非正規雇用と格差社会

 前回「労働再規制のもたらすもの」と題して投稿してから、今日で8日目となった。今日まではほぼ1週間以内に投稿してきたので、今回は珍しく遅めである。この間、これまで長らく使ってきたデスクトップパソコンをノートパソコンに切り替えた。切り替えが完了するまではブログに投稿できなくなったので、間が空いたというわけである。

 私は旧いタイプの人間なので、十数年も前のパソコンを使い続けてきたが、使用者の私と同じくパソコンもそろそろ寿命が近づいてきた(笑)。子供が、使用していないパソコンを譲ると言ってきたので、これ幸いとその申し出を受けることにした。しかしながら、移行作業が私などにできるはずもなく、何時も世話になっている近くのパソコン修理ショップにお願いすることにした。そのために時間がかかり投稿が遅くなったのである。

 今度パソコンを買い替えるときは、ノートパソコンにしようと思っていた。持ち運びに便利なので外でも原稿が書ける、などと嬉しがるようであれば格好いいのだろうが、そんなことはまったくない。外に出掛けてまでパソコンに向かおうなどといった気はさらさらないからである。カフェでパソコンに向かっている人を見ると、一見スマートでオシャレでキレモノのように見えるが、そうした人は端から私の関心外である(笑)。

 私の理由はこうである。デスクトップパソコンだといつも机の上に鎮座しているので、どうしてもパソコンに支配されているような気分になる。何時も目の前にあるので、なかなかパソコンから離れられなくなるし、机に向かうとすぐにスイッチオンとなるからである。植木等ではないが、「わかっちゃいるけどやめられない」ので、どうしても心身が外に向かわなくなる。これでは年寄りの身体にいいわけはない。コロナ禍でその弊害はさらに大きくなってきたようにも感じていた。

 これに対してノートパソコンの場合はどうか。机の上に置かれてはいるが、鎮座しているような威圧感はない。その存在の軽さ故に、パソコンに拘束されているという感じがあまりしない。作業を終えてパソコンを閉じると、ディスプレイは視界から消える。それがたまらなくいい。鬱陶しくもないし、さらりとしている。そんなわけで、今日の投稿がノートパソコンで書いた最初の文章となる。

 今回取り上げるのは、前回の続きのような文章である。内容もそうだが、やはり研究職に復帰するためのリハビリのようなものだからである。短い文章なら書きやすいだろうし、リハビリにはうってつけだと考えて、原稿依頼を引き受けたのである。一つは、「非正規雇用の増大が示すもの」(かながわ総合科学研究所『所報』No.142、2006年)であり、もう一つは、「格差社会の行方」(『労働の科学』62巻11号、2007年)である。コロナ騒動を眺めていると、こうしたものを採録しておくことも少しは意味があるかもしれない。まずは、「非正規雇用の増大が示すもの」のエッセンスを紹介してみよう。

 今日では、もはや非正規の働き方が「周辺」の「例外」的な働き方などではなく、「基軸」の「恒常」的な働き方になりつつあるといえよう。フルタイムの労働者とほとんど変わらない働き方をする非正規雇用者が増加していることなども、こうした事実を裏付けている。森岡孝二氏は、こうした現代資本主義のありようを「フリーター資本主義」と命名したが(『働きすぎの時代』岩波新書、2005年)、きわめて興味深い指摘である。

 ところで、正規雇用と非正規雇用は何を基準に区分されるのであろうか。これまでは、正規雇用は雇用契約期間に「定めのない」雇用であり、非正規雇用は「定めのある」雇用であるとされてきた。しかしながら、伝統的な雇用の原型は、サマーズが指摘したように、雇用の「継続性」だけではなく、労使間における「人的な関係」や「フルタイムの労働」といった要素も備えていたといえよう。

 そうすると、伝統的な雇用からの乖離は、①使用者の分離、②パートタイム労働、③臨時的な雇用の三面からとらえることができる。近年外部の人材ビジネスを介して活用されている「派遣労働者」や「請負労働者」、あるいは個人への業務委託などは①や③と、雇用関係はあっても「パート」や「アルバイト」、「契約社員、嘱託」などは②や③と深い関わりを持つことになる。

 このように非正規雇用者の(そしてまた正規労働者の)内部構成も多元化してきていることをとらえて、これまでのような正規-非正規の枠組みでは人材活用の仕組みの「実態を見誤る」との指摘もある(佐藤博樹編著『パート・契約・派遣・請負の人材活用』日経文庫、2004年)。彼らは「非典型雇用」を多用するのであるが、典型-非典型の枠組みであれば、わが国における人材活用の仕組みがもたらしている問題点が誤りなく認識されるというわけでもない。

 例えば、「非正社員のなかに、正社員と同じような働き方をしている人が出現」しているとの指摘に対し、企業の人事担当者は同書の書評(『日本労働研究雑誌』535号)で、パートが増えたのは「まぎれもなくコスト削減」のためであり、そうしたパートに社員の仕事を担当させたり、能力や仕事で差をつけてきた結果、「社員と比べ低いコストで同じ仕事をしてもらおうというずるさ」ばかりが残ったとリアルに回顧してもいるのである。

 「非典型雇用」論者の非正規雇用論批判のもうひとつの論点は、「非典型労働に従事している人々は、正規労働などの典型的労働の就業機会から排除されているため、非自発的に現在の就業形態を選択しているとの見方がある」が、「そうした見方があてはまる層は多数派ではない」というものである。端的に言えば、非正規雇用の多くは労働者サイドの自発的な選択によって増大したというわけである。

 しかしながら、こうした指摘に対しても最近は疑問が提示されつつある。この間の非正規雇用者の増大は、自発的に非正規の働き方を選んだ「『働くだけの人でない層』の範囲を超えて非正規化が進んでしまった面」を有しており、「『正社員としての雇用機会がなかった』ことを理由として非正社員になっている層が少なからず存在」し、「新規学校卒業者層に該当する若年層においても非正社員の割合が大きく上昇」するだけではなく、「働き盛りの年代でも非正規化が進んだ」ことが注目されてもいるのである(労働政策研究・研修機構『多様な働き方をめぐる論点分析報告書』、2006年)。

 非正規雇用者の内部構成の多元化に着目するのであれば、それぞれのタイプの非正規雇用の選択がどこまで自発的でありどこまで非自発的であったのかをあらためてきちんと吟味すべきである。先の研究報告書では、「なりたくないのになっている層が存在するとすれば、短期的にはともかく中長期的には必ず揺り戻しの調整が行われることであろうし、もしそうでなければ労働市場以外の社会経済面で大きな危険的状況をもたらすであろう」と述べられてもいる。

 しかしながら、市場を通じて過剰化した非正規雇用が、市場を通じて大きく「調整」されるとは考えにくい。だからこそ、ワーキングプアや格差社会をめぐる議論が広がってきたのであろう。この間の偽装請負をめぐる経緯が示していることは、非正規雇用者のなかに生まれる正規雇用を求める「発言」と「運動」、それを支持する「政治」と「社会」、その結果として生まれる「規制」と「政策」こそが「調整」をもたらすという、いささかクラシックな原理の正しさだったのではなかろうか。

 以上が「非正規雇用の増大が示すもの」と題した小論のエッセンスである。こうした非正規雇用の増大が、格差社会と呼ばれるような「社会」らしからぬ「社会」の形成に大きな影響を与えてきたことは、いまさら言うまでもなかろう。そこに孕まれることになったのは、「社会」の軽視と「自己責任」の重視という新自由主義の深刻な病である。コロナ禍で浮かび上がってきたものこそ、まさにこの病なのである。以下に紹介するのは、「格差社会の行方」という小論である。

 「勝ち組」「負け組」などといった言葉が広く社会に流布していたり、「再チャレンジ」が政府の政策課題にあげられているところをみると、わが国が格差社会であること自体を否定するような議論はもはや消滅した。格差の拡大を示す指標としてよく取り上げられるのは、所得格差の大きさを示す「ジニ係数」である。これが1980年代以降上昇傾向を示していることからみて、わが国は格差が広がりつつある社会であると言えるだろう。しかしながら、この指標だけでは「負け組」とされた貧困層の分厚い存在が鮮明にイメージできないというもどかしさが残る。問われなければならないのは格差の実相である。

 その点では、経済協力開発機構(OECD)が昨年公表した「対日経済審査報告書」にこそ注目すべきであろう。それによれば、わが国はOECD加盟17カ国のなかで、18~65歳の生産年齢人口でみた「相対的貧困率」(可処分所得が中央値の半分以下の人口比率)が、アメリカに次いで僅差で第二位だというのである。平等社会日本のイメージを震撼させるに足る驚くべき調査結果である。「ワーキング・プア」、「日雇い派遣」、「偽装請負」、「ネットカフェ難民」といった新たな貧困のかたちが示しているように、アメリカ同様日本もまた貧しい人々が多い「経済大国」になりつつあるのだろう。

 勤労者世帯の平均年収が減少し続けるなかで、年収300万円以下の給与所得者が急増しているのであるが、その多くは3人に1人にまで達した非正規雇用者である。生活が苦しくなれば、貯蓄ゼロ世帯や国民健康保険料の滞納世帯が増え、激増したサラ金利用者のなかには多重債務に苦しみ自己破産する人も生まれることになる。自殺者が8年連続で年間3万人を超えただけではなく、餓死者さえもこの10年ほどで800人を超えているのである。他方その対極では、所得税の最高税率が半減され、大企業の役員報酬が倍増し、1億円以上の金融資産を持つ富裕層が増えているのだという。なんとも寒々とした「経済大国」の光景なのではあるまいか。

 貧困からの脱出が難しくなれば、貧しさ故の健康破壊が進行してもおかしくはない。100万世帯を超えた生活保護受給世帯やその周辺の「ワーキング・プア」の間には、健康保険料の未払いで保険証の発行停止に追い込まれたり、治療費未払いや治療の途中放棄、そして受診そのものの抑制が広がっているとの報道もある。格差社会は、仕事や結婚、家族、教育をめぐる格差の果てに「健康格差」(Health Inequality)を生み出す危険性がきわめて高い。「健康で文化的な最低限度」の生活を断念せざるをえない人々の間に健康への無関心が広がるとしたら、それこそが究極の「希望格差」と言うべきだろう。