「芸術の秋」雑感(二)-女性の顔と枯木-

 10月の終わりには、展覧会をはしごして見て回った。都心に出たついでにと思ったからである。お昼近くに銀座の画廊に出向き、志賀絵梨子さんの油彩画展を見てきた。彼女は、卒業したゼミ生K君の結婚相手で、もらった経歴を見ていたら,東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻とあった。油画と書いて「あぶらえ」と読ませるのであろうか。その後大学院に進んでいるが、大学院在学中に、いくつかの展覧会の優秀賞や新人賞や奨励賞を受賞しているとのことである。まだお若いのに大したものである。

 卒業したゼミ生のK君は、特段絵に興味があったようにも思えなかったので、ゼミのOB・OG会の席で顔を合わせた際に出会いの顛末を聞いてみた。私はどちらかと言えば下世話な人間なので(ほんとうは下世話を装っているだけなのだが-笑)、この手の話に興味があるのである(笑)。しかしながら、ここでわざわざ紹介する程の面白い話というわけではなかった(当たり前か)。そんな訳で、今私が興味があるのは、画家と会社員の組み合わせによってどんな生活が営まれているのかということである。

 なまじ絵に関心があって、あれこれ言われるのも嫌なのであろうが、また逆に、何の関心も無いというのも味気ないのかもしれない。出掛けた画廊で彼女と会い、雑談を交わしていたら、「できるだけ展覧会に夫を引っ張り出すようにしている」との話だった。二人とも画家だった場合、お互いに自らの感性への拘りがあるはずだから、そこにはどうしても緊張感が漂うことになるのではなかろうか。志賀さんはそれが嫌で、まったく別世界のK君と結婚したのかもしれない。彼としては、関心があるような振りをしながら無関心でいるしかなかろう(笑)。

 絵を見るのは嫌いではないので、これまでに志賀さんの絵を三度程見ている。K君から案内状をもらうので、時間があれば見に行った。彼女は油絵で女性や植物を描いているのだが、そのタッチは如何にも繊細なので、写実絵画や細密画のようにも見える。日本画風の油絵とでも言えばいいのであろうか。しかしながら、表現したいものはそれらとは大分違っている。植物をまとった裸婦像も描いているが、彼女が描く裸婦像は女性のイメージが自由に飛翔した独特のものである。女性と植物の組み合わせについて、彼女は「具象化された想い」と題して次のように述べている。

 「私は、人間の目に見えない『想い』を表現するために『植物の生命力』に着眼した。植物は意志を持たず純粋無垢に成長し、人の心を動かす力がある。植物が繁り覆う様子は、根源にある『想い』を素直に体現しているかのようだ。なぜ、植物に「生命力」を感じるのか。それは、短い周期での命の入れ替わりから常に「死」を連想させながら生きているからである。陽の「生命力」の裏には、実は暗い陰の「死」への意識が根底にあるのだ。人間も同じように、死を意識するからこそ、願いや欲求などの強い「想い」が出てくる。それは人間の生きる原動力であり、生命力の源である。陽の生命力を植物の姿で描き表し、人の「想い」を可視化した。「想い」は、心、魂、自然と共振するもの、見えないところに根ざしたものである。人間は魂に素直に従って生きることが難しい生命体である。思考して今日を生きてよいかどうかではなく、魂で感じるような生命力、魂の声が聞こえてくるような植物を描き、そして、人間が持つ本来の生命力を表現したい」。

 志賀さんが言うように、確かに「人間は魂に素直に従って生きることが難しい生命体である」。魂に素直に生きたいのだけれど、生きることが出来ない。芸術の世界が必要とされる所以であろう。彼女が描く女性の身体は純粋無垢となった裸婦であり、植物をまとうことによって生の源となり、死を連想させ、その目は俗の世界から離れて聖なるものを見つめて、その皮膚は死を意識して生きる性を表しているかのようである。私が気に入った絵は、静かだがどこかに意志的なものも感じられる女性の横顔である。「日々生まれ変わる」とのタイトルが付けられていた。

 はしごしたもう一つの展覧会は、表参道のギャラリーで開催されていた「PHOTOGRAPHIC ART ASIA 2019」である。ここには、10名を超える写真家の作品が展示されていた。出掛けるきっかけとなったのは、同じ団地に住む篠原小太郎さんが、この展覧会に出品されていることを、たまたま知ったからである。彼の奥方とは団地の自治会で一緒に仕事をしたことが縁で知り合いとなり、当時の仲間と今でも年に2~3度飲み会を開く仲なのだが、ご主人とは、会っても軽く会釈を交わすだけの淡泊な繋がりでしかなかった。

 ある時、奥方から彼の参加する写真展のことを聞き、急に覗いてみたくなったのである。出掛けた日には会場で運良く篠原さんとお会いすることが出来て、あれこれとお話を伺った。無口な方なのだろうと勝手に思っていたが、この日は彼の方からあれこれと語ってくれた。彼の話では、「私などは端っこに加えてもらっているだけで、他の方はみんなプロの写真家です」と言っていたが、確かに興味深い作品が沢山並んでいた。風景写真も、プロが独自の視点と感性で一瞬を切り取れば、見る者に大きな感銘を与えてくれる。

 篠原さんは先のように語ってはいたが、彼の作品もなかなか興味深いものだった。裸木や枯れ葉の写真ばかりだったからである。私は現在ブログに書いた文章を纏めて、年に一度「裸木」と題したシリーズ物の冊子を作っている。だからであろうか、篠原さんの写真に惹き付けられたのである。彼は何故こうした写真を撮るようになったのであろうか。写真に添えられたプロフィールの紹介文には、「枯」と題して次のように書かれていた。

 「生命を終えた植物には゛死゛ではなく゛枯゛という言葉が用いられます。死とは違う何かがあることに皆気付いているからだと思います。森や林に入ってみると、生命を維持しているものと生命を終えたものが混在している風景が何の違和感なく存在しています。私には生命を終えた木、葉、草が生命を維持していた時と同じように森や林の中で存在感を持っていることがとても不思議に思えるのです。何故不思議なのかを考えながら撮影しています」。「生命を終えた」ものの存在感に触れた何とも味わい深い文章である。そんなふうに感じるのは、私もまた、生命を終えようとする自分の存在感を、「裸木」を通じて示そうとしているからなのであろうか。

 篠原さんは、1947年に新潟県の高田市(現上越市)で生まれている。1947年生まれだから私と同じ年齢である。現在は上越市近辺の風景に惹かれ撮影しているとのことであった。当初私は、自分の生まれ故郷に郷愁を感じているからなのかと考えていたが、彼は育ちは東京なので上越市との関わりは特に深くはないようだ。上越市と深い関わりがあるのは奥方の方で、その縁から新潟の写真を撮るようになったらしい。私も、母方の実家は出雲崎なので、新潟には縁浅からぬ繋がりがある。遠くに過ぎ去った繋がりを、枯木は暗示しているようにも思われる。

 篠原さんの写真を見ているうちに、私もまた裸木や古木、枯木(こぼく)、老木を撮ってみたくなってきた。そんなものを求めてあちこち気儘に旅をするのも悪くはなかろう。こうした振る舞いは、何やら自画像を探し求めているかのようである(笑)。これまでは人物のいない写真などほとんど撮ったことがなかったし、せいぜい撮っても、何とも通俗的な風景写真に過ぎなかった。そうした姿勢を変えて、先のような写真を撮り続けていくならば、裸木のイメージが更に膨らんでいくるような気もした。あらたな発見と言えるのかもしれない。