シリーズ「裸木」と名付けた冊子を作成するのが、「敬徳書院」の店主である私の老後の愉しみ、いわゆる「道楽」ということになる。辞書によれば、道楽にもいろいろな意味があって、本職以外の趣味であったり、酒色や博打などの遊興であったり、あるいはまた、仏道修行によって得られた悟りの愉しみであったりもする。でき得るならば、「悟りの愉しみ」にまで至りたいところだが、私のことだから恐らく無理であろう。「遊興」あたりがせいぜいのところである。

 この先何号まで続くのかわからないが、もしも元気であれば、一年に一冊のペースで作成して、友人や知人やゼミの卒業生などに配ろうかと考えている。他人が老後の愉しみで作るような冊子を、身銭を切ってまでして買うような奇特な人は恐らくいないであろうから、定価を付けてはあるが、大部分は贈呈するつもりである。「時間はあるが金はない」身となった年金生活者にしては、身の程もわきまえない大盤振る舞いと言うしかなかろう。

 「裸木」は「らぼく」ではなく「はだかぎ」と読むようだが、これも辞書によれば、「バクチノキの異名。樹皮がはげ落ち人肌色であることから、博打に負けて裸になった人にみたてていう」とある。「バクチノキ」などという植物が存在することを、私はこれまでまったく知らなかった。また俳句歳時記によると、「はだかぎ」は「冬になって葉を落とし尽くした木。あたかも枯れたかのように見えるが、枯れ死した木ではない。枝々があらわになった姿を『裸木』ともいう」とある。

 店主としては、花も実も葉も落ちて幹と枝だけにはなったものの、晩秋の澄み切った空に向かって、誰に煩わされることなく一人すっと立つ木を、自分自身の今の姿に見立てたかっただけなのだが…。もちろんながら、そうありたいという願望である。そうした意図からすれば、「はだかぎ」ではなく「らぼく」と読ませた方がぴったりのような気がする。偉そうに見られるのが嫌なあまり、人前では「『裸体』ではなくて『裸木』ですので、お間違いないように」などと口にすることがある。ついついふざけ過ぎるのが、店主のいつもの悪い癖である。こんなことを笑いながら語っていると、その手の下がかった話が好きな人物のように思われることもよくあるが、そうした感受性の鈍い人を私はもともと相手にするつもりはない。

 「裸木」といった言葉に惹かれるようになったのは、還暦を迎えてからである。2010年の年賀状に書いたことがあるのだが、たまたまある時、「晴耕雨読」(耕す田畑など何もないのだから、正しくは晴遊雨読とでも言うべきであろうが)の合間に新聞の切り抜きを整理していたところ、昔好きだった作家畑山博の小さな文章を見つけた。若い頃は気負って「俺はもう枯れている」が口癖だったという彼は、高校中退後に旋盤工などの職を経て、1972年に「いつか汽笛を鳴らして」で芥川賞を受賞し、2001年に亡くなった。その彼が、丹沢に出かけた折に、群生している仲間の木々から少し離れて立つブナの枯れ木を見て、次のように書いている。

 去年の秋、20年ぶりに登った丹沢で、とてもいい枯れ木を見た。仲間の木々の群生しているところから少し離れて、一本だけ雑木林の中にいたブナの木。/紺碧の空。灰色の木肌。そして私はこう思った。/枯れ木は、そいつが本物なら、どこから生えているのか、異質なその姿からすぐに根元を見分けることができる。拠り立つ所が分かる。きっ先が天のどこを指しているかも、むだな葉や花がないのでよく分かる。そんな枯れ木になりたいものだ。(『朝日新聞』2000年8月18日夕刊)

 「偽物」とまでは卑下しないにしても、「本物」などとはほど遠い人間なので、とても畑山さんの言うような枯れ木になどなれそうにはない私だが、こんな文章を読むと、「枯れる」というのもなかなか味わい深い人生の営みなのかもしれないなどと思えてくる。そこには、「裸木」の持つもう一つの興味深いイメージが示されているのではなかろうか。似たような捉え方は、他の作家の書いたものからも読み取ることができる。結城信一の「冬木立の中で」には、以下のような文章がある。

 落葉したあとの無数の樹木は、先細りになりながら、空を抱きこみ、明るく賑やかに絡みあひ、睦まじげな長い会話を続けてゐる。葉を落としつくした気楽さが、いまは饒舌へとかりたててゐるかに見える。そこには、初冬の侘しい趣きは、少しも見られない。小鳥たちも、風通しのよくなった空間を、むしろ居心地のよい世界と心得て、暢びやかな飛翔を繰返す。

 自分もまた、定年を迎えてこれまでの仕事からすっかり足を洗った。だからこそ、「葉を落としつくした気楽さ」から「饒舌」へと向かっているに違いなかろう。傍迷惑も顧みずに、そしてまた恥ずかしげもなくはしゃぎ回っているのは、きっとその所為である。荷風の「断腸亭日乗」をもじるならば、「談笑亭日常」あるいは「艶笑亭日常」とでも言えようか(それを過ぎれば、きっと「徘徊亭日常」となるはずである)。

 もっとも、「饒舌」が「饒舌」のままに終わるはずもない。その後には、結城が言うような「暖かくうるんだ春の空や、強烈にぎらつく夏の空は、おそらくほかの誰かのものである」といった寂寞とした気分が、拡がって行くことになる。藤沢周平は「静かな木」で書いている。「福泉寺の欅も、この間吹いた強い西風であらかた葉を落としたとみえて、空にのび上がって見える幹も、こまかな枝もすがすがしい裸である。その木に残る夕映えがさしかけていた。遠い西空からとどくかすかな赤みをとどめて、欅は静かに立っていた」。

 そして小説の主人公は、「木の真実はすべての飾りをはらい捨てた姿で立っている、今の季節にある」といった「老年の感想」を捨てきれないのである。「あのような最期を迎えられればいい」と思っているからに違いない。虚飾を捨てた裸木は、「饒舌」の時期を経てゆっくりと静かな木へと向かっていくのであろう。

 

   シリーズ「裸木」の刊行物

    創刊号 『記憶のかけらを抱いて』(2017年)

    第2号 『「働くこと」の周縁から』(2018年)

    第3号 『カンナの咲く夏に』(2019年)

    第4号 『見果てぬ夢から』(2020年)

    第5号 『逍遙の日々へ』(2021年)      

    第6号 『遠ざかる跫音』(2022年)

    第7号  『いつもの場所へ』(2023年)