早春の台湾感傷紀行(二)-「美麗島」台湾にて-

 初めての台湾旅行だから、出掛ける前に少しは台湾に関する知識を得ておこうと思い、新書の類いを何冊か手にしてみた。調べてみると、新書だけでも結構な量になる。日本にとっては、それだけ気になる存在なのであろう。「台湾有事」などといったいささかきな臭い記事をメディアで頻繁に見かけるようになっていることもあって、先頃行われた台湾の総統選挙に関しても多くの報道があった。こうしたホット・イッシューに関しては、識者の方々がさまざまな角度から論じておられるので、いまさら私などが事改めて何かを書いてみても仕方がない。これまで南の隣国台湾に何の関心も払ってこなかった人間なのだから、知ったかぶりをしてみても意味がなかろう。そこで、今日の台湾の政治に焦点を当てたような新書の類いはすべて飛ばし読みすることにして、それ以外のものを真面目に読んでみることにした。
 まず最初に手にしたのは、大東和重著『台湾の歴史と文化 六つの時代が織りなす「美麗島」』(中公新書、2020年)である。手軽に読めるのではないかと思っていたが、案に相違して実に重みのある著作だったので驚いた。著者はあとがきで、「愉快に読める、わかりやすい本、ストーリーに従い読みすすめれば、台湾についての最低限の知識を提供できる」本をめざしたと書いているが、とてもそうは思えない(笑)。その重さは、巻末に付された読書案内の量からも窺われる。私が興味を持ったのは、著者が本書を執筆する上で組み込んだという三つの視角である。少し長くなるが以下に紹介してみる。 

 一つは、日本人が書く以上、「日本人が見た、日本語を通した台湾」という視点から、台湾を描くことである。台湾人の声を聞きとるといっても、日本で生まれ育った筆者の耳を通して、という限界がある。いくら台湾に友人を持っていても、私の見る台湾は、しょせんは外部からの、通り過ぎる人間のものである。それならいっそのこと、日本人が見た台湾、日本語を通して聞こえてくる台湾の声を、主題にしてはどうか、と考えた。日本統治期を中心に、日本は台湾と切り離せない関係を結んだ。 この関わりを通して、台湾を描こうとする本書の登場人物には、台湾で暮らした日本人が多く含まれる。
 二つ目は、首都台北から台湾を眺めるのではなく、「地方から見た台湾」という視点を持つことである。筆者が1999年から2年間滞在したのは、南部の古都、台南だった。赴任当初は文化芸術活動の少ない地方都市に対し、不満を覚えることがあった。しかし住みつづけるうちに、台南という街が台湾の歴史において果たした役割を知り、伝統的な生活が色濃く残る街の空気に惹き込まれていった。19世紀末以降の台湾の歴史は台北を中心に展開したが、北部から見る台湾は、どうしても「近代化」の側面を強調してしまう。本書では、台南をはじめ、伝統的な、地域性の豊かな台湾にも注意を払いたい。
 三つ目は、台湾人や日本人をはじめ、台湾と関わる人々の、「声に耳を澄ます」という点である。もちろん筆者にも、意識するにせよしないにせよ、偏見や偏愛がある。台湾の歴史や文化を紹介する際に、筆者の注目する人物や事項は、必ずしも公平ではない。しかし本書に登場する人物、特に日本人が、目の前の、あるいは過去の人の声に対し、熱心かつ慎重に耳を傾けようとした人々だという点には注意を払った。彼らは難しい時代の中で、台湾の人々を尊重し、その声に耳を澄まそうとした。筆者もそれにできるだけならおうと努めた。

 以上が著者のあげている三つの視角であるが、どれもこれも含蓄の深い指摘ではないか。自らの「史観」や「視点」や「立場」を疑うこともなく比較的安直に書かれた(ように見える)台湾本とは、雲泥の差である。今回の総合研究調査は、観光コースにはなり得ない台湾の東部を巡りながら、あちこちに散らばった日本統治期の史跡を訪ね、そしてまた原住民族の世界を再現した展示の一端を覗いてきたのだが、こうした旅程は、彼が指摘した視角とも重なり合うところがあるようにも思われる。それ故この本に興味がそそられたのである。彼は、伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』(中公新書、1993年)を「台湾生まれの著者による、台湾を主体とした歴史を記す意図の込められた、記念碑的な一冊」と述べて高く評価していたので、こちらも続けて読んでみた。私のような素人にとっても読みやすい本であったし、大変勉強になった。伊藤は宜蘭の生まれで、2006年に亡くなっている。
 ところで、台湾はいつ頃どのようにして地球上に出現したのであろうか。これまでの研究によると、この島はユーラシアプレートとフィリピン海プレートがぶつかり合うことによって形成されたとみられており、現在は 東アジアの弧状列島の中央部に位置している。氷河期にはユーラシア大陸との分離、結合を繰り返したようだ。その後気候の変動によって海水面が上昇し、現在の台湾海峡が出来上がっていく。約6,000年前には、台湾は今日のような姿になったのだという。中国大陸とは約200キロ、沖縄の与那国島とは120キロの距離にあり、南北約400キロ東西約200キロの島で、面積は約36,000平方キロだから、ほぼ九州の面積に相当することになる。。そしてこの島に現在2,300万を超える人々が暮らしているのである。
 周囲を海に囲まれた台湾は、海洋との関係がきわめて密接である。新石器時代になって人類は海から台湾に上陸して来たし、そして島内にいたオーストロネシア人も、海原を越えて外へと拡散して行った。壮大な人類史の一齣である。歴史の時代区分として、文字による記録がない時代を先史時代と呼び、文字の記録がない時代を歴史時代と呼んでいるが、それでは台湾が歴史時代に入るのはいつ頃なのであろうか。一般的には、1620年代の明朝末期 に 漢人の海商集団(船による商業活動に従事した商人のことであるが、海賊でもあった)が台湾本島に基地を設け、さらにはオランダ人とスペイン人が相次ぎ台湾を植民地としたのが、その幕開けであるとされているようだ。こうして台湾は本格的に世界史の舞台に登場することになる。だが、台湾が「発見」されたのはもう少し前である。先の伊藤潔は次のように述べている。

 台湾は西太平洋で活躍するポルトガル人によって「発見」された。それは台湾付近の海域を航行中の船員が、緑したたる美しい島影を目の当たりにして、「Ilha Formosa! (イラ・フォルモサ!)」と感嘆の声をあげたことに始まる。現在のところこの「発見」は、ポルトガル船の種子島漂着の翌年、つまり1544年のことと推定されている。Ilha とは島、Formosaとは麗しいという意味で、すなわち「麗しき島」である。もっともポルトガル人は、航海の先々で美しい島を見るたびに、「イラ・フォルモサ!」と賞賛して、その島の名としてきたので、アフリカ、南7メリカ、アジアの各地には10を越す、この名の島があったとされる。しかし、今日ではフォルモサは台湾をさす固有名詞となっており、とくに欧米諸国では台湾を Taiwan ではなく、フォルモサと呼ぶこともしばしばである。

 以上が伊藤の紹介するところであり、台湾が「美麗島」と呼ばれることになった経緯である。台湾は全土の3分の2を山地が占め、南北に走る台湾山脈には60を超える3,000メートル級の山々が聳えていたから、海からは島全体が緑に蔽われた優美な姿に見えたことであろう。亜熱帯の気候で雨も多いので、平地でも至る所に木が生い茂っている。だから台湾は「緑の島」でもある。私もそんな印象を持った。最高峰の山は3,952メートルの高さを誇る玉山(ぎょくざん、ユイシャン)。この玉山は、日本の統治下では新高山(にいたかやま)と呼ばれており、富士山よりも高い新しい最高峰ということで命名されたとのこと。日本の真珠湾奇襲攻撃の際に、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が攻撃開始の暗号として使われたことでもよく知られた、世界遺産級の山である。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/04/12

台湾・宜蘭にて(1)

 

台湾・宜蘭にて(2)

 

台湾・宜蘭にて(3)