韓国再訪(二)

 ●独立記念館における「歴史的時間」
 
 今回の韓国再訪に気持ちが動かされたのは、その行程に独立記念館と光州の訪問が組み込まれていたからである。なぜそのような場所に強く惹き付けられるのか。おそらくは、そうしたところに私にとっての「歴史的時間」が流れている、そんなふうに感じられるからなのであろう。1906年から始まった統監府による間接支配を含めると、その後40年にもわたって日本が植民地として支配し続けた朝鮮は、「他者」ではあるがたんなる「他者」としてあるのではなく、まさに「われらが他者」なのである。そうした意識は、もちろん自生的に芽生えてきたわけではない。高校の世界史の教師は、上原専禄の『日本国民の世界史』(岩波書店、1960年)をテキストにアジアのなかの日本をしきりに説いていたし、学生運動体験をはじめとした左翼体験を通して、ひととおり現代史を学びもした。そうした過去が私の「歴史的時間」の形成に影響しているに違いない。

 ほとんど素人に過ぎないにせよ、文学を好むような感受性を捨て切れなかったこともあったのか、中野重治の「雨の降る品川駅」(在日の人々と暮らした体験を持つ宮本輝は、『本をつんだ小舟』(文春文庫、1995年)でこの詩にまつわる思い出を書いている)や槇村浩の「間島パルチザンの歌」(間島とは中朝国境を流れる大河豆満江(トゥマンガン)流域の通称)に胸騒ぎのようなものを感じてきた。先の田宮の『朝鮮ダリア』などにも静かな感銘を覚えたことなども懐かしい思い出である。さらにずっと後になってからであるが、「ただ自分だけの小さな一喜一憂に生きて」きたマイナーな作家小山清の「詩集『朝鮮冬物語』によせて」も目にした。おそらくこんなふうにして、「われらが他者」は「われら」をそして「われ」を映し出す鏡のような存在となっていったのであろう。

 3月15日に訪れた独立記念館は、私の予想を遙かに超える威容を誇っていた。総面積400万平方メートルという広大な敷地に立てられたということで、ゲート前に聳え立つ「民族の塔」をくぐってから展示館のある「民族の家」にたどり着くまでが、かなりの距離だ。この独立記念館は、1982年の歴史教科書問題が発端となって、国民からの募金をもとに87年8月15日に開館されたということであるが、全斗煥政権が記念館の設立を国民に呼びかけた背景には、1980年の光州事件の後遺症を抱え、反日運動が反政府運動に広がることを極度に恐れていたこともあったという。ナショナリズムの高揚によって、第五共和国はその支配基盤を確実なものとしたかったのであろう。いずれにしても、ここにも光州事件が大きな影を落としていたのである。

 この「民族の家」には七つの展示館がある。それぞれ民族伝統館、近代民族運動館、日帝侵略館、三・一運動館、独立戦争館、社会・文化運動館、大韓民国臨時政府館と呼ばれているのであるが、民族伝統館では、秀吉軍と戦った李舜臣(イ・スンシン)が使用した亀甲船の模型が、近代民族運動館では、まだ幼ささえ残した顔で映っている義兵部隊の写真や安重根(アン・ジュングン)の血書が、三・一運動館では1919年の独立宣言書や「大韓独立万歳」を叫びながらデモする民衆の写真はもちろんだが、苛烈な弾圧(日本・中国・韓国によって共同編集された『未来をひらく歴史』(高文研、2005年)によると、死者が7千名負傷者が4万5千名を超え、投獄者は5万名近くに上ったという)によって死んだ、私などが名前さえも知らぬ独立運動家の遺品にも胸が痛んだ。

しかし七つの展示館でもっとも印象深いのは、やはり日帝侵略館である。この館では、日本が植民地支配下で行ったとされる拷問場面が、蝋人形によって生々しく再現されており、「見る」ことへの意志がなければ見るのがつらい展示が続くことになる。照明の落ちた場所で細長いガラス窓から覗くと、「棒ひねり」(縛った足の間に棒を入れてひねりあげる)「空中戦」(後ろ手に縛り天井からつるして棍棒で殴る)「水責め」(椅子に縛って無理矢理ヤカンの水を飲ませる)といった血生臭い拷問場面が現れるのである。さらには、独立運動家や共産主義者に対する処刑や虐殺場面の写真もある。

 昔の話になるが、『写真記録日本の侵略:中国朝鮮』(ほるぷ出版、1983年)や『写真図説日本の侵略』(大月書店、1992年)などによって、目を覆いたくなるような写真の数々を見てはいたが、「われらが他者」の展示として見せられるとやはりその印象は強烈である。写真集を見ているのとはやはりわけが違う。私も四方田のように、こうした展示を「イデオロギーを離れた角度から眺め、そのシステムを批評的に見つめ」たいと願いはしたものの、私の「歴史的時間」はそうした冷静さをどこか失わせていたように思う。たとえどのように評されようとも、こうした場所で冷静でいることが難しいのが私なのであり、それもやむを得まい。

 若い学生諸君などには、日本が本当にこんな酷いことをしたのかと訝る向きもあるかもしれない。しかし、ワーキングプアの間で爆発的に読まれ、今日までに総計で100万部近くを売り上げたという「蟹工船」(1929年)の著者小林多喜二は、1933年2月20日に逮捕されその日のうちに、特高による「残虐の限りをつくした」拷問によって虐殺された(ここに紹介するのも躊躇われるような惨状については、神津拓夫『作家その死』(近代文芸社、2008年)などを目を背けずに読んでもらいたい)。特高課長は、心臓麻痺による死であるとして遺体の解剖を妨害し、弔問者をも検束した。わずか29歳の若者の余りにも痛ましい死であった。

 3人が獄死させられた横浜事件でも、「小林多喜二の二の舞いを覚悟しろ」と独立記念館の展示同様の拷問が繰り返されていたのである(美作太郎他『言論の敗北』(三一新書、1959年)や松本正雄「横浜事件」(『ドキュメント昭和五十年史4』汐文社、1975年所収)を参照のこと)。国内においてさえこうした現実があったのであれば、「隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず」(福沢諭吉)と「脱亜」を掲げた「われら」が、「われらが他者」の地で、抵抗運動を根絶やしにすべく徹底した弾圧、拷問、虐殺を大規模に繰り広げたであろうことは、想像に難くない。今こう書いたが、ことは想像するようなものではなく、事実を直視しなければならないものとしてある。
 
 朝鮮半島における治安維持法による苛烈な弾圧は、本国ではなかった死刑が実際に執行されたことに端的に現れている。同法違反で逮捕され、虐殺・獄中死したのは本国では先の小林多喜二をはじめ約2000人とされている。このような累々たる死屍に胸が痛むのは当然であるし、拷問による虐殺などは死刑と同じようなものではあるが、それでも刑判の決まではでていない。しかしながら朝鮮では、「朝鮮ノ独立ヲ達成セムトスルハ我帝国領土ノ一部ヲ僣窃シテ其ノ統治権ノ内容ヲ実質的ニ縮小シ之ヲ侵害セムトスルニ外ナラサレハ即チ治安維持法ニ所謂国体ノ変革ヲ企図スルモノト解スルヲ妥当トス」ということで、朝鮮の独立を求める運動に対して死刑をもって臨み、実際に執行されているのである。そして「われら」は、死刑に処された「われらが他者」について知ることさえない。

 こうした過去は、現代の日本ではどのように受け止められているのであろうか。「日韓併合は、会社で言えば『対等合併』。朝鮮人にも日本人と同じ権利を与えたんです」などといった元航空幕僚長田母神俊雄のうそ寒くなるような言説が登場し、そんな彼の講演がなかなかの人気なのだという(『朝日新聞』2009年5月3日)。「日韓併合」などではなく、事実に即して「韓国併合」と呼ぶべきであると指摘し、朝鮮植民地化のプロセスを明らかにした歴史家の研究が、きちんと踏まえられるべきではないのか(海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995年)。宝島社などは、売れると見たのか、元航空幕僚長の著作を出版して彼の主張の普及に一役買ってさえ出たのであるが、出版社としての廉恥のかけらもない所業であると言う他はない。これもまた「歴史的時間」を失った「大衆消費社会」の見るに堪えない一齣であるが、そうした冥く哀しい現実から「われら」は目を背けてはならないのだろう。

 ●民主の「聖地」光州へ

 3月17日には、ソウルから4時間ほどかけて、民主化運動の「聖地」と呼ばれるようになった光州を訪ねた。以前「光州暴動」と報道された光州事件は、すでにその見直しと再評価が進められて、今では市の「5・18宣揚課」が作成したパンフレットにも「民主化を求めて立ち上がった市民の蜂起」であり、その後軍事独裁体制を崩壊させ文民政府を誕生させる大きな契機となったが故に、「韓国現代史の民主主義発展史に不滅の金字塔を打ち建てた民権闘争」と位置付けられている。1979年の朴正熙暗殺、「ソウルの春」の出現、粛軍クーデター、戒厳令布告、野党指導者の逮捕と続く事態の急変のなかで、全羅南道の抵抗拠点であった光州では、1980年5月18日に陸軍空挺部隊と学生との間に自然発生的な衝突が起こる。

 錦南路(クムナムノ)での学生たちのデモに対する容赦ない弾圧、激昂した市民も加わっての大規模な抵抗、空挺部隊による血生臭い一斉射撃、武器庫の奪取と市民軍の組織化、軍の一時撤退と光州市の包囲、収拾対策委員会の分裂、闘争派の道庁占拠による徹底抗戦、5月27日未明数千名の部隊の戦車での市内侵入と武力鎮圧、こうした経過をたどって光州事件は幕を下ろしたのであった。2006年までに政府による補償を受けることができた人数は、死者258名、行方不明者76名、負傷者3,417名、連行・拘禁者1,383名に上る。しかし申請者数はこれを大きく上回っており、軍による大規模な弾圧の常ではあるが、行方不明の申請などは405名(補償者を含む)にも達している(全南大学5・18研究所の資料による)。こうした現状は、過酷な弾圧の事実が国の内外で長期にわたって隠され続けてきたことと無関係ではあるまい。光州事件の真相はまだ解明されてはいないとされる所以である。

 こうした光州事件の輪郭については、先の『韓国現代史』や『ソウルの風景』、全南大学5・18研究所から事前に社研に送られてきたパンフレットやDVD、それに映画『光州5・18』などでひととおりは認識していったつもりであったが、しかしそれはもしかすると、知的な傍観者としての「整理」と「理解」と「解釈」に留まっていたかもしれない。先のような「知のシステム」のもとで行われている知るという行為は、客観的な装いをまとった退廃と紙一重と言うべきなのだろう。我々はまず全南大学の5・18研究所を訪問して事件の当事者でもあった呉在一(オ・ジェイル)教授から話を聞き、国立5・18墓地を訪れて献花した後、写真資料展示館で当時の生々しい資料を目にし、旧墓地そして5・18記念財団と巡った。批評の目を失ってはならないと自戒してはいたものの、「歴史的時間」と遭遇しているとの気持ちの高ぶりを押さえることは難しく、単細胞な私の感情は掻き乱されてしまうのであった。

 わざわざ日本から「聖地」を訪れるような「立派」な「民主」の人士として遇されたこともあったのだろう、記念財団では『We Saw』と題した分厚い写真集、Hong Sung Dam の光州事件をテーマにした立派な版画作品集、「記憶を記憶しろ」と題した10日間の記録のDVD、民衆の闘いを讃えた歌を収録したCDなどをもらった。土産などとは簡単に言いかねるような土産である。そのずっしりとした重さに、光州事件が韓国社会に与えてきた衝撃の大きさを感じたし、また政府の支援を受けた歴史の見直しが本格的に進められていることも、強く印象付けられることになった。それと同時に、こうした多大の犠牲のうえに花開くことになった民主の「聖地」のようなところには、いささか気軽に訪ねたりしてはならぬのかもしれないとの思いも、かすかながらよぎった。そしてまた、できたら錦南路あたりを一人ぶらついて、露天の飲み屋ででも酒をあおりたくなっていた。

 ところで、呉さんはきわめて興味深い人物として『ソウルの風景』にも登場する。そうした人物の話を、事件の発端となった全南大学で直接聞いている自分がいるというのが何とも不思議である。聞けば呉さんは地方行政や地方財政の研究者で、日本の自治労の仕事がらみで社研所長の町田さんとも親しい間柄なのだという。文学好きの町田さんからあれこれの情報を入手している私としては、何とも嬉しい限りである。世界は予想外に狭いと言うべきか。彼の話をここで詳述することは避けるが、その内容をさらに敷衍した講演記録(「1980年5月 光州事件、その後の経過と現在」、『中央大学社会科学研究所年報』第2号、1998年)が彼にはあり、それが当日配布された。この講演記録ができあがるについては、当時中央大学の教員だった伊藤成彦さんの尽力があったのだという(伊藤成彦『闇を拓く光』(御茶の水書房、2000年)の冒頭には、光州蜂起20周年を記念して開かれた全南大学5・18研究所主催の国際シンポジウムにおける伊藤さんの講演記録が収録されている)。

 呉さんの講演記録を読んで興味を抱いた箇所が二つある。一つは、彼が「光州事件で言いたい最も重要なポイント」としてあげた点、すなわち「戒厳軍の蛮行に抗議し、自発的に生じた偶発的な市民の自己防衛行為」であった光州事件には、事件を引き起こそうと意図した「組織」も「首謀者」もなく、そのために、「誰も光州事件の全貌を見ることができない」という点である。全貌を正確に把握することの難しさとともに、コミューンと化した美しき「光州の五月」を、我田引水の物語として語ることの危うさをも指摘しているのである。

 もう一つは、「学生など知識人は、状況を把握しているだけに、本当に危険な時には逃げ出しちゃうんですね。実際、僕もそういう経験をしました」と述べているところである。逃げ出した彼には、整備されて死者が「烈士」として祀られた国立墓地よりも、惨たらしい遺体が最初に埋葬された旧墓地こそが、自分が死者を悼むべき場所だとの思いがあるのだろう。逃げ出したにきまっている私にできたことは、ただ黙って墓石を見つめ、そっと手で触れてみることだけであった。

 映画 『光州5・18』について、キム・ジフン監督は「無知だった自分を懺悔する気持ち」でこの映画を制作したのだと述懐するとともに、「一般の人々が流した血や汗があったからこそ今の平和がある」と強調し、また「出演者やスタッフが犠牲者を悼む心を共有」したうえでこの作品は撮影されたのだと述べている(『情況』2008年9月号所収の同監督へのインタビュー記事)。「われらが他者」の今日を築いた原点を知るうえで、この映画が日本で公開された意義はきわめて大きかったと思うが、平和な時代に育った都市部の若者を取り込み商業映画として成功させるために、恋愛や家族愛を絡めた人間ドラマを強調したり、コミカルな登場人物をあえて配した手法には、賛否両論あったという(この映画に関する批判については、『情況』前掲号所収の鵜飼、小野沢論文や『インパクション』164号所収の文論文を参照されたい。いずれもいささか衒学的な議論の運びで、読み続けるのに難渋させられるのではあるが…)。

 この映画の徹底した批判者である文富軾(ムン・ブシク)は、「映画は、暴力の正体についても語らなかったし、抗争側の内部で進行した武装と非武装とのあいだの激しい論争についても語らなかったし、暴力の前に立たされた人間の躊躇と葛藤、恐ろしさについても語らなかったし、その10日間の光州の内外をめぐる固い沈黙についても語らなかった」と述べる。光州事件は、映画的な「物語」に作り直されているということなのだろう。文は、国家補償も名誉回復も過去事清算も、すべて「国民的和解への奉仕を目的とする『スペクタクル』」にすぎないと断じており、そこにはいささか厳しすぎるかもしれない批評精神がある。

 ただ私が余りにも情けなく感じ慨嘆せざるを得なかったことは、わが国においては先のすべて、すなわち国家補償も名誉回復も過去事清算も、放置され、無視され、封印されたままであり、「スペクタクル」さえどこにもないということであった。「進んだ」日本は、「遅れた」過去をひきずったままであると言うべきであろうか。いや、「進んだ」などといった形容詞の軽佻浮薄ぶりをこそ、われわれは今改めて問題とすべきなのかもしれない。

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