早春の和歌山、奈良紀行(三)ー織物の町高野口にてー

 有田の早和果樹園を訪問した後、われわれは次の訪問先である妙中(たえなか)パイル株式会社とその近くにあった高野口パイル資料館を訪ねた。訪問先は、今は橋本市に属している高野口(こうやぐち)にある。高野口というのだから、高野山に参詣する際の入口にあたる場所である。高野山は、約1200年前、816(弘仁7)年に弘法大師として知られる空海が開いた真言密教の聖地である。ここには、世界遺産に登録された名所も多く、国内外からの訪問客が絶えないのだと言う。

 和歌山県北東部、標高1,000m級の峰々に囲まれた山上の盆地に広がる高野山は、1200年以上に渡り多くの人々の信仰を集め発展した宗教都市として知られる。ここに117もの寺院が立ち並び、うち50ほどの寺院が観光客の宿泊や瞑想などの修行体験を受け入れており、非日常の世界を求めて人々が集まるらしい。弘法大師の教えに触れ心身を癒やすということなのであろうか。まず最初に、高野山の歴史を獄簡単に紹介してみよう。

 真言宗の宗祖である空海は774(宝亀5)年に讃岐で生まれている。19歳のときに出家し31歳で中国へ渡航。33歳で帰国した空海は、国家の安泰、世界平和、修行者のために、真言密教の根本道場を建立することを思い立ち、816(弘仁7)年に嵯峨天皇より高野山を賜り金剛峯寺(こんごうぶじ)を開創する。苦しむ者や悩める者を救おうと全国に教法を広め、その後永遠の瞑想に入って即身成仏をとげたのだと言われているようだ。

 この空海の入定(にゅうじょう)は、生きながらにして未来永劫に人々を救う信仰として広がり、全国各地に数多くの伝説をもたらすことになる。まあ、こうした伝説のほとんどは、有り体に言えばすべて創作された物語に違いなかろう。私も旅先であちこちに残された空海伝説に出会ったことがあるが、心を動かされることなどまったくなかった。誰も見たことのない善光寺の絶対秘仏などを有り難がらないのと同じである。

 和歌山県橋本市にある高野口町(こうやぐちちょう)は、その名からも分かるように、平安時代後期から高野山への参詣の表玄関として発展してきた歴史ある町のようだ。 高野山へ向かう人々が通るルートの拠点となり、宿場町として発展する。その最盛期は明治や大正時代だったとのこと。1901(明治34)年に紀和鉄道(現在のJR和歌山線)の「名倉駅(現・高野口駅)」が生まれたことによって、参詣客が急増したという。駅前には旅館、土産物屋、飲食店が軒を連ね、人力車が行列をなすほどの賑わいを見せたらしい。

 もっとも、繁栄したのはその頃までで、その後1925( 大正14)年に南海鉄道が高野下や高野山内へ直接乗り入れるようになると、参詣の玄関口としての高野口の役割は徐々に失われていく。 高野口で下車する必要がなくなったために、町は急速に衰退していったようだ。現在も駅前にある木造3階建ての旅館や、明治や大正時代の趣を残す町並みが、当時の繁栄を伝えているとのことだが、今はだいぶ静かな町である。私としては、そうした繁栄の名残をカメラに収めてみたかったが、残念ながら今回の旅程にその余裕はなかった。

 こうして、高野口は高野山との関わりを失っていくのであるが、逆に注目を集めるようになったのは、 ここの伝統産業である「パイル織物」である。パイルと言われても私のような素人にはどんな物かすぐには想像つきかねたが、タオルの表面に見られるように糸が丸くループ状に織り出された素材やその織り方だということなので、そうであればぼんやりと理解はできる。そこで「高野口パイル」に話は戻るが、これは和歌山県の旧高野口町(現 橋本市高野口町)を中心とした地域(橋本市、九度山町、かつらぎ町)で生産されたパイル織物や編物の総称である。こう書いたが、織物と編み物の違いさえ定かではない人間が書いているので、そんな文章を読む方も困惑することだろう。。織物は縦糸と横糸を直角に交差させて布を作る(織る)のだが、編物は一本の糸でループを連鎖させて布を作る(編む)のである。

 われわれはまず「パイル織物資料館」を訪問したが、そこで受け取ったパンフレットなどにもとづきながら、高野口パイルの歴史を概観してみよう。高野口を含む紀ノ川流域では、すでに江戸時代には「川上木綿」と呼ばれる織物が盛んであったらしい。温暖な気候が綿花の栽培に適しており、耕地の少ない農家の副業として広がっていくのである。紀州藩が綿花の栽培を推奨したこともあったようだ。ここの木綿は丈夫で質が良かったので、幕府への献上品にもなったと書かれていた。

 明治に入ると、「川上木綿」は「川上ネル(起毛布)」へと進化し、町は急速に発展していく。その切っ掛けとなったのは、地元の前田安助が「再織」(さいおり)を創案したことにあるようだ。再織とは、一度織り上げた生地を紐状に裁断して再び織り上げる特殊な織物のことである。高野口パイルのルーツはここにあるようなので、彼は織物技術のパイオニアと言うべき存在なのであろう。その後大正時代に入り、より新しい織物の研究が繰り返され、今度は西山定吉によってシール織物が考案されることになる。シールとはアザラシのことだが、アザラシの毛皮のような風合いを持つパイル織物がシール織物である。

 肌触りが良く、伸縮性に富み、摩擦に強く、保湿性も高い高野口の「パイル織物」は、業界ではよく知られており、現在では高野口のパイルは日本一の生産高を誇っているだけではなく、世界的にも知られているのだと言う。近年では、毛皮を模したエコファー素材でも注目を集め、国内外のハイブランドが採用しているとのこと。 何故私などが何も知らないのかと言えば、高野口で作られるパイルは製品の材料をして使われており、単独では表には出ることのない「裏方」だからであろう。その「裏方」にも歴史があって、長年技術開発に携わってきた人々がいたのであり、現在もいるのである。そんなことを改めて知った。

 現在ではこの高野口は、2006(平成18)年に旧橋本市と合併し、新制「橋本市」の一部となっている。余談となるが一言触れておきたいことがある。資料館でわれわれに説明してくれた比較的若い方は、神奈川の出身だという。何故そんな人がこの高野口にいるのか不思議に思ったが、聞くところによれば、パイル織物企業の経営者の娘さんが東京の大学に進学し、そこで知り合って娘さんの地元に来たらしい。企業の後継者となるのであろうか。伝統産業に吹く新しい風となるのかもしれない。私としては、こちらの話を詳しく聞いてみたかったが、それは叶わなかった。

 この間の産地における注目すべき変化は二つある。一つは、温暖化の影響によって重い衣料が消費者から避けられるようになり、厚くてしかも高価なシール織物が大衆のファッションから消えていったことである。それ故か、紀州繊維工業協同組合の組合員数は、1995年の139社から2025年の39社にまで大きく減少している。もう一つは、それに代わって新規用途の開発に力が注がれてきたことである。既存の用途であるアパレル、寝装品、インテリア、車両関係、雑貨、玩具等は勿論残ってはいるが、それに加えて産業資材向けのパイルファブリックの開発が進んだのである。

 その代表格が液晶パネルの基板製造工程で使用されるラビング・クロスの開発である。「縮小産業における新機軸」とでも言えようか。ラビング・クロスと言われても、よくわからないので調べてみた。液晶パネルを生産するのに欠かせないのが高品質のラビング・クロスである。ガラス基板の表面に耐熱性の高いポリイミド樹脂を塗布し、それを乾かしてからラビング・クロスと呼ばれる布地で一定方向に擦る。細かな繊維で擦ることで、液晶分子がきちんと揃うことになるらしい。こう書いてはみたが、一体何のことやら。この開発には随分と苦労も多かったようだ。液晶パネルに関して何の知識もなく、求められる仕様についても見当が付かなかったからだと、妙中パイル織物の社長は言っていた。

 この妙中パイルでは、思いの外に気さくな社長から工場内を案内してもらい、懇切丁寧な説明を受けた。この会社は1950年の設立で、60余年の技術と経験を活かし染色から製織、仕上加工まで一貫生産することで、 液晶パネル用のラビング・クロス、アパレル用のコットンベルベット、レーヨンファッションファー、デニムファー、またインテリア用のジャガードベルベットなどこの会社独自の製品を生産しているとのこと。国会議事堂の椅子張りにも使用されているらしい。

 創業者の妙中正一はパイル織物の育ての親であり、今ではこの会社は高野口産地を代表する企業へと成長している。パイル業界のナンバー・ワンの企業を目指しており、世界で唯一のパイルファブリックに特化した高野口産地を守り進化させていきたいとの思いが、話の端々に感じられた。工場見学でいろいろと説明を受けたが、全くの素人の私には分かりかねることばかりだった。だが、パイル織物や編物を生み出す機械の規則正しく正確な動きが、何とも美しく感じられた。工場にも「美」があることを知って、何枚か写真を撮った。

 ところで、今回高野口産地を訪ねるにあたって、事前に読んでおくようにと渡された冊子があった。研究会担当の長尾さんも執筆者の一人となっている『大都市圏の地域産業政策-転換期の大阪と「連関」的着想-』(大阪公立大学共同出版会、2014年)である。私などが読んでもどうせ分からないだろうとは思ったが、「連関」的着想という表現に興味を持ったので、手にしてみた。読んでみると、あれこれと面白い箇所が見つかったが、その中で注目すべきは以下のような指摘であろう。その大要を紹介してみる。

 大阪経済の低迷の原因として、産業構造が成熟産業を主体としたものから成長産業を主体としたものへとシフトしていないことがよくあげられるようだ。近年は、新産業分野を選別して支援することによって、大阪経済の成長を図るような戦略が自治体によって策定されているらしい。しかしながら、著者たちによれば、産業構造のみによって地域経済の盛衰を語ることは適切ではないと言うのである。何故だろうか。成熟産業分野に属する企業のなかからあらたな技術が生まれており、それが成長産業分野における製品や事業を支えているからである。これが「連関」である。先に紹介した液晶パネル用のラビング・クロスなどはその好事例であろう。

 高野口パイルの産地は既存の成熟産業ということになるだろうが、そこには、歴史的に積み重ねられてきた技術や知識、ノウハウがある。だからこそ、さまざまな新しいものが創出されていくのであろう。だとするならば、成熟産業と成長産業を切り分けて、前者を衰退に任せて後者を集中的に支援するといった単純な発想は、あまりにも危ういのではないかと書かれていた。まさにその通りなのではあるまいか。大事なのは、「成熟」と「成長」(あるいは「伝統」と「革新」)の二分法ではなく「連関」であるということなのかもしれない。何故だか急に「温故知新」といった箴言が頭に浮かんだ。私もまた、故きを温ねて新しきことを知った。