シリーズ「裸木」と名付けた冊子を作成するのが、「敬徳書院」の店主である私の老後の愉しみ、いわゆる「道楽」となる。辞書によれば、道楽にもいろいろな意味があって、本職以外の趣味であったり、酒色や博打などの遊興であったり、あるいはまた、仏道修行によって得られた悟りの愉しみであったりする。でき得るならば、「悟りの愉しみ」にまで至りたいところだが、私のことだから恐らく無理であろう(笑)。「遊興」がせいぜいのところである。

 この先何号まで続くのかわからないが、もしも元気であれば、一年に一冊のペースで作成して、友人や知人やゼミの卒業生などに配ろうかと考えている。老後の愉しみで作られるような冊子を、身銭を切るまでして買うような奇特な人は恐らくいないであろうから(笑)、定価を付けてはあるが大部分は贈呈するつもりである。「時間はあるが金はない」身となった年金生活者にしては、身の程もわきまえない大盤振る舞いと言うしかない(笑)。

 「裸木」は「らぼく」ではなく「はだかぎ」と読むようだが、これも辞書によれば、「バクチノキの異名。樹皮がはげ落ち人肌色であることから、博打に負けて裸になった人にみたてていう」とある。「バクチノキ」なんていう植物が存在することを、私はこれまでまったく知らなかった。また俳句歳時記によると、「はだかぎ」は「冬になって葉を落とし尽くした木。あたかも枯れたかのように見えるが、枯れ死した木ではない。枝々があらわになった姿を『裸木』ともいう」とある。

 店主としては、花も実も葉も落ちて幹と枝だけにはなったものの、晩秋の澄み切った空に向けて、誰に煩わされることなく一人すっと立つ木を、自分自身の今の姿に見立てたかっただけなのだが…。もちろんながら、そうありたいという願望である。そうした意図からすれば、「はだかぎ」ではなく「らぼく」と読ませた方がぴったりのような気がする。偉そうに見られるのが嫌なあまり、人前では「『裸体』ではなくて『裸木』ですので、お間違いなく」などと口にすることがある。ついついふざけ過ぎるのが、店主のいつもの悪い癖ではある。こんなことを笑いながら語っていると、その手の下がかった話が好きな人物のように思われることもよくあるが、そうした感受性の鈍い人を私は相手にするつもりはない(笑)。

 「裸木」といった言葉に惹かれるようになったのは、還暦を迎えてからである。2010年の年賀状に書いたことがあるのだが、たまたまある時、「晴耕雨読」(耕す畑など何もないのだから、正しくは晴遊雨読とでも言うべきであろうが)の合間に新聞の切り抜きなどを整理していたところ、昔好きだった作家畑山博の小さな文章を見つけた。若い頃は気負って「俺はもう枯れている」が口癖だったという彼は、高校中退後旋盤工などの職を経て、1972年に「いつか汽笛を鳴らして」で芥川賞を受賞し、2001年に亡くなった。その彼が、丹沢に出かけた折に、群生している仲間の木々から少し離れて立つブナの枯れ木を見て、次のように書いている。

 去年の秋、20年ぶりに登った丹沢で、とてもいい枯れ木を見た。仲間の木々の群生しているところから少し離れて、一本だけ雑木林の中にいたブナの木。/紺碧の空。灰色の木肌。そして私はこう思った。/枯れ木は、そいつが本物なら、どこから生えているのか、異質なその姿からすぐに根元を見分けることができる。拠り立つ所が分かる。きっ先が天のどこを指しているかも、むだな葉や花がないのでよく分かる。そんな枯れ木になりたいものだ。(『朝日新聞』2000年8月18日夕刊)

 「偽物」とまでは卑下しないにしても、「本物」などとはほど遠い人間なので、とても畑山さんの言うような枯れ木になどなれそうにはない私だが、こんな文章を読むと、「枯れる」というのもなかなか味わい深い人生の営みなのかもしれないなどと思えてくる。そこには、「裸木」の持つもう一つの興味深いイメージが示されているのではなかろうか。似たような捉え方は、他の作家の書いたものからも読み取ることができる。結城信一の「冬木立の中で」には、以下のような文章がある。

 落葉したあとの無数の樹木は、先細りになりながら、空を抱きこみ、明るく賑やかに絡みあひ、睦まじげな長い会話を続けてゐる。葉を落としつくした気楽さが、いまは饒舌へとかりたててゐるかに見える。そこには、初冬の侘しい趣きは、少しも見られない。小鳥たちも、風通しのよくなった空間を、むしろ居心地のよい世界と心得て、暢びやかな飛翔を繰返す。

 

 自分もまた、定年を迎えてこれまでの仕事からすっかり足を洗った。だからこそ、「葉を落としつくした気楽さ」から「饒舌」へと向かっているに違いなかろう。傍迷惑も顧みずに、そしてまた恥ずかしげもなくはしゃぎ回っているのは、きっとその所為である(笑)。荷風の「断腸亭日乗」をもじるならば、「談笑亭日常」あるいは「艶笑亭日常」とでも言えようか(それを過ぎれば、きっと「徘徊亭日常」となるはずである)。

 もっとも、「饒舌」が「饒舌」のままに終わるはずもない。その後には、結城が言うような「暖かくうるんだ春の空や、強烈にぎらつく夏の空は、おそらくほかの誰かのものである」といった寂寞とした気分が、拡がって行くことになる。藤沢周平は「静かな木」で書いている。「福泉寺の欅も、この間吹いた強い西風であらかた葉を落としたとみえて、空にのび上がって見える幹も、こまかな枝もすがすがしい裸である。その木に残る夕映えがさしかけていた。遠い西空からとどくかすかな赤みをとどめて、欅は静かに立っていた」。

 そして小説の主人公は、「木の真実はすべての飾りをはらい捨てた姿で立っている、今の季節にある」といった「老年の感想」を捨てきれないのである。「あのような最期を迎えられればいい」と思っているからに違いない。虚飾を捨てた裸木は、「饒舌」の時期を経てゆっくりと静かな木へと向かっていくのであろう。

書籍リスト

 シリーズ「裸木」は毎年夏に刊行を予定しており、これまでに『記憶のかけらを抱いて』と題した創刊号(2017年8月)と『「働くこと」の周縁』と題した第2号(2018年8月)を刊行した。第3号は、『カンナの咲く夏に』と題してこれまでに書き散らしてきたエッセーらしきものをまとめ、来年8月に刊行する予定である。

創刊号『記憶のかけらを抱いて』

はしがき
第一部 論文集の「はしがき」から(1995~2017年度)
第二部 ゼミナール覚え書き
 1.ゼミナールのすべて
 2.ゼミナールに関する断章
 3.ゼミナールの卒業生たち
第三部 懐かしい聲、遠ざかる跫音
 1.私の略歴と仕事
 2.私の自画像
 3.記憶のかけらを抱いて―2016年・盛夏・福島―
あとがき

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「はしがき」から

 専修大学には、1985年4月に入職してから2018年3月の退職まで、足掛け32年間勤めたことになる。その前の勤務先である(財)労働科学研究所には、大学卒業後15年間勤めたので、専修大学ではその倍を超える歳月を過ごしたわけである。随分と長い期間ではある。よく老年、壮年、青年の三世代のことを「老壮青」と言うが、それにならって言えば、青年期を労働科学研究所で過ごし、壮年期と老年期を専修大学で過ごしたと言ってもいいかもしれない。

 青年期は勿論、壮年期においても定年退職後のことなど何も考えてはいなかったが、還暦を迎えた頃から定年とその後の生活を意識するようになり、65歳を過ぎて前期高齢者となったあたりからは、人生の終末というものを意識するようになった。こうした心の動きを吐露すると、まわりからは老け込んでいるかのように思われたりすることもあったが、私自身はそんなふうに思ってはいない。しっかりと自分の終末を見据えることによって、つまり末期の眼を持つことによって、一瞬一瞬を丁寧に生ききることができるのではないか、そう考えているからである。

 専修大学では、私なりに教育と研究に力を注いできたつもりではあるが、「悔いはない」などと言い切るほどの自信があるわけではない。悔いというものは、いつでも必ず残るものであろう。大学では主に専門科目の「労働経済論」を担当してきたが、教員として印象深いのは、教室での講義よりもやはりゼミナールである。3年間も学生たちと付き合うことになるので、一人ひとりの印象が私の心の中に否応なしに刻み込まれるからである。そのゼミナールの想い出をまとめたのが、三部構成からなるこの冊子である。

 第一部には、毎年作成してきた「ゼミナール卒業・進級論文集」のはしがきを、22年分まとめて載せてみた。私は毎年論文集にはしがきを書いてきたが、飽きずにそんなことをしてきたのは、ものを書くことが好きだったからだろう。それと同時に、はしがきを書くことによって、ゼミ生の記憶を心に留めようとしていたこともあったかもしれない。同じゼミ生であってもその印象に濃淡が生ずることは避けられないが、できるだけ全員に目を配り、彼や彼女らの良質な部分を捉え励まそうとしてきたつもりである。そんな眼差しを受け止めてもらえたらば、それに勝る喜びはない。

 続く第二部には、ゼミナールの紹介文をはじめとして、この間ゼミで取り上げたテキスト、さらには卒業したゼミ生の名簿などを載せてみた。ゼミの活動記録をこうした形で残しておきたかったからである。これを見ると、高橋ゼミがどんなゼミであったかがわかるだろう。そして、最後の第三部には私自身の記録を載せてみた。一教師としての履歴や業績を記すとともに、自分史の一部を語っているかなり私的な文章もあわせて紹介してある。年老いて羞恥心も少なくなってきたので、こんなものが書けるようになったのであろう。「懐かしい聲」や「遠ざかる跫音」が懐旧の念を誘うのである。

 この冊子のタイトルについてはだいぶ迷った。「懐かしい時間」、「遠ざかる日々」、「ささやかな記憶」などとあれこれ考えたが、結局、最後に書いた文章のタイトルをそのまま使うことにした。今の自分を素直に語ったものなので、やはりどこかに愛着があるからなのかもしれない。暇にまかせて気儘に文章を綴ること、これが隠居後の愉しみとなる。でき得れば、弛(たる)みのない勁(つよ)い文章を綴ってみたいものである。

第2号『「働くこと」の周縁から』

はしがき
第一部 釧路調査覚え書き─自立支援, 「中間的就労」そして働くということ
 1.釧路まで
 2.釧路にて
 3.釧路から
 4.何処へ
第二部 大阪調査覚え書き─自治体による就労支援のさまざまなかたち─
 1.大阪雑感─「ディープサウス」を徘徊して─
 2.自治体による就労支援の意義
 3.自治体による就労支援のかたち─二つの事例から─
 4.釜ヶ崎にて─失業と貧困の原点から─
第三部 静岡調査覚え書き─若者の自立と就労支援の課題─
 1.若者たちと就労支援
 2.ひきこもる若者たち
 3.漂流する若者たち
 4.「静岡方式」の展開
 5.「ほどよい」働き方を求めて
補 論 生活保護と就労支援の課題─多様な自立を支援する社会的包摂の試み─
 1.生活保護の見直しと就労指導
 2.生活保護と「自立支援プログラム」
 3.自立支援と「中間的就労」
 4.寄り添い型の就労支援へ
あとがき

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「はしがき」から

 「裸木」第2 号のテーマは、昨今各地の自治体で取り組まれるに至った就労困難者に対する自立支援や就労支援の実情を明らかにしながら、そこから浮かび上がってきた「働くこと」をめぐる問題のあれこれを整理してみようとするところにある。できうるならば、生真面目ではあるが面白くもない調査報告を少しは超えようと意図していたこともあって、タイトルを「『働くこと』の周縁から」としてみた。いささか格好良すぎるタイトルなので、羊頭狗肉であるとの評は免れないであろう。

 著作とは言っても薄い冊子のようなものなので、内容に関してここでもっともらしく触れることは避けて、本書を刊行することになった経緯についてのみ、ごく簡単に紹介しておくことにしたい。本書のもとになった論文は、釧路と大阪それに静岡で実施された自立・就労支援に関する三つの調査報告と、同じテーマに関するごく短い小論である。三本の調査報告は、同一のタイトルで『専修大学社会科学研究所月報』のNo.582(2011 年12月)、No.597(2013 年3 月)、No.604(2013 年10 月)に掲載されたものである。また補論として収録したものは、やはり同一のタイトルで『都市問題』Vol.105(2014 年7 月)に掲載されたものである。いずれもごくわずかの加筆、修正を行っただけで、ほぼ原文通りのままにしてある。

 三本の調査報告の骨格部分は、すでに拙著『現代日本における労働世界の構図-もうひとつの働き方を展望するために-』(旬報社、2013 年)に収録済みなので、いまさらことあらためて纏めなくてもいいようなものであるが、この本に収録する際には、一応アカデミックな著書のスタイルだけは維持する必要もあって、調査報告として纏めた際に気儘に書き散らした「遊び」の部分は、あえてすべて削除してある。しかしながらよくよく考えてみると、これらの調査報告の面白さはこの「遊び」の部分にあり(ここにしかないようにも思われるが…)、それを削除したままにしておくのは、著者としてはいささか名残惜しくもなってきたのである。

 研究グループの同僚の一人からは、「遊び」の部分はそれなりに面白いところもあるけれど、筆が滑り過ぎて余計なことまで書かれていると冷やかされたことがある。確かに品のない文章も多々あって、そこまで含めて収録するのは気が咎めないでもなかったが、品のない人間が品のない文章を綴るのはいわば自然の理なのであって、それらも含めていかにも自分らしい気がするのである。三本の調査報告を比較的スムーズに書き進められたのは「遊び」の部分があったからであり、さらに包み隠さず本心を明かすならば、「遊び」の部分を書きたいがために調査報告を書いたようなところさえ無きにしもあらずである。

 定年も間近となった老境に入ると、すっかり羞恥心も消え失せ、「遊び」ばかりが独り歩きし始めるようなことにもなる。ここでいう文章における「遊び」は会話における「笑い」にも通じるところがあって、「遊び」のない文章や「笑い」のない会話にはいささか堅苦しさを覚え、居心地の悪さを感ずるようになってしまった。そんな心境にあることが、本書を纏めることになった誘因とでも言えようか。こんなものを真面目に読もうとする人がいったい何人いるのかわからないが(たぶんいないであろう)、あらかじめ読者諸氏のご寛恕を請うておく次第である。

 三本の調査報告の元になった実態調査は、専修大学社会科学研究所の研究助成によって可能となった。そしてまた、ここまで気儘に調査報告を纏めることができたのは、気心のみならず品のない冗談(そんな冗談を口にしたのは、もしかしたら筆者だけかもしれないのだが)までもが遠慮なく行きかうことになった研究グループのメンバーのおかげである。町田俊彦、福島利夫、黒田彰三、宮嵜晃臣、兵頭淳史、鈴木奈穂美、小池隆生の同僚諸氏にこの場を借りてお礼を述べさせていただきたい。そしてまた、文中にM某とかH某とかF某などと称して勝手に登場させてしまったことに関しては、心からのお詫びを申し上げたい。洒脱な文章だとか軽みのある筆の運びだとかと褒めてもらいたいのはやまやまだが、多分それは無理な望みであろうから、年寄りの戯言だと思って許していただきたいものである。

 専修大学に転職する前の勤務先である㈶労働科学研究所にいた頃は、調査屋としていくつもの調査に首を突っ込んできたが、グループでの調査がこれほどまでに面白いものになり得るとは、これまでついぞ知ることがなかった。存命中にその面白さを実感できて、著者としてこれ以上の喜びはない。これは嘘偽りのない本心である(笑)。

 最後に、奥付にある「敬徳書院」なる発行所について一言触れさせていただきたい。筆者は定年後は閑居の身となり、これまで以上に気儘に暮らしたいと思っているのだが、その際の一つの愉しみとして、すでに書き散らしてきた文章やこれから書き散らす予定の文章を、折々に纏めてシリーズものの冊子にしてみたいと考えている。老後の愉しみとしてやるのであるから、自己満足そのものであり、そんな出版物が売れるはずもない。どこにも引き受け手はないであろうから、そこで勝手に、一人出版社あるいは自分出版社を立ち上げようと思ったのである。

 出版社の名前を考えるのも愉しみの一つなので、あれこれ無い知恵を絞ったが、何処にもない出版社となるとそうは思い浮かばないものである。結局、母方の曽祖父佐野喜平太が自らの住処に名付けた「敬徳書院」の名を拝借することにした。彼は書籍の蒐集家でもあり、本に囲まれた生活を好んでいたようで、蒐集された膨大な書籍は、戦後になって新潟大学の図書館に移管された。今でも「佐野文庫」として収蔵、展示されているはずで、以前分厚い目録を手にしたことがある。終の住処となった家の門には、書家としても名の知られた副島種臣の筆になる「敬徳書院」の扁額が掛けられていたらしい。敬すべき徳など持たぬ人間が「敬徳書院」を名乗るなどおこがましい限りであるが、こうして先祖にわずかばかりの敬意を表した次第である。

 本書はその「敬徳書院」から刊行される二冊目の出版物となる。できうれば、わずか三号で廃刊の憂き目を見た「カストリ雑誌」(三合飲むとつぶれると言われた粗悪なカストリ酒にかけている)まがいのものにならないように努めたいのだが、老後の道楽の出版社なのでそうなる可能性は十分にある。

第3号『カンナの咲く夏に』

はしがき-カンナの咲く夏に-
第一部 定年前夜を迎えて
第二部 遠ざかる跫音
 一 「労働科学研究所」のころ
 二 「かながわ総合科学研究所」にて
第三部 さまざまな旅のかたち
 一 定年を前にした旅から
 二 玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-
 三 瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-
 四 晩夏の日本海紀行-2018年晩夏、秋田、山形、新潟-
あとがき-「雪のある風景」から-

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「はしがき」から

 「裸木」と題した冊子も今回で3冊目となる。3号まで続けば、シリーズものになったと言っても悪くはなかろう。今回はエッセーらしきものを集めてみたので、過去の2冊よりも読み易くなっているような気もする。手に取っていただいた方々に、そう思っていただけたならば、店主としては大変嬉しいのだが…(笑)。ついでに、はしがきやあとがきに関しても、あまり形式に囚われることなく、読んでもらえるような文章を並べてみた。

 今回もあちらこちらに綴ってきたものを素材にしながら、少しばかり手を加えて読めるものに直したつもりである。暇を持て余した折にでも、そしてまた退屈しのぎにでも、あるいはまた冷やかしついでにでも、この冊子を広げてもらえたならば、それに勝る喜びはない。以下の文章は、NPOかながわ総研が発行している『研究と資料』の巻頭言(No.163、2010年10月1日)として書いたものである。昨今の令和騒動を皮肉りたい気持ちから(令和なんかもうええわ-笑)、はしがきに使いたくなったのかもしれない。

 カンナの花が好きである。大振りの葉に高く伸びた茎、原色のような赤や黄色の花といういささか単純すぎる造形が、夏によく似合っているように思う。田舎の庭先や道端に咲いているカンナを見ると、いつも気持ちが少しばかり昂ぶる。そんなこともあって、3年程前にベランダの鉢に球根を植えてみた。鉢植えなので何とも痩せぎすだが、今年の夏もわが家のカンナが花を咲かせた。

 なぜこんな話から書き出したのかというと、2010年8月14日の『朝日新聞』の夕刊に、詩人の茨木のり子の作品「根府川の海」が紹介されていたからである。「あの夏 赤い花」と題した記事によると、彼女は敗戦の翌日学徒動員先の工場から実家に帰る途中、「東海道の小駅」で「赤いカンナの咲いている駅」を通っており、その時の記憶が、「根府川の海」に描かれたのだという。この詩には、記事が言うように「戦争で失った青春への万感」の思いが込められているが、8年後に同駅を再び通過した彼女は、「女の年輪をましながら」「ひたすら不敵なこころを育て」てもいたようだ。

 戦後65年を経ても、駅の線路脇には今でもあの時のように「カンナの花が揺れ」ており、「眼下に相模湾がきらめ」いているという叙情溢れる記事を読んで、今は無人駅となった根府川駅に出掛けてみたい、そんな気持ちにさせられた。この記事にはもしかしたら大きな反響があったのか、同紙8月19日付の神奈川版にも3枚の写真入りで取り上げられた。

 そこに登場した詩人の新川和江は、「ぱあっと視界が開けて海と赤い花が見え、憧れの先輩だった茨木さんはこれをご覧になったんだなあと、列車で通るたびに車窓に張り付きました」と語っている。戦争の記憶を共有していたが故に、彼女の目にもまた「海と赤い花」が鮮烈に焼き付いたのであろう。

 その翌日20日付の夕刊には、茨木のり子の初の回顧展が高崎市で開かれているとの記事が掲載されている。この記事は、夫の死後に書かれたが生前には発表されなかった「二人だけの濃密な空間」を描いた作品(それらは詩集『歳月』として刊行された)に注目し、「メッセージ性の豊かな詩風」とは対照的な側面、とりわけ「深く凛とした死生観」に注目している。

 これらの記事の影響もあったのか、9月12日付の『しんぶん赤旗』の日曜版にも回顧展の記事が掲載された。さすがに『しんぶん赤旗』の記事らしく、詩人は「戦争や天皇制を鋭く批判する一方、日本に蹂躙された国や民族を忘れてはならない」と述べていたことを紹介し、韓国や韓国の詩人に寄せた強い関心にも触れていた。

 この記事が言うように、彼女は「貫く人」だったのだろう。では何を貫こうとしてきたのであろうか。「根府川の海」のような形でマスメディアが紹介することは、恐らくないのであろうが、余分なものをすべて削ぎ落とした「メッセージ性の豊かな詩風」の作品にこそ、その相貌ははっきりと現われている。

 1975年10月のニューズウィーク誌との会見で、戦争責任を問われた昭和天皇は、「そういった言葉のアヤについて、文学方面はあまり研究していないので、お答えできかねます」などと答えたのであるが、詩人は「その人」の発言を許すことが出来ず、怒りに満ちて次のように書いている(「四海静波」)。
 
  思わず笑いがこみ上げて
  どす黒い赤い吐血のように
  吹き上げては 止まり また吹き上げる

 「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で」(「わたしが一番きれいだったとき」)と書いて戦争の傷跡を胸底に記憶してきた詩人には、天皇の発言が、文学を、言葉を、そして過去を冒涜するような許しがたい発言に聞こえたに違いない。「鄙ぶりの唄」と題した作品では次のように言う。

  なぜ国歌など
  ものものしく歌う必要がありましょう
  おおかたは侵略の血でよごれ
  腹黒の過去を隠しもちながら
  口を拭って起立して
  直立不動でうたわなければならないか
  聞かなければならないか
  私は立たない 坐っています

 過去を記憶することへの並々ならぬ決意である。戦後生まれの私のような人間にとっても、8月は戦争を記憶する月となる。高木俊朗の『抗命』に描かれたことでよく知られているようだが、「白骨街道」と呼ばれるような惨状をもたらしたインパール作戦を、前線でではなく安全な後方陣地で指揮し、補給を断たれて疲弊し尽くした兵士達に無謀な突撃を繰り返させた牟田口廉也中将は、参謀部付の将校の前で次のように言ったらしい。「これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失ったことは、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人(天皇の尊称-筆者注)や、将兵の霊に相済まんと思っているが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」。

 それを黙って聞いていた部下の藤原参謀は、「司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりはしません。今度の作戦の失敗は、それ以上の価値があります」と、表情も動かさずに激しい口調で言ったという。

 同じようなことは昭和天皇にもあったようだ。「退位すべきかと思うが」と侍従長に語ったという。自らの決断を回避した人間の卑しさである。牟田口廉也は腹を切ることもなく、軍人恩給までもらって戦後を生き延び、天寿をまっとうした。退位どころか誰よりも先に自決すべきであった「その人」も、人間であることを宣言し、全国各地を巡幸し、最後は平和主義者にまで祭り上げられて、在位したまま天寿をまっとうした。詩人の言うように、「とてつもないブラックユーモア」ではある。

 こうした現実に、彼女の魂は「どす黒い赤い吐血」を吹き上げたのであろう。昭和天皇に倣ってわれわれ下々の人間も大勢に靡くことで一貫しているが、この詩人は、過去を忘却しようとする現実を峻拒することで一貫している。その美しさはまるで夏のカンナのようだ。

死後20年以上も経った今年の春に、『寛永主従記』が刊行されて話題となった田宮虎彦にも、似たようなところがある。「落城」では、藩主と家老陸奥との間で次のような会話が交わされる。「陸奥、もはや恭順はかなわぬか」「殿よ、この僅か十日に足りぬ間に、女子供までがいのちを捧げつくしました。その無惨な生命が今さら恭順でまたと生きかえりましょうか。陸奥も一両日のうちにこの皺腹を割きますぞ」。

 また「足摺岬」の末尾近くでは、死んだ妻八重の弟で特攻隊帰りの龍喜に、「誰のために俺は死にそこなったんだ。負けたもくそもあるものか。俺はまだ負けてはおらんぞ。俺に死ね死ねといった奴は誰だ、俺は殺してやる、俺に死ね死ねといった奴は、一人のこらずぶったぎってやる」と叫ばせてもいる。

 こうしたところにはっきりと窺えるのは、「天皇の戦争責任の取り方に対するある疑念の情」、あるいは「国民は忠義を尽くして犠牲になったのだから、その忠義に見合う行いを天皇にも要求したい、という心情」(鈴木貞美)であろう。このような田宮が自称するところの庶民的な正義派の姿勢は、彼の歴史小説に変わることなく貫かれており、歴史に仮託した作品群を通じて、実は天皇制批判や戦争批判をおこなっていたのである。

 戦後の文壇に華々しく登場した評論家たちからは、いかにも旧いとか感傷的過ぎると揶揄されもしたが、硬質な文体に支えられた彼の頑ななまでの姿勢は、今でも燻し銀のように光っている。瀧井孝作は、田宮の歴史小説には陸奥のような「性根のある人物」が出てくるので好きだと書いているが、「性根のある人物」とは何とも含蓄に富んだ表現ではないか。そうした人物を配することによって、上に立つ人間のいかにも見苦しくかつまた矮小な有り様を、鋭く炙りだしていたのである。

 こんなふうにして、あれやこれやをたいした脈絡もなく思い返しているうちに、「韓国併合100年」の年の暑かった夏も、ようやくにして過ぎ去ろうとしている。過去を記憶することなしに、よりよき現実が生まれよう筈もない。「赤いカンナ」のような詩人は、「六月」という作品で次のように書く。

  どこかに美しい人と人との力はないか
  同じ時代をともに生きる
  したしさとおかしさとそうして怒りが
  鋭い力となって たちあらわれる
 
 「性根のある人物」でもあった「貫く人」の放つ言葉は、いっそうの輝きを増しながら、「美しい人と人との力」をゆっくりとしかし確実に立ち上がらせていくに違いない。

第4号『見果てぬ夢から』


はしがき
第一部 海外探訪私記
 一 韓国再訪の旅から
 二 海外探訪あれこれ
第二部 東日本大震災私記
第三部 最後の論文から
 一 「労働の世界」の変容とその行方
 二 「就労の困難」と「困難な就労」
あとがき

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「はしがき」から

 シリーズ「裸木」と銘打ったこの冊子も、今回でようやく第4号となる。何となく惰性で作っているような気もしないではないが(笑)、この調子で老後の道楽を続けていきたいものだと思っている。ここに収録した文章は、この間毎週のように書き綴ってきたブログにすでに掲載ずみのものである。こうして、ブログに投稿したものを毎年冊子に纏めてみる、そんなサイクルでこれからも続けていくつもりである。

 今回も、前号の『カンナの咲く夏に』と同じように三部構成としてみた。まず第一部では、「海外探訪私記」と題して、海外に出掛けた際のあれこれの四方山話を取り上げている。続く第二部では、「東日本大震災私記」と題して、3.11に思いを寄せて綴った文章を整理して載せてみた。今このはしがきを書いているのは2020年3月10日だから、明日であの日から9年の歳月が流れたことになる。東北に育った人間として、被災した人々のことをいつまでも忘れないでいようと思っている。

 そして最後の第三部では、「最後の論文から」と題して、定年前後に書いた二つの論文を収録してみた。研究者を廃業した人間が、こうしたものを載せてみてもどれほどの意味があるのかわからないが(多分ないだろう)、個人的な記録として収録しておくことにした。

 ところで先の第3号では、はしがきとあとがきの双方に、ブログに投稿したエッセーらしき文章を使ってみた。読んでもらえるはしがきや、読んでもらえるあとがきにしてみたかったからである。こうした試みが自分でも少しばかり気に入ったので、今回も同じようなスタイルを踏襲し、冊子のタイトルである『見果てぬ夢から』にふさわしい文章を選んでみた。以下のものがそれである。

 はしがきに用いたこの文章は、かながわ総研の事務局長をされておられる石井洋二さんから、『研究と資料』(No.213、2019年4月1日)の巻頭言に何か書いてくれないかと頼まれた際に、「二つの映画から」と題して書いたものである。私の肩書きを、NPOかながわ総研理事とともに「敬徳書院」店主とさせてもらったので、なんともいい気分であった(笑)。

 落語にも詳しいという石井さんもなかなか芸のある方で、私にメールを寄越す時には、必ず自作の句が添えてある。暮れのメールにあった「読みかけし 本の多さや 年果つる」もいい句だと思ったが、今回は「代替わり 祝賀は拒絶 荷風の忌」であった。調べてみたら荷風忌は4月30日で、『新日本大歳時記』によれば、彼は「巌谷小波(いわや・さざなみ)の木曜会などで句作し、『荷風句集』がある」とのことだった。

 何も知らない人間なので、荷風に句集があることを私は初めて知ったが(岩波文庫にも『荷風俳句集』がある)、ひょんなことをきっかけにあれこれと関心が広がっていくのはなかなか面白いものである。荷風であれば、馬鹿げた令和騒動などに何の関心も示さなかったであろう。彼はいったいどんな句を詠んだのか知りたくなって調べてみたら、「色町や 真昼しづかに 猫の恋」とか「葉桜や 人に知られぬ 昼遊び」といった『墨東綺譚』の作者らしい句もあった。女性を詠んだ句にもいたく感心した。

 2018年の3月に定年退職した後、8月にはネット上に「敬徳書院」という名の自分出版社を立ち上げ、勝手にそこの店主に収まっている。そのついでに、ブログなるものも始めた。まったくの老後の道楽である。ブログには週に一度ぐらいの頻度で投稿しているので、そこに書いた文章の一部を利用させてもらって、巻頭言に代えることにした。

 定年退職した2018年の暮れに、二部のゼミを卒業した学生たち数人と会う機会があり、その飲み会の場で、あるゼミ生から「最近見た映画でお薦めのものは何ですか」などと尋ねられた。よくある会話である。映画ではなく本のこともある。しかしながら、その後見ましたとか読みましたといった返事を聞いたことがないから(笑)、あまり難しく考えることもない、よくある世間話のひとつとでもとらえておけばいいのであろう。

 私自身も、酒の席であれこれと教えてもらうことも多いのだが、いつもメモも取らないで拝聴しているだけなので、酔いが覚めた翌日にはすっかり忘れてしまっている(笑)。忘れたのなら、メールや電話ででも尋ねればいいのであろうが、面倒なのでついついそのまま放置してしまっている。そんなことの繰り返しである。

 ところで先の場で、私がお薦めの映画としてあげたのは「万引き家族」であった。是枝裕和監督のこの作品は、第71回のカンヌ国際映画祭において、最高賞であるパルム・ドールを獲えしたことで大きな話題となった。私がこの映画を見に出掛けたのは、そんな立派な賞をもらった作品とはいったいどんなものなのかといった、なんともミーハーな動機にすぎなかったのだが…。是枝作品を映画館で見たのはこれが最初なので、この映画について何かを偉そうに語る気など、無論のことない。

 見終わった後近くのレストランで遅い夕飯を食べながら、この映画についての感想を連れ合いと語り合ったりした。私はと言えば、血縁的な家族に家族の実質がいつも存在するとは限らず、それとは逆に、血縁もなくしかも脱社会的あるいは反社会的な人間の結びつきの中にさえも、家族の実質が芽生えていくこともあることを教えられた。この対照的な二つの世界が、絡まり合いながらそしてまたかなりリアルに描かれていたので、家族のありようを深く考えさせる興味深い作品だと思った。

 「万引き家族」はいかにも日本的な映画である。そう感じたのは、現代の日本社会が宿している「貧困」という影を、家族のありようを探ることによってさまざまな角度から切り取っていたから、ではない。ストーリー展開も、俳優陣の科白や演技にも感じたのだが、描かれた内容に反して、最初から最後までなんとも細やかで静かで奥行きのある映画として作られていたので、そう感じたのである。

 取り立てて紹介すべきドラマチックなエンディングもないので、どこか私小説的な匂いを感じさせる作品でもあった。それだからなのか、この映画を見たゼミ生に言わせると、見終わって「モヤモヤ感」(なんとも今風な表現ではある-笑)が残ったらしい。こうしたすっきりしない世界にも人間の真実は確かに存在する。そして私は、そんな真実がかなり好きな方である。

 ところが、人間は社会的な存在でもあるので、真実はこうした私小説的な世界にのみ顔を出すというわけではない。秋には、横浜の伊勢佐木町にあるシネマリンというミニシアターに出掛け、「万引き家族」とは真逆とも言えるような映画を見た。その激しさと熱さとスピード感で、見る者を圧倒せずにはおかない「1987、ある闘いの真実」(監督はチャン・ジュナン)である。この映画は、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領が支配する軍事政権下の韓国を舞台に、現実に起きた民主化抗争を、史実に即しつつかなりリアルに描いたものである。

 新聞の記事で紹介文を読んでいたので、この映画に興味を持ってはいたし、知り合いの研究会仲間からも勧めらたこともあって、是非見たいと思ってはいたが、どこで見ればいいのかわからずにいた。そんな時、たまたま横浜で見ることができることを知って、出掛けたというわけである。

 軍部の独裁から民主化へと向かう大きな転換点となったこの抗争は、1987年1月に起きた一人の学生の拷問死事件に端を発する。必死にその「事実」を隠蔽しようとする権力に抗して、新聞記者や宗教家に加えて、検事や看守までもが「真実」を明らかにしようと動き出す。そこに生まれる連係プレーとその息詰まるような展開が、見る者をスクリーンに釘付けにするのである。娯楽として鑑賞することを許さない作品ではあるが、敢えて言えば、まさに第一級の娯楽作品でもある。

 学生から始まり市民をも巻き込んだこの民主化抗争は、激化するとともに大規模化し、6月9日には延世大学の学生だった李韓烈(イ・ハニョル)が催涙弾を頭部に受けて重体に陥る。燃え上がった反政府運動は韓国全土に広がり、民主化を求める勢力がついに闘いに勝利するのである。6月29日には、大統領直接選挙制の実施、逮捕されていた民主化運動家の釈放、そして言論の自由の実現が発表されることになる。先の李は7月5日に亡くなるのであるが、9日に行われた彼の葬儀には100万人もの人々が参列したのだという。

 ラストシーンで描かれるのは、バスの屋根の上に立って堅く手を繋ぎ合うリーダーたちと、その前に集まった大群衆のシーンである。その圧倒的なまでの迫力に負けて、年甲斐もなく私は涙を拭った。こうしたところにも人間の真実は確実に存在する。そして私は、こうした真実も昔からずっと大事にしてきたつもりである。

権力の理不尽に抗うことを忘れ、無視し、冷笑して、権力におもね続ける社会は、そしてまた、権力の理不尽に抗うために手を繋ぎ合うことのできない社会は、逼塞し閉塞し萎縮した社会のままに終わるほかはない。いま「2019、ある闘いの真実」を描かなければならないのは、われわれ自身の方なのではあるまいか。

 その後韓国では「キャンドル市民革命」が進行し、朴槿恵(パク・クネ)大統領は退陣に追い込まれた(この市民革命の意義については、白石孝編著『ソウルの市民民主主義』(コモンズ、2018年)を参照されたい)。このような運動を背景として誕生した文在寅(ムン・ジェイン)政権は、北朝鮮との3回にわたる南北首脳会談を実現させ、朝鮮半島をめぐる危機的な状況を大きく変える歴史的な一歩を踏み出すのである。

 上記のような隣国の動きは、わが国のありようとは余りにも対照的である。安倍政権は、拉致問題をただただ政権維持のための「だし」に使うだけで、「圧力」一辺倒の無意味な姿勢を再考することもなかったし、それどころか、「国難」を呼号して軍備の増強に狂奔し、トランプ政権を喜ばせただけだったからである。民主化抗争の弱さが、そしてまた市民革命の不在が、こうした事態をもたらしているのであろう。そんな思いにとらわれた映画だった。