三人の友人と食事をして-「パワハラ発言」雑感-(中)

 3月1日の夜遅くに台湾から帰国したのだが、帰ってみれば弥生に入ったはずの日本は殊の外寒い。まさに「早春賦」の世界である。台湾紀行の話はそのうち愉しみながらのんびりとブログに載せることにして、共産党の党大会を眺めていて感じたことの続きを書いてみる。3つあるうちの第1点目と第2点目に関しては、前回触れたので今回は3点目に触れてみたい。タイトルに入れておいた「パワハラ発言」に関してである。友人の3人が3人とも、あの田村さんの結語での大山批判はかなり酷かったとの感想であった。そう感じた人も多かったのではあるまいか。問題の発端となったのは、神奈川から選出された大山奈々子代議員(彼女は神奈川県議会議員でもある)の党大会での発言である。今回ブログを書くに当たってその発言を改めて読み直してみたが、実に興味深いものである。

 私などは、参加者が800人にも及ぶという党大会の場で、そしてまた党の幹部が居並ぶ場で、以下のような発言を行った大山さんの勇気に感銘を受け、目頭が熱くなるほどだった。俗に言う耳障りの良い発言ばかりが続くなかで、まったく異色の発言だったからである。党大会の場に、こうした勇気を持った代議員が果たしてどれだけいたであろうか。そんなことさえも気になった。もっとも、私がここで論じたいのは、そうした個人的な感懐ではなくて発言の中身の方である。「問題は出版より除名処分 共産党『怖い』と思われる」との見出しが付けられた発言の要旨は、『しんぶん赤旗』に紹介されているので、既に読まれた方もおられるであろうが、全文をそのまま紹介してみる。

 横浜市港北区選出で県議3期目です。地域に見える共産党にしようと、地方選のさなかには1カ月で383時間の宣伝活動を行い、党への信頼につながっていることを感じています。軒並み訪問と「折り入って」作戦を組み合わせた活動もしています。 アパートも飛ばさずに訪ね、若者とも出会うことができ、仲間の喜びとなっています。 対象者を絞らず、今の世の中を何とかしたいと思っている人全員を包摂する党活動が大事です。

 次に、松竹氏の除名問題で顕在化した党内民主主義の課題についてです。昨年地方選前に松竹氏の著作が発刊され、 その後まもなく彼は除名処分となりました。私は本を読んでいませんが、何人もの人から「やっぱり共産党は怖い」「除名はだめだ」と言われました。将来共産党が政権をとったら、国民をこんなふうに統制すると思えてしまうと。問題は出版したことよりも除名処分ではないでしょうか。 一時期人気を博した「希望の党」から人心が急速に離れたきっかけは、小池百合子都知事の「排除します」という発言でした。あのときに国民が感じた失意が、いま共産党に向けられています。

 異論を唱えたから除名したのではないと繰り返しわが党の見解が報じられていますが、そのあとには松竹氏の論の中身が熱心に展開されますので、やはり「異論だから排除された」と思わせてしまうんです。この問題でメディアによる攻撃論が訴えられますが、攻撃の理由を与えてしまったのは党の判断である以上、党の判断に間違いがないというのであれば、わが党が民主的である証左として、松竹氏による再審査請求を適切に受け止めて、国民の疑念を晴らすべく透明性をもって対処することを要望します。 「除名」は対話の拒否にほかなりません。排除の論理ではなく包摂の論理を尊重することは、政党運営にも求められています。

 以上が新聞に紹介されている大山さんの発言である。新聞に紹介されたものは要約なので、発言のすべてではないようだからそのうち全文を読んでみるつもりだが、それはそれとして、この要約を読んだだけでも実に真っ当な主張であることがよくわかる。今読み返してみても、問題の核心を衝いたきわめて意義深い発言である。地元で地道に活動を続けてきている大山さんにして言える一言であったろう。当たり前のことではあるが、「多数者革命」や「国民に開かれた党」は、「今の世の中を何とかしたいと思っている人全員を包摂する党活動」の先にしか展望することはできない。200人もいるという中央委員に、こうした問題意識をもつ人は一人もいなかったようだが、それこそが現在の共産党が抱える深刻な病弊なのではあるまいか。上に立つ人々の異論に対する感性が問われているに違いあるまい。

 この大山発言に対して、3人の代議員の方からの批判があった。お一人は、中祖さんという中央の評議員の方である。彼は、松竹さんの主張が「支配層の求める安保容認、自衛隊合憲の『現実路線』への変更を迫るもので、支配層への屈服に他ならない」と断じ、「突然党外から攻撃するやり方で、包摂的な足場を踏み外したのは松竹氏自身」だと結んでいる。大山発言を批判した他の2人の代議員の発言にもごく簡単に触れておくと、東京の代議員は、松竹さんの著作が「言いたい放題の本」であると論難していたし、京都の代議員は、松竹さんの立場が「綱領と規約に真っ向から反する」ものであると断定していた。

 党内では異論を表明することが許されているようだから、大山発言もごく当たり前の発言として受け止めればいいのであろう。そして、大山発言に対する批判もあって当然なので、3人の批判についても、そうした批判もあるのだと受け止めればいいのであろう。論破したり、難詰したり、軽蔑する必要など何もない。ただし、表現にはもっと慎重であるべきではないか。「屈服」や「攻撃」といった言葉の一人歩きには、警戒が必要である。私自身は、松竹さんの著作が「言いたい放題の本」だなどとは思っていないし、今でも考えるべきことが含まれた本だと思っている。そしてまた、「綱領と規約に真っ向から反する」などと断言できるほど単純な問題ではないとも思っている。

 こんな感想を気儘にブログに書いていると、これもまた支配層に「屈服」し共産党を「攻撃」するものだなどと言われかねないのかもしれないが、言いたい人には言わせておくしかなかろう。人の口に戸は立てられない。もともと揺るぎのない「正論」を吐き続ける人が好きではなかったが、最近の私は、議論をする際に何時も高みに立って相手を論破しようとする、そうしたメンタリティーにとみに強い違和感を感じるようになっている。正しさを独占しようとするので、そこに説得はあっても対話は生まれようがないからであろう。友人たちも同意見であった。

 そうしたメンタリティーは、実は共産党にだけにあるのではない。すっかり年を取ってしまった私自身にも染みついてしまっている可能性が十分にあるから、自戒が必要である。大事なことは、相手が何を訴えたいと思っているのかを先ずはきちんと受け止めてみようとする姿勢ではないのか。3人の批判者に共通しているのは、そうした対話の姿勢がほとんど皆無だということである。大山さんは、松竹さんの除名処分に異議を唱えるようなとんでもない人間としてしか認識されておらず、論破したり、難詰したり、軽蔑する対象とされてしまっている。

 彼女がもっとも言いたかったことは、国民が今回の事態をどう受け止め、共産党の存在をどう感じたのかということであろうが、こうした大事な視点が完全に無視されているように見える。大山発言を私なりに言い換えてみると、彼女は、党内においても「多様性」を尊重し、排除ではなく「包摂」を重視し、論難ではなく「対話」を求めていたのではなかったか。 そして、 これらのキーワードは、実は共産党が社会に向けて常日頃大事なものとして発信していたもののではなかったか。未来社会の根幹は、そうした柔軟な思考によってこそ形成されるに違いなかろう。自分にとって好ましいと思われる相手に対する 「多様性」や「包摂」や「対話」だけではなく、けっして好ましいましいわけではない相手に対しても、「多様性」や「包摂」や「対話」が求められる、そんな時代にわれわれは生きているのではあるまいか。染み付いてしまった閉鎖性を克服することは、なかなか大変なことなのである。