大量の土砂が削り取られ、そのために川床が上昇して氾濫が起きやすかったのである。特に甚大な被害をもたらしたものが、1961(昭和36)年に発生した「三六災害」である。台風と梅雨が重なった集中豪雨によって伊那谷では川の氾濫や土石流、地滑りなどが発生し、死者・行方不明者130名、家屋の全壊、流出、半壊1,500戸という大惨事が発生したのである。川が流れていることさえ忘れそうになるほどの吊り橋からの穏やかな眺めだったが、そんな穏やかさからは想像だにできない天龍川のもう一つの顔である。

