三人の友人と食事をして-「パワハラ発言」雑感-(下)

 毎度のことではあるのだが、私の話は長い。書いている方がいささかうんざりするぐらいだから、読む方は推して知るべしであろう。当初は1回で終えるつもりだったのだが、(上)(下)になり、とうとう(上)(中)(下)にまで膨らんでしまった。前回の(中)で大山発言を巡る議論を紹介したので、今回は、党大会で討論のまとめとして行われた結語に触れてみたい。この結語は今度の党大会で委員長となった田村さんが行ったのであるが、異論に対する取り扱い方が余りにも粗略かつ粗暴だったので、驚き呆れた。だからこそ、「パワハラ発言」ではないのかといった批判があちこちから噴出したのであろう。田村さんは、こうした発言を衆人環視の場で何の躊躇いもなく堂々と語っているのだが、これでは異論は排除すると公言しているにほぼ等しかろう。何とも残念である。どんな結語だったのか。かなり長いのでいささか煩瑣になるが、以下に紹介してみる。

 この大会の討論のなかで、 元党員の除名処分について、「問題は、出版したことより除名処分ではないか」ー除名処分を行ったこと自体が問題だとする意見が出されました。この意見に対して、代議員、評議員から、処分をうけた元党員の言動は、党の綱領と規約の根幹を否定し、党の変質をねらった明らかな攻撃であったこと、メディアを利用して地方選挙の前に攻撃をしかけたのは元党員の側であること、わが党は「異論を許さない党」などでは決してないことなどが、この攻撃を打ち破る論戦を懸命に展開した経験に立って発言されました。除名処分が規約にもとづく当然の対応であったことは、すでに、山下副委員長から再審査請求の審査内容として明確に報告され、再審査請求を却下することに異議をとなえるものはなく、党大会で承認をえたことは、党の最高決定機関による、党への妨害者・攪乱(かくらん)者への断固とした回答を示したものとして重要です。

 党大会での発言は、一般的に自由であり、自由な発言を保障しています。しかし、この発言者の発言内容は極めて重大です。私は「除名処分を行ったことが問題」という発言を行った発言者について、まず、発言者の姿勢に根本的な問題があることを厳しく指摘いたします。発言者は、「問題は、出版したことより除名処分ではないか」と発言しながら、除名処分のどこが問題なのかを、何も示していません。発言者は、元党員が、綱領と規約にどのような攻撃を行ったかを検証することも、 公表している党の主張、見解の何が問題なのかも何一つ、具体的に指摘していません。

 発言者が述べたのは、ただ、「党内外の人がこう言っている」、ということだけです。党内外の人が言っていることのみをもって、「処分が問題」と断じるのは、あまりにも党員としての主体性を欠き、誠実さを欠く発言だといわなければなりません。発言者は、「希望の党」の小池百合子代表の「排除」発言をもちだして、「あのとき国民が感じた失意が、いま私たち共産党に向けられていると認識すべき」とまで発言しました。 反共分裂主義によって野党共闘を破壊した大逆流と並べて、党の対応を批判するというのは、まったく節度を欠いた乱暴な発言というほかありません。

 発言者は、「除名というのは対話の拒否だ」と述べ、「包摂の論理を尊重することは、政党運営にも求められている」と述べました。しかし、対話を拒否したのは誰か、党を除名された元党員は、自分 の意見を、一度として党の正規の会議で述べたことはなく、一度として正規のルールにのっとって党に意見を提出したこともない。 党内での一切の対話の努力を
しないまま、党外からいきなり党攻撃を開始したというのが事実です。 ここでも発言者は、批判の矛先を百八十度間違えているといわなければなりません。

 党を除名された元党員の問題は、山下副委員長の報告で詳しく解明したように、「共産党の安保・自衛隊政策が野党共闘の障害になっている」 「安保容認・自衛隊合憲に政策を変えよ」「民主集中制を放棄せよ」という支配勢力の攻撃にのみ込まれ、射落とされ、屈服したところに政治的本質があります。党外から出版という形で党の綱領と規約を攻撃したものを除名処分にしたことは当然です。問題のこの政治的本質をまったく理解していないことに、発言者の大きな問題があるといわなければなりません。

 わが党は、多数者革命に責任をもつ党として、綱領と組織原則への攻撃を断固として打ち破り、党の統一と団結を固めあい、これからも民主集中制の組織原則にもとづいて強く大きな党をつくり、歴史をひらく、この決意をここに表明するものです。

 以上が田村さんの結語である。大勢の代議員を前にしていたためなのか、あるいはまた、新委員長への就任が予定されていて気分が高揚したためなのか、やたらに勇ましい言葉が頻出している。内輪の議論ではよくこうした事態が生まれがちであるが、国民の目というものを忘れてはなるまい。松竹さんは、党に対する妨害者、攪乱者であり、党を外から攻撃したのは、「支配勢力の攻撃にのみ込まれ、射落とされ、屈服した」からであると、それこそ口を極めて言葉激しく罵倒されている。まさに文字通りの攻撃である。一体何を根拠にそう言っているのであろうか。

 田村さんのこうした結語から浮かび上がってくるのは、とんでもなくデフォルメされた松竹伸幸像である。まともに論ずるに値しないほどの、破廉恥でグロテスクな輩(やから)に貶められてしまっている。こうしたものを印象操作というに違いなかろう。除名処分の正当性を強調せんがためにいったん烙印を押してしまうと、人格攻撃にはもはや歯止めが効かなくなるかのようであり、いささか見苦しい。周りが見えないとはこうしたことを言うのであろう。視野狭窄の極みとでも言うべきか。

 こう書くと、松竹さんにはたいへん失礼な物言いとなるだろうが、そのことを承知であえて言えば、たかが新書本を一冊出しただけの人ではないのか。知り合いの中には、「たいしたことは書いてない」と評する人もいたぐらいである(私はそうは思わないが、こうした評価もありうるだろう)。言わずもがなであろうが、党攻撃の本などでは勿論ない。そうした人物を相手に、これほどまでに大騒ぎを続けている共産党は、もしかしたら独り相撲を通り越して「滑稽」の域にまで達しているのかもしれない。そこまで自信がないのか。私は、できうればいつも冷静でありたいと願っているような人間なので、激しい言葉が使われれば使われるほど、そうした言葉を平気で口にする人物をなかなか信頼する気にはなれないのだが…。もっとも、結語は田村さん個人のものではなく、志位さんや小池さんや幹部の方々にも共有されているはずなので、私の気持ちは、個人の資質よりもどうしても党の有り様やその体質に向きがちになる。

 大山奈々子さんの発言に対しても、実に居丈高で激烈な言葉が並ぶ。「この発言者の発言内容は極めて重大」であり、「発言者の姿勢に根本的な問題があることを厳しく指摘」しなければならないこと、「党内外の人が言っていることのみをもって、『処分が問題』と断じるのは、あまりにも党員としての主体性を欠き、誠実さを欠く発言」であること、「 反共分裂主義によって野党共闘を破壊した大逆流と並べて、党の対応を批判するというのは、まったく節度を欠いた乱暴な発言」というほかないこと、「発言者は、批判の矛先を百八十度間違えている」し「問題のこの政治的本質をまったく理解していない」こと、そうしたところに、「発言者の大きな問題」があるとのご託宣である。

 ここまで罵倒するのであれば、もはや「人間失格」ならぬ「党員失格」と言っているようなものであろう。発言者の発言の趣旨を一顧だにすることのない酷い批判であり、典型的なパワーハラスメントである。「異論を許さない」 党の姿を、国民の前にさらけ出しており、余りにも政治的に鈍感なのではあるまいか。小池書記局長は、「田村氏の結語は 『叱責』 ではなく発言内容への批判です。 発言者の人格を傷つけるようなものではありません」 などと述べたようであるが、何とも人権感覚、民主主義感覚、市民感覚の欠如した、的外れで時代遅れな反論ではないか。皮肉交じりで言えば、余りにも古臭くて共産党らしくない。パワーハラスメントの「加害」が疑われる側の言い分のみを取り上げて、「人格を傷つけるようなもの」ではないなどと弁明しているのであるが、では「被害」が疑われる側の立場はどうなったのか。

  いやしくも党大会の代議員に選出され、そこで意を決して発言した党員に対して、 反論の許されない場で 「党員としての主体性」に欠けるなどと批判することは、あってはならないことであろう。 ただちに問題発言部分を撤回し、謝罪すべきであった。改めて思うことだが、役職者の発言にはとりわけ自制が必要なのではあるまいか。その背景には、政敵に対して舌鋒鋭く追求することを高く評価するような組織風土があるのかもしれない。それがこうした事態を招いているようにも思われる。パワーハラスメントやセクシャルハラスメントは、共産党の外部にのみある他人事のような問題なのではない。内部にも巣くっていると見なければならないだろう。今回の事態はそのことをも教えている。

 「神々は細部に宿る」 という諺がある。これは、ものごとの本質は細部にこそ現れるものなのだという教えである。「わが党は異論を許さない党ではない」 などと、幹部の方々が大上段に構えて何遍繰り返してみても、余り意味はない。 大事なのは細部なのである。私としては、大山さんの発言から浮かび上がってきた「多様性」や「包摂」や「対話」を大事にしようとする姿勢が、 これからの党の運営に活かされることを心から願っているのだが、果たしてどうなることであろうか。中島みゆきの作詞・作曲で柏原芳恵が歌った「春なのに」の歌詞にあるように、「春なのに ため息またひとつ」といったところか。芭蕉の句をもじれば、「物言えば唇寒し春の風」のようでもある。春愁は思いの外に深く、そしてまた哀しい。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/03/15

春愁を感じて(1)

 

春愁を感じて(2)

 

春愁を感じて(3)