早春の台湾感傷紀行(四)-日本統治下の史跡を巡って(上)-

 今回の調査では、東海岸の各地に残された日本の統治時代(1895~1945年)の史跡を数多く眺めてきた。今こんなふうに書き出したが、では遺跡と史跡はどう違うのか。調べてみると、遺跡には、貝塚、古墳、集落跡などの過去の人類の営みが残された場所から、昔の建物や歴史的事件があった場所などまで含まれるかなり幅の広い概念のようだが、史跡は、そのうち歴史的事件と関わりの深い場所や建物や遺構をさすとのことである。その意味では、私たちが眺めてきたのは史跡だということになる。これが遺産となると無形のものまで含まれることになる。宜蘭では中山公園や設置記念館や酒廠を、花蓮では文化創意産業園区や松園別館、それに豊田移民村や林田移民村を、そして台東では旧台東駅や、糖廠跡地などを見学してきた。どれもこれもまだ100年前後の時間しか経過していない史跡である。

 こうした史跡が残された背景についても、ごく簡単に触れておかねばならないだろう。どの概説書を読んでも、日本の台湾統治期については触れられているのだから、いまさらことあらためて書くまでもないような気もするが、話を進める上での都合もあるのでどうかご容赦願いたい。手元に同名のタイトル『台湾の歴史』と銘打った3冊の著作がある。刊行年順に並べてみると、殷允芃(イン・ユンペン編、丸山勝訳、藤原書店、1998年)と、台湾の高校の歴史教科書(雄山閣、2020年)と、若林正丈(わかばやし・まさたけ、講談社学術文庫、2023年)である。これらの著作を広げながら、われわれが巡ってきた史跡の背景を自分なりに整理してみる。

 日本の台湾統治は日清戦争の結果締結された下関条約により、台湾が日本に割譲されたことから始まった。1895年のことである。台湾は、日本が手にした最初の殖民地であった。その前段には台湾出兵があるが、これについては後に触れる。割譲が決定されると、ただちに日本は初代の台湾総督に海軍大将樺山資紀(かばやま・すけのり)を任命して占領軍を派遣し、台北に台湾総督府を置いて統治を開始した。台湾総督には台湾の行政、立法、司法そして軍事にまで及ぶ強大な権限が与えられた。敗戦までの50年に及んだ統治の前半期には、総督には駐屯した軍隊の指揮権を持つ軍人が任命されており、文官も総督に任命されるようになったのは1919年になってからのことであった。

 何故かと言えば、日本による台湾の統治が現地住民の激しい抵抗に直面したからである。世界のどの殖民地でも同様のことが起こったが、台湾も同じである。平地の漢民族が居住する地域でも、抗日ゲリラの反乱を制圧するのに1902年までかかったし、その後も武装蜂起が計画されたり実行されたりした。1915年の西来庵(せいらいあん)事件では、蜂起は失敗し866名もの死刑囚を出す事態となった。山地の原住民族が居住する地域では、1910年から5年を費やして蕃地(ばんち)討伐作戦を実施しなければならなかった。蕃地とは蕃人の住んでいる土地のことであり、蕃人とは漢民族以外の原住民族に対する日本側(そして清側の)の呼称である。こうして日本は、ようやく1910年代の半ばに至ってほぼ全島を支配下に置くことに成功するのである。

 植民地の統治に警察組織の果たした役割は大きかったようだ。統治を日常レベルで確実なものとするために、村々には巡査が配置されて治安と行政の網の目が形成されていったからである。 台湾総督府は、かつて台湾で実施された「保甲制度」(10戸で1甲、10甲で1保とし、甲には甲長を保には保正をおいて責任者とした)という村落における治安維持組織を通じて、警察官派出所の監督のもとに住民を掌握した。警察は、この制度を通じて、村の道路補修や農事改良技術の普及、伝染病予防措置の徹底、進出する製糖会社の土地買収の手助けなど、住民に広範な役割を担わせたのである(その負担の大きさと処遇の劣悪さがが霧社事件を引き起こすことになった)。「台湾統治は警察政治」(矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』)と言われた所以である。

 総督府はまた経済基盤の近代化事業も推し進めた。1900年には南北をつなぐ幹線道路が総延長で約7,000キロに達し、1908年には北部の基隆港と南部の高雄港をつなぐ縦貫鉄道が開通した。19年には、開発の遅れていた東部にも電信線がつながり全島の通信網が完成をみることになる。それとともに、基隆や高雄の港湾近代化工事や海底電線の敷設や無線電信の整備なども行われて、台湾は本国日本に深く統合されていくことになった。また、土地調査事業や税制の改定も実施され、複雑だった土地の権利関係が整理されて地租の増徴も可能となった。アヘンや塩などの専売事業の実施とあいまって、総督府の財政基盤はこのようにして整っていくのである。その他に、度量衡や貨幣の統一、台湾銀行の設立による金融制度の整備なども推進された。

 こうした経済基盤の近代化事業は、日本の統治期における「効率的」な「強権」の行使によって実現をみたものである。矢内原は先の著作でこれらの措置を「資本主義化の基礎工事」と呼んでいる。この「基礎工事」の上に、政府が主導した開発が進められていくのである。明治維新を経て近代国家への転換に成功した日本は、台湾割譲の当初から版図全体に一元的な支配を行使する意志を有していたようである。いわゆる殖民地と言うよりも、新たに獲得した領土として認識していたからであろう。それゆえに、台湾社会にはかつてない密度で国家の支配が浸透していくことになった。

 台湾には、日本の工業化を推進するための食料供給基地としての役割が割り当てられたこともあって、灌漑用水の整備も行われた。さらには、台湾で既に発展していた製糖業が注目され、日露戦争後には日本の企業が続々と参入して近代的な製糖業が確立していった。もっとも、畑を奪われた住民にとっては「苦いサトウキビ」であったわけだが…。ついで、日本人の好みと台湾の気候にあった蓬萊米が開発されることになる。日本の統治期においては、移出入の相手国は当然ながら日本本土であり、日本で生産された工業製品や雑貨は基隆港から移入され、米や砂糖を中心とする日本向けの農作物や農産加工品は髙雄港から移出された。その他の移出品としては、バナナ、パイナップル缶、アルコール、樟脳などがあった。また、山岳部にまで日本の支配が及ぶようになると、森林開発が積極的に進められた。特に阿里山で伐採された高価な檜は、日本に運ばれて靖国神社や明治神宮や東大寺などで使われたのだという。当時の台湾の人々にとっては、そうしたところで使われたことが誇りでもあったようだ。

 日本では第一次大戦後の好景気のもとで米価が急騰し、1918年にはついに「米騒動」にまで発展したために、台湾ではこれ以後、先の蓬萊米の作付けが急速に増やされて、米が日本に移出されるようになる。工業部門では、製糖業などの食品加工業を除くと目立った産業は移植されなかったために、台湾は日本の消費財産業の市場に留まっていたが、1930年代以降、戦時自給体制の一環として重化学工業がわずかながら導入された。日中戦争とそれに続く日本の東南アジア侵略にともなって、軍需物資の供給機能を備えた「南進基地」化が唱えられるようになったからである。

 殖民地を経営する目的が、母国の利益に奉仕することにあることは言うまでもない。台湾の資源を効果的に獲得するために、総督府は統治の強化を図る一方で、上述したように経済開発にも力を入れた。こうした動きは、「植民地化」と「近代化」の重なり合った進行、すなわち「植民地的近代化」と捉えることができるだろう。先に触れた「効率的」な「強権」の行使が、それを支えるのである。宗主国である日本との一体化のために近代化が促進され、その近代化によって一体化がさらに強められたのである。日本に対する政治的・経済的・文化的従属という代償を払いつつ、米と砂糖を柱とする経済発展を軸にして、台湾は「植民地的近代化」を経験することになった。それによって、これまで纏まりなく存在していた台湾の各地域がより緊密に結び付けられるようになり、この島全体の社会統合も生み出されていくことになる。

 今回われわれが眺めてきたもののは、台湾東部における「植民地的近代化」の残影であり社会統合の足跡だったのであろう。私などは、史跡を巡るたびに日本の原風景を眺めているような懐かしさを感じたが、そう感じたのは、台湾が植民地であったがために、純粋培養の如くに「日本」が移植されたからであろう。私の抱いた郷愁などは、そのことを忘れかけた余りにも素朴すぎる感覚だったのかもしれない。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/04/26

台湾の景勝地にて(1)

 

台湾の景勝地にて(2)

 

台湾の旧き面影