早春の和歌山、奈良紀行(二)ー蜜柑の町有田にてー
調査旅行の一日目は、昼過ぎに新大阪駅で貸し切りバスに乗り、湯浅を巡っただけだったので、比較的ゆとりのあるスケジュールだった。「角長」の裏手には大山堀(だいせんぼり)があり、ここから醤油の原材料を運び込んだり、製品となった醤油を積み出していたのだという。それらの船が行き来していたのが山田川である。われわれは重伝建を巡ってからこの川を渡り帰路についたのだが、帰り間際に橋の上から暮れなずむ湯浅を撮ってみた。美しいが少し寂しさも感じられる橋上からの眺めであった。
湯浅から1時間ほどで、初日に泊まる和歌山駅の東口にあるのホテルに漬いた。和歌山市は大阪との県境にほど近い場所にある。県庁所在地がこれほど県の外れにある県も珍しいのではないか。この日の夜は結団式ということで近くの居酒屋に出掛けた。湯浅からの帰りに、結団式での乾杯の挨拶をお願いしますと研究会担当の長尾さんから頼まれた。いつも最年長の人が挨拶をすることになっており、今回は当然柴田さんがするものだと思っていた。しかし長尾さんの話では、彼が挨拶を辞退したとのことだった。そんなわけで挨拶を引き受けることにした。後期高齢者になると、特に変わり映えもしない単純で単調な生活が静かに続いていく。そんな暮らしに彩りを与えてくれるのが社会科学研究所の調査旅行なので、何時も愉しみにしていると言ったようなことを話した。
ホテルは和歌山駅の東口にあったので、和歌の浦や紀ノ川の河口を見損なってしまった。撮りたかった写真が撮れなくて残念であった。和歌の浦は昔は若の浦と言っていたらしいが、万葉の歌人山部赤人の歌以来和歌の聖地となり、それが県名ともなっていったとのこと。二日目に訪ねたのは、有田と高野口である。まずは有田から取り上げてみる。読み方は「ありた」ではなく「ありだ」である。現地に出掛けてきて初めて知った。
有田みかんはその名前ぐらいは誰でも知っていることだろうが、その産地で新たな試みが始まっていることは、関係者以外には余り知られていないのではないか。訪問したのは早和(そうわ)果樹園である。この果樹園は2000年に共撰組合として誕生し2005年に株式会社となっており、そこでのミカンの六次産業化が注目を集めているようだった。出掛ける前に、この会社の会長である秋竹新吾さんが書かれた本を読んでおくように勧められた。その本は、『日本の美味しいみかんの秘密 農業の六次産業化による奇跡の復活』(PHP研究所、2020年)というものだった。普段はビジネス書の類いはまったく手にしない私だが、今回は真面目に読んでみた。
みかんの産地としては和歌山が全国一の生産量を誇っており、440年以上もの歴史を持つ一大産地である。他にも愛媛や静岡、熊本、長崎などがみかんの産地として知られているが、和歌山には及ばない。この和歌山で生産されるみかんの半分以上を占めているのが有田みかんだとのこと。だが、近年はみかんの出荷量が激減しているようだ。生産量が最盛期だった1970年代には、全国で360万トンものみかんが出荷されていたらしいが、現在ではわずか2割の70~80万トンにとどまるのだという。そこまで減っているとは知らなかった。
昔私が幼かった頃は、炬燵を囲んでみかんを食べるというのが日本の冬の風物詩だったような気がするが、そうした光景が廃れてから大分時間がたつ。我が家のみかんの消費量もかなり減った。この冬など一度も食べなかったような気がする。近所のスーパーに行けば、実にさまざまな果物が並んでいるので、そちらに目を奪われてなかなか伝統的な果物であるみかんに手が出ないのである。もしかしたら、りんごやなしなども同じなのかもしれない。
そんなわけで、みかんの産地は軒並み苦境にあるのだが、にもかかわらず早和果樹園は年間12億円の売上高を記録しているのだという。しかもその8割以上が、みかんそのものではなく加工品による売り上げなのである。六次産業化による大きな成果であろう。みかんの加工品としてすぐに思い浮かぶのはジュースだが、それ以外にゼリーやジャム、コンポート、調味料などがあるという。こうした企業に成長するにあたっては、二つのエポックメイキングな事件があったようだ。
一つは、神奈川のみかん生産者であった早藤巌との出逢いである。彼はみかんの生産に携わりながら、生産方法や栽培手法を研究していた篤農家であった。先の秋竹の本には、視察に出掛けた際の印象が次のように描かれている。「そのころ早藤先生は、限られた面積でみかんを大量に生産する栽培法の開発に取り組んでおられました。その話を聞きつけ、有田の若手農家たちは神奈川県へと飛ぶことになりました」。「神奈川県で目にした早藤先生のみかん農園は、それはもう見事でした。一本の木になっているみかんの数が格段に多く、木の勢いも葉の量もみかんの色も、ほかの畑とは大違いでした。すばらしいと言うより、すごいと言ったほうがピッタリきました」。
この視察を契機として、早藤を顧問とする「早和蜜柑研究会」が立ち上げられることになった。早和果樹園の「早和」は、ここに由来するのだという。「私たちは、早藤先生の苗字から一文字いただき、研究会を『”早”藤先生と”和”む会』 と名付けました。先進的なみかんの栽培に情熱を注ごうとする若者に、熟練の農業技術者である早藤先生が手を貸してくれた、その瞬間でした」。有田のみかん作りに貢献した恩人を忘れることなく、会社名にまでした秋竹らの思いが胸に染みる、そんなエピソードである。
もう一つの事件は、2010年に情報通信技術を活用したこれまでにない新新たなみかんの生産に挑戦し始めたことである。日本の農産物の多くは、「農家の経験と勘」を頼りに作られており、有田の生産者もまた例外ではなかった。水分量の調節、肥料のやり方、 一本の木になる実の数量調整など、それぞれの農家が独自のノウハウを持っていたのである。みかん農家に跡継ぎがいて、親から子へとノウハウが引き継がれていた時代は、それで良かったかもしれない。しかしながら、跡継ぎがいなくなれば目に見えない経験と勘を引き継ぐことは困難である。
さらに、農家の間で「コスト意識」が育っていないことも、みかん生産を次世代に手渡せない理由となっていた。これまでのみかん農家は、家計と農業経営のどんぶり勘定で農業を営んできたし、みかんは市場に出荷されて初めて値がつくため、収入と支出の見通しを立てにくいという面もあった。秋竹は、「儲かる農業」にするためには、みかん農家がコスト意識と、自分で作ったみかんに自分で値をつけることが不可欠ではないか、と思ったのだと言う。
こうした考えを後押ししてくれるIT企業が、2010年に現れるのである。それが富士通である。富士通は、秋竹がハウスみかん栽培で蓄積した記録ノートを目にし、これをデータ化してくれたのだという。みかんがよくできた年の生産記録がデータ化されれば、それをもとに生産できるので、作り手に左右されずに、どの畑でもおいしいみかんを作ることができることになる。作る技術が「標準化」 されれば、経験のない若い人でもみかんを栽培できるので、「経験と勘」に頼ってきたみかんの生産が大きく変わっていったのである。 今では、みかん農園にはセンサーが設置され、樹木ごとのデータ分析も行われているのだという。
こうしたみかん生産の技術革新によって、次のような効果が生まれたという。第一にみかんの生産性の向上であり、第二に若手の育成であり、第三にコスト管理の改善である。何だか中小企業の成功譚を聞いているような趣である。ユニークなのは、経営革新の新たな試みを農業という特殊な分野で実践してきたことだろう。農業でそんなことは無理だと思われていたはずだが、進取の気性に富む経営者がこれまでの固定観念を打破していったのである。
秋竹のそうしたそうした革新的な試みの土台となったのは、株式会社に移行した際に打ち立てられた「社是」であり「経営理念」であったのかもしれない。ともにわかりやすい言葉で表現されており、借り物にはない手作り感があって、読んでいて何だかホッとした気持ちになる。社是には「にっぽんのおいしいみかんに会いましょう」とあって、何ともユニークである。経営理念は以下の4項目である。
一 私たちは、豊かな自然と人々の丹精によって育まれた「日本の農業」を継承、発展させ、「農」を核としたビジネスを展開します。
一 私たちは、お客様の信頼を得ることを第一の目標とし、品質の向上に努め、安全・安心・健康・満足をご提供します。
一 私たちは、一人ひとりが夢と目標を持ち、日々の仕事を通じて、 会社と社員の未来のために、たゆまぬ努力と研鑽を続けます。
一 私たちは、郷土和歌山に誇りを抱き、その豊かな未来のために、 企業活動を通じて、積極的に貢献します。
今回私が触れることのできる話は以上で尽きており、以下に 綴るのはまったくの蛇足のようなものである。われわれは早和果樹園の社屋にある会議室で、会長の秋竹さんから話を聞いた。配られた詳細なレジュメには、「みかん農家の1×2×3が世界に挑む~若者に魅力ある会社とは~」とあって、この間の早和果樹園の挑戦がコンパクトに纏められていた。話の後質疑が行われたが、農林水産大臣賞を三度も受けるような優良企業に成長していることもあって、活発な質疑応答が続いた。ついでに記しておけば、有田みかんの栽培地区は、2025年に世界農業遺産にも認定されている。
レジュメの中に「てまりみかん」の紹介があって、作家の柚木麻子(ゆずき・あさこ)の小説にも取り上げられたと記されていたので、私は何という小説なのか尋ねてみた。まあどうでもいい質問ではある。その場では分からなかったので、帰宅してから調べてみた。そうしたら、文藝春秋編の『日本全国おいしいものお取り寄せ』(文春文庫、2015年)のなかに柚木の推薦で「てまりみかん」が取り上げられていた。さらに、その推薦文の中に、「あまり好きなので、小説『あまからカルテット』の中で、実名で登場させ」たとあった。やり過ぎだとは思ったが、凝り性なので『あまからカルテット』(文春文庫、2013年)まで手にしてみた。そこには「成城石井の『てまりみかん』」と書かれていた。よほど美味しいものなのだろう。この私も一度口にしてみたくなった。
もう一つの蛇足はみかんの花と実の色についてである。「みかん」とひらがなで記していると特段のことはないのだが、「蜜柑」と書くと芥川龍之介の余りにも短い小説を思い出す。最初は国語の教科書で読んだような記憶があるが、忘れがたい短編である。私の胸にも「乱落する鮮な蜜柑の色」が刻まれたからこそ、今でも覚えているに違いあるまい。「暖な日の色に染まっている蜜柑」は、人の心を温かくするのであろう。この小説を読むと、みかんではなく蜜柑と書きたい衝動に駆られる。みかんの色に関するところだけ紹介してみる。
やっと隧道を出たと思う――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思う程、揃って背が低かった。そうして又この町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上って来るのを意識した。
芥川の『蜜柑』では、くすんだ光景に浮かぶ蜜柑の色が余りにも鮮やかだが、みかんの花が印象的なのは、川田正子(かわだ・まさこ)が1946年に歌って大ヒットした「みかんの花咲く丘」(作詞・加藤省吾、作曲・海沼實)である。みかんは初夏の頃に白い花を咲かせる。その白が歌詞に登場することはないのだが、海の見える丘の光景が目に浮かびこちらも忘れがたい。舞台は伊豆のみかん畑だと言う。みかんの花が咲く「想い出の道」を辿りつつ亡き母を偲んでいるので、聞く人の胸が締め付けられるのであろう。戦後は「りんご」と「みかん」から始まったと言われるのも、むべなるかなである。

