甲府にて(二)-山梨県立美術館から-

 10月11日の午前中に武田神社に出掛けたことは、前回触れた。行きは良い天気で汗ばむような陽気であったが、帰る頃には霧雨が落ち始めた。徐々に本州に近付いてきている台風の影響が、恐らく甲府にも及んできたのであろう。武田神社からの帰りは下り坂となるので、あまり苦にもならずにホテルまで戻ることが出来た。佐野眞人さんとホテルで待ち合わせ、彼のクルマに乗せてもらって山梨県立美術館に出向いた。併設のレストランで遅い昼食を摂りながら、あれこれと雑談を交わした。

 この美術館には思い出がある。私が勤めていた専修大学では、毎年夏に、各地にある育友会の主催で父母懇を対象にした懇談会が開催されており、あちこちの会場に教職員が手分けして顔を出していたのである。自分の子供が大学でどんな様子なのかを知りたいという父母も多く、勉学や進路を始めあれこれの相談に乗っていた。何時のことだったか、高崎と甲府で育友会の懇談会が開かれ、私もそこに参加したことがあった。折角甲府まで来たのだからと、仕事が終わった翌日に一人で県立美術館に出向いてみた。

 何故そんな気になったのかと言えば、この美術館が、ミレーの代表作である「種を蒔く人」や「落ち穂拾い」(正確には「落ち穂拾い 夏」)などを高額で購入したことが、大分前に大きな話題となったことを知っていたからである。どの美術全集にも収録されているような有名画家なので、ミーハー気分丸出しで一度見ておこうという気になったのであろう(笑)。しかしながら、折角出掛けたもののその日は生憎と休館日で、名画には何一つ会えずじまいであった。そこで今回である。コーヒーを飲んだ後、閉館時間までしばらく間があったので、眞人さんと別れ一人で展示を覗いてみた。「種を蒔く人」は、現在海外に貸し出中だとのことだった。

 今の私は、ミレーの作品にそれほどの興味や関心を抱いているわけでもないので、がっかりしたなどと書く程にはがっかりしなかった。「種を蒔く人」との関わりでは、『種蒔く人』というタイトルの雑誌が、1921年に秋田の土崎で創刊されている。この雑誌は、たかだか18ページのパンフレット同然のものだったらしいが、プロレタリア文学史上画期的な意義をもったものとして評価されている。表紙にはミレーの絵があしらわれ、題字の左には、同じミレーの「自分は農夫の中の農夫だ。農夫の綱領は労働である」という言葉が掲げられている。

 またこの絵は岩波書店のマークとしても使われており、同社のホームページによると、「創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました。茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で、『労働は神聖である』との考えを強く持ち、晴耕雨読の田園生活を好み、詩人ワーズワースの『低く暮し、高く思う』を社の精神としたいとの理念から選びました」とある。労働を描いたミレーの絵が、社会に大きな影響を及ぼしてきたことがよく分かるエピソードである。

 彼の作品では、「落ち穂拾い」や「種を蒔く人」、「晩鐘」などがよく知られているが、美術館で目に付いたのは「ポーリーヌ・オノの肖像」である。彼女はミレーの最初の妻であるが、若くして結核で亡くなったとのことであった。優しさと少しばかりの愁いを含んだ何とも気になる表情である。

 ミレーの「自画像」も見たかったが、この作品は美術館にはなかったので、帰宅してから画集でじっくりと眺めてみた。彼はよく農民画家と称されるので、何となく土着的な風貌の人物なのだろうと思い込んでいたが、口元が締まった目付きの鋭い如何にも意志的な顔付きだった。些か意外な気がしたが、芸術家であればそのぐらいの顔をしていて当然かもしれない。鋭い感受性を持った人間が、ぼんやりとした焦点の定まらないような顔付きである筈はない(笑)。神経質な顔付きはあまり好まないが、鋭い顔付きは好きである。しかしながら、私のように年をとってくると、顔全体に弛みや緩みが生じてきて鋭い顔付きをしたくとも出来なくなる(笑)。

 まあそんな話はともかく、美術館には、特別展示室の他に、ミレーとバルビゾン派の作品を紹介した「ミレー館」、山梨ゆかりの作家たちの作品を紹介した「テーマ展示室」、それに、甲府市出身の版画家である萩原英雄の作品やコレクションを紹介した「萩原英雄記念室」があった。私は版画にも少しばかり興味があって、萩原さんの名前も知っていたし、1冊のみだが作品集も持っている。しかし彼が甲府の出身だとは知らなかったので、こんなところで彼の作品に出会えてとても嬉しかった。せっかくなので図録も購入した。

 それと同時に、興味を惹いたのは「テーマ展示室」の展示内容だった。今回テーマとなっていたのは「働く人々」だったので、長らく労働問題に関心を払ってきた人間としては、身を乗り出さざるを得なかったという訳である。ミレーは、自然とともに生き、日々の労働にいそしんだ人々を描いた。彼に代表されるように、19世紀のフランスでは日々の暮らしが絵画の主題として登場し、さまざまな労働の姿が描かれるようになったのである。こうした画家が描くテーマの変化は、日本にも及んでくる。

 「テーマ展示室」の解説文によれば、日本でも、西洋の美術が積極的に取り入れられるようになると、労働を主題とした作品も現れ始める。そこで展示室では、働く人々がどう描かれてきたのかを紹介していたのである。見廻すと数々の興味深い絵があった。その中でもとりわけ異彩を放っていたのは、のむら清六の「たそがれに種子をまく」(1955年)だった。彼の名前も知らなかったし、勿論絵を見たのも初めてである。こんなところにも不思議な出会いがあるものである。

 絵としての纏まりなどを殆ど気にしていないかのような、タッチの鋭い太い描線に圧倒された。日本画家らしからぬ絵である。彼の作品が載った図録も欲しかったので、このコーナーの受付の方に調べてもらったが、残念ながらショップには何も無いとのことだった。帰宅してからネットで検索してみたら、2000年に山梨県立美術館の編で『のむら清六 奔放・異端の日本画家』が出版されていることが分かった。早速注文したので届くのが今から待ち遠しい。

 閉館時間が近づいたので、美術館を後にしたが、その頃には雨も本降りとなりかけていた。台風の影響がさらにはっきりしてきたのであろう。こんな天候の時に美術館などをうろうろしているのは、職員の方を別にすれば、私以外にほとんど見当たらない。美術館の玄関前の彫刻が、雨に濡れて夕闇の中に光っていた。タクシーでホテルに戻ったが、超大型の台風に備えて、街全体が徐々に静まりつつあるようにも感じられた。

 夜に眞人さん御夫婦と立派な料亭で会食した。食べ物も飲み物も格別で、私などにはもったいない程の歓待であった。眞人さんは日本酒が好みであり、しかもかなりの酒豪のようである。美術館での彼の話も大変興味深いものだったが、夜は夜で酒も入って面白い懇談の場となった。私など知らなかった話があれこれと出てきた。彼は、遠慮無く自由闊達に話をされる方のように見受けられた。

 従兄弟とは言っても、彼の兄の佐野敬文さんが亡くなるまでは私は眞人さんと面識すら無かったようなものだから、そんな二人がこんな場所で顔を合わせて、親しく話を交わしているのが、不思議と言えば不思議である。自宅を「敬徳書院」と称していた曾祖父の佐野喜平太が取り持ってくれた縁ということであろうか。人生は、そんな不思議から成り立っているようなところもあるのだろう。

 すっかり酔ってしまったので、眞人さんの奥方の運転でホテルまで送り届けてもらった。寝る前に風呂に入ろうと思い大浴場に向かったが、露天風呂に出る扉の鍵は、台風の接近に備えてなのか閉じられていた。明日の夕刻には関東に上陸するとの予報であり、テレビからは厳戒態勢を取るように、命を守る行動を取るようにとの注意が繰り返し流されていた。嵐が近付きつつあった。

 スマホを見たら、家人から、無理をしないでもう一泊して台風が通過してから帰宅するようにとのメールが複数届いていた。私のような老人が、雨の中高速道路を走るのは些か無謀かもしれないと思い、当初の予定では翌朝早く帰宅の途に就くことにしていたが、それを断念することにした。ここは家人の言うことを素直に聞くのがよかろうと思ったのである。