立夏から小暑へ(四)-「二ヶ領用水」にて-

 前回の投稿で、二ヶ領用水にある久地円筒分水施設の見学に出掛けた話を書くつもりでいたが、途中から話が大分横道にそれてしまったので、今回改めて触れることにする。と、こう書き始めたのではあるが、やはり話の前振りとして東京五輪に一言触れたくなった。というのは、東京五輪は昨日8月8日に閉会式を迎えたからである。オリンピックやパラリンピックに無関心な私は、始めから終わりまでとうとう何一つテレビで眺めることもなく、ラジオで聞くこともなく、新聞やネットで競技結果を知ることもなく、過ごしてしまった。

 これはもしかしたら、金メダル級の「珍」記録や「妙」記録、「迷」記録と言ってもいいのかもしれない(などと子供みたいに自画自賛している私である-笑)。何処かの市長のようにかじりつきたいのであれば、段ボールで作った自家製のメダルを好きなだけかじってもらってなんの差し支えもない。たしかこの市長は、「表現の不自由展」の開催に反対して「表現の自由」を平気で蹂躙しかねないような輩であったはずだが、自分の「表現の自由」に関しては守られて当然だとでも思っているのであろう。それが何とも馬鹿馬鹿しくて、大いに笑える。

 ところで、何故先のような仕儀に相成ったのかと言えば、そもそもテレビなどは、映画を観る以外にほとんど何も見ない人間だからである。番組欄を丁寧に眺めれば、勿論見るべきものはあるはずだが、それを探すのが何とも面倒なのである。そんなことまでして見る気がしない。その上での話になるが、スポーツ感動物語にかなりの胡散臭さを感じていることも大きいのだろう。もう少し踏み込んで言えば、誰もが感動しやすい物語に、ためらいもなく感動するのが恥ずかしくかつ嫌なのである。何とも浮世離れした、狭量で偏屈で頑固な人間だと言う他はない。こういう人間を文字通りの臍曲がりというのであろう(笑)。

 こんなふうに書くと、五輪に関心がないなどと広言すれば周りとは大分違った人間のように見られ、実はそのことに「快感」を感じているのではないのかと深読みされることもある(笑)。目立つことが好きな人の中には、「悪目立ち」ならぬ「逆目立ち」を目指すような人も、結構いるからなのだろう。「変人」と呼ばれることを恐れてはいないが、かといって、「変人」であることを自慢気に誇る気などもさらさらない。興味や関心がないから見ないのであって、それ以上でもそれ以下でもない。そんな平明かつ清澄な心の有り様を、何時でもそしてまた何時までも大事にしたいのである。

 こんなことをあれこれと書き連ねていると、またまた本題を忘れそうである。私は先に二ヶ領用水のことを初めて知ったと書いたが、もしかしたら、そんな人間の方が珍しかったかもしれない。この用水は、多摩川を水源とし、川崎市の多摩区にある上河原堰や宿河原堰から幸区を流れて海に至る、全長約32キロにも及ぶ県下で最も古い人工の用水路だとのことである。こんなにも長い、そしてまた後で触れるように歴史的な由緒のある用水路であれば、周りの住民にはなじみの深い存在であるに違いない。

 ところで、堰(せき)とは、河川の流水を制御するために河川を横断する形で設けられるダム以外の構造物で、堤防の機能をもたないものを言うらしいが、南武線の中野島駅側の上河原堰や宿河原駅側の宿河原堰の写真をネットで眺めてみると、なかなかに美しい景観である。そのうち機会を見て、これらの堰にも出掛けてみたくなった。小僧たちと散歩に出掛けるには、ちょうどいい場所かもしれない。

 「大山街道ふるさと館」で入手した資料や、用水のところどころにあった説明板などをもとに、話を進めてみる。ニヶ領用水の名は、この用水が江戸時代に川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来している。昔の多摩川は、洪水を繰り返しては田畑を押し流すような荒れた川だったらしい。そのため、多摩川の水を利用するには、堤防を 築き必要な水量を引き入れる農業用水を建設する必要があった。徳川家康から治水と新田開発の命を受けた当時の代官小泉次大夫 は、二ヶ領用水の建設に着手し、14年の歳月をかけて慶長16(1611)年に完成させている。

 その後百年余りを経て、用水路はいたる所で欠損し荒廃した状況になったため、享保9(1724)年、当時川崎宿の名主であった田中休愚は、 幕府の命令を受けて、死に瀕していた二ヶ領用水を再び蘇らせる本格的な改修工事を行っている。明治以降は、二ヶ領用水から取水する横浜水道が開設され、飲料水や工業用水としても利用されるようになった。戦後、急速に進んだ都市化によって農地は減少したが、現在 でも、川崎市の北部地域では農業用水として利用されており、また、この後触れる久地の円筒分水によって、下流の地域では環境用水として利用されているとのことである。

 農業用水としての利用は減ったが、都市部を流れる用水がもたらす水景観としての価値が、再認識されているということなのだろう。用水の両脇にある遊歩道を歩いて私が寛いだ気分になったのは、それこそ環境用水としての効用を知らず知らずに感じていたからに違いない。ところで、この二ヶ領用水は、先に触れたように、江戸時代には多摩川から2ヶ所の堰で取水されたのち、 高津区の久地で合流し、そこで四つの堀に分水されていたという。その量は、堰から溢れでる流れを、それぞれの灌漑面積に比例した水門によって分けていたのだが、この方法で は、川の中央部は流れが速く流量も多くなり、川岸に近い部分は流れも緩やかで流量も少ないという川の性質によって、なかなか正確な分水ができなかったらしい。そのために水 争いが絶えなかった。

 そこに登場するのが久地円筒分水である。当時多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治は、平瀬川の改修に際して農業用水の正確な分水管理の できる装置として円筒分水の方式を採用し、昭和16年(1941)にこの施設を完成させた。平瀬川の下から吹き上がってきた水を、円筒の円周比によって四つの堀に分水し、各堀に用水を提供できるようにしたのである。それが「二ヶ領用水久地円筒分水」である。この円筒分水は、平成10年(1998)に川崎市で初めて国の有形文化財(建造物)に登録されている。言うなれば、川崎の近代化遺産ということにでもなるのだろう。私にはすべて初めて知ることばかりであった。

 円筒分水の側には、私の好きなカンナもぽつりぽつりと咲いていた。真昼の太陽はわれわれを容赦なく照りつけているのだが、円筒からこんこんと水が噴き出しているので、なかなかいい眺めである。ここで一休みした後三々五々帰路に就くことになった。たまたま一緒になった私たち4人は、来た道を戻って再び大山街道に出た。そこで、折角近くまで来たのだからということで、「大山街道ふるさと館」に立ち寄ることにした。ここでの話も今回触れるつもりだったが、前振りが長すぎてその余裕がなくなったので、次回に譲ることにする。