韓国再訪(一)

 以下の文章は、韓国を再訪した機会に書いたエッセーである。『専修大学社会科学研究所月報』のNO.553・554合併号(2009年8月)に掲載された。比較的長めのエッセーとなったので、3回に分けてブログに投稿することにした。元の文章には、あれこれのところに生硬な表現が見られたが、今頃になって読み直してみるとどうにも肌に合わない。鬱陶しく感じるのである。そんなこともあって若干柔らかく手直ししてみた。 

 ●「見る」ということ

 前回韓国に出かけたのは1993年の春浅い頃だったから、もうあれから15年を優に越える歳月が流れたことになる。社会科学研究所として最初に訪ねた外国で、三星電子水原(スーウォン)工場や浦項(ポハン)製鉄所、現代自動車蔚山(ウルサン)工場などを見学しながら、躍進著しい韓国経済の姿を目の当たりにしたのであったが、その当時まだ40代の半ばであった私には、街の匂いや飲み食いしたものはもちろんのこと、女性の風貌さえもが物珍しく映っていたはずである。

 しかしその後15年も経ってみると、好奇心の衰えは覆いがたく、どうせ人間などどこでも皆同じように「チョボチョボ」なのではないかとの口吻がすっかり身に付いてしまった。筆者と似たような凡俗かつ卑小な人間が暮らしているところなら、どこもそれほどの違いはなかろうといった、いささか「老成」した思いばかりが先に立つようになってしまったのである。一見すると、その「老成」は大人の「成熟」のように見えなくもなかったのではあるが…。

 できうればそうした「成熟」まがいの「老成」から逃れたいと思い、今回の韓国視察への参加を思い立ったのである。しかしながら、たとえそんなごくごく私事の思いではあったとしても、そうした心持ちの変化は、日々の暮らしに小さな波紋をゆっくりと広げていく。いつの間にやら視察先についての情報が目に付くようになったりするのも、そのひとつだろう。探訪記とも回想録とも読書ノートともつかぬこのような雑文を書き始めた時期には、「北」では地下核実験の再開が、そして「南」では前大統領盧武鉉の自殺が大きな話題となっていたが、ちょっと真面目に新聞に眼を凝らしてみると、政治や経済、労働などのマクロの世界については言うまでもないが、ミクロの世界についても実にさまざまな報道に溢れていることがわかる。

 表音文字ハングルの世界における漢字の「復権」、釜山でのロッテと新世界の百貨店競争、ソウルに開設されることになったエリート養成のための「国際中学」の話題などに加えて、黄皙映(ファン・ソギョン)の新著『パリデギ』の出版がある。彼は日本でもよく知られており、彼の作品集『客地』(岩波書店、1986年)には韓国現代史が刻み込まれており、また『懐かしの庭』(岩波書店、2002年)では、光州事件をはじめとする1980年代の民主化運動の苦悩が描かれている。他には、韓紙によって立体を包む現代美術家全光栄(チョン・クヮンヨン)の日本での個展開催などもある。

 さらに付け加えておけば、在日コリアンと日本の大学生が連携して開催するドキュメンタリー映画祭、韓国の20代非正規労働者の貧困を描いて人文書では異例のベストセラーとなったという禹皙熏(ウ・ソックン)、朴権一(パク・クォニル)の『88万ウォン世代』(明石書店、2009年)の書評などもあって、思いの外に多彩なのである。映画やテレビドラマの世界における韓流ブームやBBクリーム、WBCなどとはだいぶ次元を異にした日韓の交流の広がりと深まり、そんなものが改めて感じられよう。

 また、せっかく出かけるのだから予備知識ぐらいは得ておこうなどと、日頃の不勉強にも拘わらず、殊勝にも本を広げ、また映画も観ようなどと思うようにもなる。そこで、まず最初は手頃なところからと、岩波新書の文京洙(ムン・ギョンス)『韓国現代史』(2005年)と四方田犬彦『ソウルの風景』(2001年)から読み始めた。前者では、2005年の「過去史法」(真実・和解のための過去史整理基本法)の成立を踏まえながら、「日本では想像を絶するような波乱に満ちた」韓国現代史が民主化闘争の展開を軸に整理されており、名前だけでほとんど内容を知らなかった済州島四・三事件の経緯とともに、光州事件についても比較的詳しくふれられていてなかなか興味深かったのであるが、より印象に残ったのは後者の『ソウルの風景』であった。韓国に対する予備知識を得ておこうなどといった姿勢そのものが煩わしくなっただけではなく、韓国社会の現実を切り取る感性の鋭さに心惹かれたからである。

 四方田は、「70年代にわたしがソウルで見かけた日本人の多くは、買春観光を目的とした男性たちであったが、今では何の屈託もない若い女性たちのパック旅行が主流になろうとしていた」と述べて、「1988年のオリンピックの前後に成立した大衆消費社会」がすでに確固たるものとなったことを確認する。その全編に流れる通奏低音は、こうした現実を踏まえて、ステレオタイプ化された韓国「神話」から離れ、「現実に隣人として存在している他者」の日常を曇りなき目で直視せよ、というものである。

 このような俗世に流通する言葉に変換してしまうと、何とも手垢にまみれた言説のように聞こえるかもしれないが、けっしてそうではない。そこには、定点観測者としての「自負」があり、曇りなき目をもたらしている膨大な「知」があり、その「自負」と「知」による隣人と自己への鋭い「批評」があるからである。本書の圧巻は「聖域となった光州」と「水曜集会」であるが、前者については後にふれることにして、元従軍慰安婦を扱った後者についての一節だけを引用しておこう。

 すでに彼女たちの物語を書物とドキュメンタリーフィルムを通して知っていた彼は、「あらゆる物語の枠組みを離れて彼女の顔を見ているだけで十分だった」と述懐しながら、「わたしには安全地帯から元慰安婦たちの物語を操作し、社会のなかに啓蒙的に分配し、その見返りに自分のアイデンティティを確立するという知のシステムは、どうにも馴染むことができそうになかった。ただ自分にできることがあるとすれば、この表象の物語をイデオロギーを離れた角度から眺め、そのシステムを批評的に見つめることだけである」と述べる。

 彼が馴染むことができそうになかったと語るこうした「知のシステム」に、大学教員としての私などはすっかり馴染んでしまっていたようにも思う。だから、もしも本書を手にしなければ、今回もまたこうした「知のシステム」にすっかり囚われて、「見たい」と欲するものだけを見て、何かを「見た」ような気になっていたに違いない。大事なことは、視野を広げて「眺める」ことであり、そして「見る」ことの持続すなわち「見つめる」ことなのだろう。

 ●「生活の細部」にひそむ冥さと哀しさ

 しかしそれにしても、こうした興味深い著作を生み出した作者は何者なのか。そんな興味もなぜだか湧いてくる。「老成」はしても、人間に対する好奇心はまだ失われてはいないということなのか。せっかくだからと、同じ作者の著作である『われらが<他者>なる韓国』(PARCO出版局、1987年)も手にして拾い読みしてみたが、読めば読むほど自分が「現実に隣人として存在している他者」について何一つ知ってはいないことを思い知らされた。すっかりマイナー・ポエット好み、私小説ファンになってしまった私などには、多才で饒舌かつ博覧強記の彼の著作についていくことなど、もともと無理な話だったのかもしれない。

 彼は、1987年の「民主化宣言」以前にすでに次のように述べていた。「現実の韓国人はけっして伝統文化への矜持や生硬な政治的観念だけを支柱として生きているわけではない。むしろ日本と同じく、いや場合によっては日本以上にダイナミックで猥雑な活気に満ちた環境のなかで、したたかに日々の日常生活の冒険を繰り返している。こうした生活の細部に立ちいろうとせず、巨大な歴史的時間と国際情勢だけを手掛かりに日本の知識人が韓国を説くときしばしば陥ってしまうのは、過度に理想化された道徳的国民としての韓国人の映像であり、それは多くの場合不毛な抽象論の域を出ない」と。

 そうなのかもしれない、いやきっとそうなのであろう。こうした文章を読むと、知識人などとはまるで縁遠いくせに、「生活の細部」に立ち入ることなく「巨大な歴史的時間と国際情勢だけを手掛かりに」韓国を見ようとしてきた私などは、すっかり自省の念にとらわれてしまう。「神々は細部に宿る」との箴言が、あらためてゆっくりと体内から立ち上ってくるのを感じるのである。ではどうすれば他者の「生活の細部」に立ち入ることができるのか。私は、ひとりの人間の生理と心理が丁寧に描き込まれた小説や映画を好むが、もしかしたらどこかで、そうしたものを通じて「生活の細部」に立ち入り、生身の人間に触れたいと願っているからなのかもしれない。ごくささやかな映画愛好者でもある私は、この機会に韓国映画も鑑賞してみたくなったのであった。

 出かける前に観た映画は、『光州5.18』、『ペパーミント・キャンディー』そして『殺人の追憶』(この映画は娯楽作品として第一級のできばえだったが、こうした映画にも抑圧された1980年代の臭いが感じられる。監督はポン・ジュノ)である。昨年日本でも公開された『光州5.18』(原題は陸軍空挺部隊の鎮圧作戦名であった「華麗なる休暇」。監督はキム・ジフン)は題名どおり光州事件そのものを描いたものである。

 映画評論家諸氏が偉そうに映画について語ることを私は好まないが、同じように語るならば、メッセージ性が強すぎる通俗的な映画であると言えなくもないのであろう。だが、事件の重さがそうした高踏的な批評を軽々しく口にするのをいささか躊躇わせる。人ひとりいなくなった深夜の街を走り続けるトラックとそこから聞こえてくる哀切きわまりない街頭放送、銃撃戦で一気に鎮圧されるその悲劇的な結末などは、やはり見続けるのが辛い。

 こうした死の「悲しみ」とは違って、人間の「哀しみ」が胸底に静かに沈殿していったのは『ペパーミント・キャンディー』(監督はイ・チャンドン)である。これまで観てきた韓国映画に対して、私は、いささかストレートな感情表現がもたらす鬱陶しいほどの暑苦しさを感じないではなかったが、そうしたものとは異質の感性がこの映画には流れているように思われる。主人公ヨンホの河原での自殺から始まって、ストーリーはさまざまなエピソードを挟みつつ20年前の過去へと遡っていく。そして、自殺することになったあの場所で彼は初恋の女性スニムと微笑みながら語らい、ひとり未来を夢見るところでこの映画は終わる。

 遡っていく過去のところどころに点滅するのは、韓国現代史の闇である。ヨンホは、徴兵時に光州事件の鎮圧作戦に動員され、女子高校生を誤って射殺してしまうのであるが、そのことが彼の人格を破壊し彼をスニムから遠ざけてしまうことになる。彼女から離れて根無し草となってしまったヨンホは、暴力や虚業による蓄財そして不倫の世界に溺れたあげく、人生に虚しさを募らせて自殺へと追い込まれていくのであった。

 『ペパーミント・キャンディー』は先の『ソウルの風景』に紹介されており、私はそれでこの映画の存在を初めて知った。四方田はこの映画を「恐ろしく冥い」と評しているが(希望が見えにくいが故に「暗い」のではなく、希望から遮断されてしまっているが故に「冥い」のであろう)、どういうわけなのか私はこうした冥さや哀しさに奇妙な懐かしさを感じた。ところで、「場合によっては日本以上にダイナミックで猥雑な活気に満ちた環境」のなかで「したたか」に生き抜いてきたはずの韓国の人々の「生活の細部」は、何故にかくも冥くそしてまたかくも哀しいのであろうか。

 「猥雑」も「したたか」も生きることのひとつの形容ではあろうが、そのことが、生きることの内実をどこまで示し得ているのか私にはよくわからない。「大衆消費社会」は、記号としての消費をそれこそ「猥雑」かつ「したたか」に繰り返してはいるが、じつはそうしたことによって、人々が自らの人生の物語を紡いでいくことをかえって難しくしているようにも思われるのである。そうであれば、物語をなくしてしまった冥く哀しい「迷宮」こそが、時代の実相だと言うべきであろうか。

 ヨンホという「私」が、「われらが他者」はもちろんのこと「われら」をも惹き付けたのは、四方田の言うように「われわれが今日の大衆消費社会の繁栄を享受し、民主主義の恩恵を受けて暮らしていける背後で、実は無数のヨンホたちが手を汚しながら自己破滅の径を歩んでいた」からに他ならない。さらに言えば、その破滅の真因は、素朴で、無垢で、純情なものを時代に流されつつ棄ててきた(生身の人間の弱さ故に棄てざるをえなかったのかもしれないのだが…)ところにあったに違いない。それらの懐かしきものの象徴として存在しているのが、初恋の女性スニムなのである。「われら」がミツを棄ててきたように(遠藤周作の同名の小説を原作に、浦山桐郎は『私が棄てた女』(1969年)を撮った)、「われらが他者」は初恋の人スニムを棄ててきたのであった。だからこそ、ヨンホは死ぬ間際に「帰りたい!」と叫ばざるをえなかったのだろう。

 もしかすると、冥く哀しい「歴史的時間」の痕跡を忘れ去ろうとして、ソウルの繁華街明洞(ミョンドン)通りの夜けばけばしいまでの眩さに包まれていたのかもしれない。だがその眩さは、5割近くにも達する非正規労働者の大群によって支えられており、あまりにも危ういものではなかったか(その一端については、雨宮処凜『怒りのソウル』(金曜日、2008年)や先にふれた『88万ウォン世代』等を参照されたい)。「大衆消費社会」は豊かな社会ではあったが、しかし他方では、その代償として人間としての感受性を鈍磨させ、剥奪し、喪失させていく危険を伴っていたようにも思われる。

 『ペパーミント・キャンディー』を観ながら私が思い出していたのは、1988年に自殺した田宮虎彦が、『足摺岬』や『絵本』、『菊坂』などで繰り返し描いた生きることの冥さと哀しさである。こうした冥さと哀しさなどは、マネーにまみれきったかのようなわが日本では、とうの昔に世間の表層からは忘れ去られたに違いなかろう。そして、今では「時代遅れ」となってしまった人間のみが、人生の重さにじっと耐えつつ繰り返し反芻しているだけなのではあるまいか。

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