早春の南信州紀行(一)-千畳敷カールから元善光寺へ-
ようやくにして「早春の和歌山・奈良紀行」を書き上げたので、あと残るは「早春の南信州紀行」だけである。時間の経過とともに旅の記憶も薄らいでいくのは必定なので、すぐに取り掛かった方がいいのかもしれないとは思った。しかし、「早春の和歌山・奈良紀行」でいつも以上にエネルギーを費消したので、気分転換を兼ねて少し中休みを入れることにした。のんびり気儘にブログに向き合わないと、楽しさは半減してしまうからである。年寄りに無理は禁物である。
中休みの間に、シリーズ「裸木」の最終号に掲載することにしている写真とはしがき、あとがきをブログにアップしてみた。それどころか、32葉の写真についてはラインで繋がっている家族や友人、知人にも送りつけた。考えてみれば傍迷惑も顧みない傍若無人の振る舞いなのだが、もしかして、写真なら気楽に愉しんでもらえるかもしれないと思ったこともある。できることなら、ついでに褒めてもらいたかったこともあったろう。何人もの方がいい写真だと褒めてくれたので、少し(否、かなりか)嬉しかった。私と違って、皆心優しい人ばかりである。
この間ゴールデンウィークとも重なったが、「毎日が日曜日」のような暮らしを続けている身には、ゴールデンウィークなどどうでもいい存在なので、人出で混雑しそうな時にわざわざ外出する必要などまったくない。家で面白そうな映画を鑑賞し、時折気晴らしに散歩に出掛け、旨い夕飯を食べることが出来ればそれで十分である。狂想曲が終わって、普段の静けさに戻った。このところ五月晴れのいい日が続いている。この季節の爽やかな風を薫風とも言うが、新緑を渡る風が薫るように感ぜられるからであろう。春の到来の頃には風が光るのだが、初夏の到来の頃には風が薫る。外に出るたびに深呼吸したくなる。
そんなこんなでたっぷりと一休みしたので、今日から「早春の南信州紀行」に取り掛かることにした。この人文科学研究所の調査旅行は、3月11~13日に掛けて実施された。よく知られているように、長野県は広いので、地理的・気候的な特徴から北信(その中心となるのは長野市)、東信(上田市、佐久市)、中信(松本市)、南信(飯田市、諏訪市)の4地域に区分されるようだ。田舎の福島県が、浜通り、中通り、会津と区分されるようなものであろう。
今回の調査旅行で巡ったのは南信である。南信に属する諏訪には何度か出掛けたことがあるが、ここは南信地域の北の外れなので、本格的に南信の中央部にまで足を延ばしたのは今回が初めてである。初日の待ち合わせ場所は中央線の茅野駅であった。朝早くに新宿駅から全席指定の中央線の特急に乗り、茅野駅に降り立った。南信地域は県内では最も温暖で、冬でも雪は少ないらしい。そのうえこの日は快晴にも恵まれたので、実に清々しい気分である。山々の美しい残雪も遠望され、申し分のない旅の始まりとなった。
貸し切りバスに乗り、最初に向かったのは駒ヶ根市にある千畳敷カールである。一般車両の乗り入れが禁止されているため、菅の台バスセンターで路線バスに乗り換え、ロープウェイの起点となるしらび平駅から山頂に向かった。ロープウェイを入れた写真を撮りたくて山頂に向かう姿を下から追ったが、その勾配が余りにも急なので驚いた。終点は千畳敷駅だが、この駅は標高2,600メートルを超えるという。この駅の標高もそうだが、しらび平駅と千畳敷駅の標高差950メートルも日本一だとのこと。
千畳敷駅に到着し外に出てみたら、眼前に広がる広大な白銀の世界に圧倒され、心底驚いた。素晴らしいの一言である。それほど旅好きでもなく、山とは縁が薄かった私は、こうした光景をこれまでに一度も見たことがなかった。そんなわけで写真心がいたくくすぐられてしまい、地質学の専門家である同行のKさんの話をゆっくりと聞く心の余裕を失ってしまった。調べてみると、千畳敷カールとは、中央アルプス(木曽山脈)の宝剣岳の直下に広がる、約2万年前の氷河期に氷が山肌を削って形成した巨大なお椀型の窪地のことを指す。こうした場所を、ドイツ語ではカール日本語では圏谷(けんこく)と言うとのこと。ともに初めて聞く言葉である。宝剣岳を眺めていて初めて知ったが、山は独立峰を指すが、岳は連峰のなかの一段高いところだという。そんなことも知らなかった。
カールそのものは大小含めて日本の各地にあるようだが、そのなかで最大のものがこの千畳敷カールである。畳を約1,000枚敷けるほどの広さがあることから名付けられたとのことだが、まあそれだけ広いと言いたいのであろう。余りにも巨大なカールである。真っ青な空に鋭く尖った宝剣岳の黒い岩肌がところどころ露出し、その他は文字通り一面の銀世界である。青、黒、白の対照が余りにも鮮やかなので、息を呑むばかりである。宝剣岳まで登る登山者が、転々とごま粒のように見える。雪に日光が反射して眩しく、長時間眺めていると目が疲れる。サングラスを持参しなかったことが悔やまれた。展望台からは南アルプスも遠望された。こちらは優美な山並みであった。
昼食後ロープウエイで下山して、次の目的地である元善光寺に向かった。この寺は飯田市にある。長野市にある善光寺なら誰でも知っていることだろうが、元善光寺の方はどうだろうか。私も知らなかったが、他にも知らない人が多いような気もする。ではここはどんなところなのか、受け取ったパンフレットには、「一度詣れよ元善光寺 善光寺だけでは方詣り」とあって、その縁起が次のように記されていた。
元善光寺は、今から約千四百年前 推古天皇十年に、本多善光公によって開かれました。御本尊の一光(いっこう)三尊(さんぞん)阿弥陀如来様は、お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋(がっかい)長者の願いによって此の世に出現せられ、欽明天皇の御代に百済国からわが国へ渡ってこられましたが、蘇我氏と物部氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。本多善光公は信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人で、国司に従って都に上り、ある時 難波の堀江で宿命により一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って古里にお連れし 清めた臼の上に御尊像を安置し奉ったのが当山の起源です。
臼からは光明がさして光り輝き「御座光の臼」と呼ばれて今も当山の霊宝となっております。当地を座光寺と称するのもこの縁に因るものといわれております。その後四十一年間を過ぎ、皇極天皇二年に仏勅によって一光三尊阿弥陀如来様の御尊像が芋井の里(現在の長野市)に遷られる際に「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来りて衆生を化益(けやく)せん」との御誓願を御本尊様が残され、この時に授かった霊木をもとにして善光公自ら一刀三礼にて 御本尊様と同じ大きさの一光三尊仏の御尊像を彫られた上で この地に留められ、寺は元善光寺とよばれるようになりました。そもそも元善光寺の名は本多善光公の名に基づき、元善光寺の元は本元の意を表し、御詠歌の「月半ば毎に来まさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来より元善光寺と長野市善光寺の両方お詣りしなければ片詣りと云われております。
以上が、パンフレットに記された元善光寺の縁起である。調べてみると、本多は本田とも書くようで架空の人物だったとの説もあるとのこと。我々を前に寺の案内人が上記のような元善光寺の縁起を話してくれた。その話のなかに『平家物語』が登場したので気になって調べてみた。登場しているのは、『平家物語』巻第二の「善光寺炎上」(炎上は旧くは「えんしょう」と読ませたらしい)の段であり、そこには、治承3年(1179年)3月24日に信濃の善光寺が焼失した出来事が描かれている。それが主題なのだが、そこに元善光寺に関わる話も登場する。原文はネットで読めるが、読むのがとても面倒なのでここでは現代語訳のみを紹介しておく。
その頃、善光寺が炎上したという噂が聞こえた。善光寺の本尊の如来と申すのは、昔中天竺、舎衛国に、五種類の悪病がおこって、人々が多く亡くなった時、月蓋長者の祈願によって、竜宮城から、閻浮壇金(えんぶだごん)を手に入れて、釈尊、目蓮、月蓋長者が心を一つにして、鋳造された。一尺ニ寸の弥陀の三尊、人間界第一の霊験あらたかな像である。釈迦が亡くなって後、天竺に留まられること五百余年、仏法がしだいに東に伝わる道理によって、百済国におうつりになり、一千年の後、百済の帝、聖明王が、わが国の帝、欽明天皇の御代になって、その国からこの国へおうつりになって、摂津国(つのくに)難波の浦で、年月を送られた。
いつも金色の光を発せられていたので、これによって私年号を金光と号した。同(金光)三年三月上旬に、信濃国の住人、麻績(おうみ)の本田善光という者が、都へのぼったが、その如来におあい申したところ、すぐにお誘い申して、昼は善光、如来を背負い申し、夜は善光、如来に背負われ申して、信濃国へ下り、水内(みのち)の郡に安置し申してからこのかた、年月はすでに五百八十余年、炎上の例はこれがはじめとうかがっている。「王法つきるときは、仏法がまず滅ぶ」という。だからだそうか、「あれほど尊かった霊験あらたかな寺や神社の多く滅び失せたのは、王法が末になる前兆であろう」と、人は申した。
以上のような話を辿っていくと、霊験あらたかなる本尊が元善光寺にあったのはわずか41年間にすぎなかったことがわかる。ではそれほど立派な本尊が何故難波の浦などで見つかったのか、さらにはそれが何故元善光寺から善光寺に移されたのか、そんなことも知りたくなる。実は今回の人文科学研究所の調査旅行に出掛ける2週間前には、社会科学研究所の調査旅行が実施されており、私はそこにも顔を出した。その詳しい話は既にブログにて紹介済みなので割愛するが、その調査旅行の最後に奈良の元興寺を訪ねた。そこで初めて知ったのだが、538年に百済から伝わった仏教の受容を巡って、崇仏派の蘇我稲目(そがのいなめ)と排仏派の物部尾輿(もののべのおこし)が争ったのだという。
本多善光が難波の浦で本尊を見付けたのは、それが物部派によってうち捨てられていたからなのであろう。何やら明治の廃仏毀釈を思い起こさせるような事態である。ではこの本尊が信濃の善光寺に遷されることになったのはなぜか。調べてみてもその理由はよく分からない。仏の託宣、それを受けた天皇の宣旨等と記されているようだが、はっきりしない。俗説によれば、善光の夢に出た阿弥陀如来からお告げがあったと言う。そのお告げによれば、現在の長野市周辺で疫病が流行っており、病に苦しむ人を救うために私をその地に移すようにとのことだったらしい。
そんな夢のような話はともかくとして、元善光寺がなかなか由緒のある寺であることはよく分かった。そんな場所で案内人の話を聞いたのだが、その彼が至極真面目な顔をして次のような話をしたので笑えた。ひとつは、懐から小さな飾り物を出し、帽子の上に乗った紅い花を指して聞いた。「この花は何だか分かりますか。木瓜(ぼけ)の花です」。「ボケ防止」と言いたかったらしい。私には同行のFさんが口にしそうなダジャレのように思われた。
これなどは微笑ましいものだったが、もう一つの話の方が私にはいたく興味深かった。善光寺にもあったが、ここにも戒壇巡りがあった。真っ暗な回廊を手探りで進み、本尊の真下にある鎖を握って願い事をすれば叶うというのである。ここまでの話であれば別になんと言うこともないのだが、案内人はそれに付け加えて、「もしも柔らかいものに触れたらそれは女性のお尻ですから、間違えないように」などと真顔で語ったのである。大いに笑えた。こちらはいかにも私が口にしそうな話である。
私は外で写真を撮りたかったので、早々に寺から出た。そして折角だからと戒壇を巡った。私の前に女性がいないことを確認したのは言うまでもない。どこの神社仏閣もそうなのだろうが、元善光寺も「聖」と「俗」が入り交じったごく普通の場所なのであろう。坂を上り寺の裏手に出て、梅の蕾がほころび始めた南信州の春を堪能した。なだらかな四囲の山々もようやく緑に色づき始め、山笑うという表現に相応しかった。好天に恵まれた所為もあったかもしれない。

