甲府にて(三)-「放蕩老人」の帰還-

 翌12日は土曜日である。朝から雨だったが、まだそれほど酷い雨ではなかった。このぐらいの雨なら、今のうちに帰宅しようかとの思いが一瞬頭をよぎったが、急な変更はいかにも軽率な行動のようにも思えて、自重した。甲府は盆地なので台風の被害は大したことが無かったとしても、山側がどうなっているのかよく分からなかったこともある。朝食後、もう一泊することをフロントに告げて、部屋に引き上げた。

 引き上げたはいいが、部屋では何もすることがない。テレビを見たり、新聞を広げたり、スマホをいじったりしたが、どうにも身が入らない。台風の接近が、私のような人間にも軽い緊張と興奮をもたらしているからであろうか。こんな時こそ、気分転換に絵画を見たりブログでも書きたいところだが、パソコンがないのでそれも叶わない。何となく気持ちが宙づり状態であった。

 帰宅後の日曜日には知り合いのAさんと会って、溝の口で飲み食いする予定にしていたが、今日もう一泊すればそれは不可能になる。そこで早めに行けなくなったことを伝えておくことにした。まさに文字通りのドタキャンである。他にも会合が予定されていたので、こちらも欠席すると知らせておかなければならなかったのだが、すっかり忘れてしまった。それどころか、指摘されるまで忘れたことも忘れていたのである(笑)。何とも困ったものである。

 このブログの読者の中には、「読書四題」のタイトルで書き始めたものが今のところ(三)で止まっていることに、気付いている方がおられるかもしれない。実は最後の四話目の(四)は、Aさんがらみの話を書こうと思っていたのである。そうだとすれば、飲み会で雑談したの後の方が面白いものが書けるかもしれないなどと考えて、投稿を先送りしておいた。ブログを書くようになると、こうした眼で日常世界を眺めるようになるので、それが何とも嫌らしい(笑)。

 このドタキャンしてしまった飲み会は、日を改めて10月30日にもたれた。彼から相談があると言われていたので、何の話かと些か心配もしつつ出掛けたが、その相談とは彼にとって歓迎すべき嬉しい話だったので、楽しい飲み会となった。ここでの詳しい話は、「読書四題」の(四)に譲ることにする。

 話を戻すと、ホテルでは時間を持て余し気味だったので、旅行カバンに放り込んできた小沢昭一さんの『散りぎわの花』(文藝春秋、2002)を「精読」することにした。「精読」などと書いたのは勿論冗談である。放蕩老人でもあった小沢さんの本は、そんなふうに読むような立派なものではない(笑)。タイトルには散りぎわとあるが、それにしてはいつものように柔らかい本である。散りぎわがここまで柔らかいと、それはそれで見上げたものである。年寄りはかくありたいものではないか(笑)。

 「加山雄三さんじゃありませんが『ボケはしあわせだなぁ』なんてウソブイテいる」とか、惚け防止のためには一文にもならないことに熱中すべきで、その点競馬は最高だとか、「カフェ・オレ」じゃなくて「カフェ・アンタ」だなあとか…。こんな言い草を抜き出していると、昔彼がやっていたTBSラジオの長寿番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を思い出す。勤め先からの帰途にクルマの中でよく聞いたものである。これはシリーズものになって新潮文庫に収められたので、そのうちの何冊かは読んだ。しかし残念ながら、活字は彼の話芸の足下にも及ばない。

 ところで、小沢昭一さんの凄いところは、ふざけた話をたっぷりやりながら、ごくたまに、ドキッとするようなこともさらりと書くところだろう。この本に収録されている「散る」(2001年)というエッセーなどがそうである。日本は「いまだに政治的、経済的、文化的にアメリカの”占領下”にある」ようだが、戦争をやる「神国日本」よりは、”占領下日本”のほうが、「散ら」ないだけまだマシかとか、あそこ(靖国神社のこと)には「『散れ、散れ』で散らされた人々に、『散れ、散れ』を唱えた元凶も合祀されていて」とか、さらりと書いている。
 
 極めつけは最後の三行。「九段といえば桜ですが、元『若桜会』の”散る桜少年”としては、桜にはどうもまだワダカマリがあるようで、戦後、九段の桜はもとより、一度もお花見なるものに出かけたことがありません。」へえっと驚くとともに、何とも見上げた矜持だなあと感心した。こんな拘りを持った人が馬鹿をやっているから面白いので、何の拘りも無い人が馬鹿をやっていれば、それはただの馬鹿なのであって、面白くもなんともない。小沢昭一さんは、ただのスケベじいさんではないのでございますよ(何となく小沢昭一的語りふう-笑)。

 夜台風が通過したが、ホテルの部屋は密閉されているので、昨晩と同じようにぐっすり寝た。台風は何事も無かったかのように過ぎ去ったのである。翌日は台風一過の秋晴れとなった。眩しい程の日差しである。そこで早速帰宅の途に就こうと思って準備していたら、中央高速が通行止めになっているとのこと。まわりは台風の被害でとんでもない状況となっているようで、テレビを見ながら唖然とした。チェックアウトの時間までホテルで待機することにしたが、そのうちスマホに上野原までは通行可となったとの知らせが入ったので、ほっとした。高速で行けるところまで行き、後は一般道を通って圏央道に出て帰るつもりで、上野原まで運転しサービスエリアに入った。

 大変なことになったのはその後である。サービスエリアでの案内では、東京方面に向かうには、大月ジャンクションに戻って、河口湖方面に出て、御殿場から東名に入るしかないとのことだったが、一般道も通行止めで大月に戻ることが出来ないし、高速の下り線も通行止めだとのことで、まったく身動きの取れない状況になった。かなり慌てたが、よくよく考えてみればどうせ大した用事のある身ではないので(笑)、とにかく無事に帰宅することだけを考えることにした。いざとなったら、クルマの中で一晩過ごすことも覚悟した。

 サービスエリアの受付の方の話では、ここには食べ物・飲み物も、トイレもあるので、無闇に離れない方がいいとのことだった。なるほどそうかもしれないと納得し、訳も分からず動き回るのは止めることにした。外のベンチに寝転がって身体を伸ばしてみた。どこまでも澄み渡った空の下で、こんな「悲劇的」な事態に遭遇していることがなかなか理解できない。

 ごろごろしながら2~3時間程待っただろうか、一般道の通行止めが解除され、大月まで行くことが出来るようになったとのアナウンスがあった。これで帰れるとほっとして大月に向かったはいいのだが、今度は大月までの道路がとんでもない渋滞で、高速に入るまで文字通り四苦八苦、七転八倒、難行苦行の連続だった。焦っても仕方が無いと我が身に言い聞かせて、クルマを運転しながらぼんやりと物思いに耽った。年を取ってくると、物思いに耽る材料には事欠かない(笑)。

 大月に向かう途中の道路標識にそんな地名を見たからなのか、都留文科大学にいた武居秀樹さんや、大月短大にいた長谷川義和さんのことを思い出したりもした。お二人とも亡くなってからもう大分時間が経っている。人生にはさまざまな予期せぬ出来事が起こる。武居さんも長谷川さんもともに大学に職を得るまで大分苦労されたようだから、幸せでいてまだまだ活躍して欲しかった。武居さんの奥方は、彼との思い出が詰まった別荘に転居するとのことだったが、今頃どうされていることだろうか。

 行きに掛かった時間の優に3倍は掛けて、ようやくのこと我が家に辿り着くことができた。「這々の体」(ほうほうのてい)とはこうしたことを言うのであろう。もうすっかり夜の帳は降りていた。聖書には「放蕩息子の帰還」という有名な話があるが、それをもじって言えば、「放蕩老人の帰還」ということにでもなるのであろうか(笑)。私の身を案じていた家人にも、また、こんな台風の時に出歩いていると呆れていた子供たちにも、きっとそんなふうに見えたに違いない。自宅の近辺もなかなか大変だったようで、次女一家などは近くの川が氾濫するかもしれないということで、私のところに避難してきたとのことだった。

 ところで、「放蕩老人の帰還」であるが、ここでいう「放蕩」には、山梨の名物である「ほうとう」もかけている。慧眼な読者諸氏は、とうに見破っておられたこととは思うが…。元祖放蕩老人の小沢昭一さんなら、「なに、たんなる出来の悪い駄洒落でございますよ」などと言うところであろう(笑)。