「能力主義」の受容?「政治」への無関心?

 今回取り上げるのは、日本出版労働組合連合会(出版労連)が実施した青年アンケート調査へのコメントである。調査結果は1997年版青年白書(タイトルは「若い出版労働者は何を考えているのか」となっている)として纏められているのだが、それをどう読めばいいのかということで、研究者によるコメントを組合が求めてきたのである。自分なりの切り口を考えて、表記のようなちょっと風変わりなタイトルにしてみた。

 若い労働者のことに関して何かを書くことなど、それまであまりなかったので、調査結果を興味深く読ませてもらった記憶がある。今回ここに投稿するにあたってあらためてコメントを読み直してみたが、かなり旧い文章なのだが、今でもそれなりに読めそうな気もしなくはなかった。だからここに取り上げてみたくなったのであろう。以下がその全文である。

 労働組合のことを少しばかり勉強していると、青年の「組合離れ」がやはり気になる。だが、こうした深刻な問題にお手軽な回答などあるはずもない。大事なことは、まず彼らの現実の姿をしっかり見つめることである。今回のアンケート調査は、賃金と仕事に関する設問群と労働組合に関する設問群から組み立てられているようなので、それぞれについて気づいた点を思い付くままいくつか指摘してみよう。

 今回調査の対象となった青年(35歳未満)のほとんどは、「仕事には、年齢や性別は関係なく、その人の能力が重要だ」と思っており、また「賃金に反映する査定」についても5割を超える青年(男性では6割を超える)が受容する姿勢を示している。今日の時代の「趨勢」となりつつある能力主義が、彼らの間にも広まっていることがうかがえる。

 しかしながら他方では、「年功序列制から、査定や評価に基づいた能力中心の賃金制度への切り替え」に対して肯定的に評価した者は4人に1人程度しかなく、「わからない」と答えた者がが半数近くを占めている。ここに現れているようなズレをどのように理解したらよいのだろうか。

 私には、「わからない」と判断を留保した青年の多くが、査定はあってもいいがそれが中心となることについてはためらっているように見える。こうしたためらいは、ある意味では当然のためらいなのかもしれない。なぜか。一つは、経済学が教えているように、賃金は労働にだけではなく生計費にも対応しなければならないからである。査定で決まる賃金は生活を危うくしかねない。

 もう一つは、査定自身がそもそも難しい問題を抱え込んでいるからである。誰が、どのような能力を、どのような方法で評価するのかという問題に対する正解は、そう簡単に見いだせない。労働省の「雇用管理調査」(1996年)によれば、人事考課制度のある企業の9割は「制度・運営上に問題がある」と答えているのである。

 もう一つ興味深かったのは、能力主義を受容しながらも彼らは仕事に対してかなり限定的な姿勢を貫いていることである。ふだんの生活における「いきがいや張り合い」は仕事以外であり、「金や名誉を考えずに、自分の趣味にあった暮らし方をする」ことを望み、「気に入った仕事なら、私生活を犠牲にしてもかまわない」などとは思っておらず、「自由時間が減るくらいなら、収入は現在のままでよい」と考えている。

 仕事と余暇では余暇の優先度が高そうであり、「いちばん充実感を感じる」のは「ゆったりと休養しているとき」だったり「趣味やスポーツに熱中しているとき」だというのである。会社人間の対極にある仕事観といってもいいだろう。こうした仕事観は、はたして能力主義や査定と矛盾なく両立できるであろうか。かなり難しいのではないか。

 能力主義や査定の受容は、青年の専門職へのこだわりに由来しているように見える。彼らは、職業上のコースとしては専門職コースを好み、「知識や技術・技能を生かして能力を発揮できれば、特に昇進にはこだわらない」し、「自分の能力や希望にあった仕事ができなければ、転職した方がよい」と思っている。能力主義や査定を受け入れれば彼らが専門職になれるわけではない。問題は、生かすべき知識や技術・技能をどのようにして獲得していくのかということであろう。

 業界で一人前の専門職として通用する能力は、OJTをつうじて企業内で育成されるだけではなく、働く者自らが育成しなければならないものでもある。青年のそうしたニーズを、労働組合はこれまでも汲み上げてきているが、それをさらに充実していくことが求められているのではなかろうか。こうした「仕事の質の向上」に対する労働組合の取り組みは、彼らの個人主義的な能力観を変える可能性がある。

 労働組合に関する設問群は、青年の「組合離れ」が深刻な問題となっていることでもあり、もう少し詳しく尋ねるべきだったかもしれない。そのなかで、執行委員を「一度は経験すべきだ」との回答が4割を超えていたのは予想外であった。労働組合の必要性についての認識は、青年の間にも定着しているということであろうか。

 ここで問題となるのは、労働組合に対する期待が賃金・労働条件にほとんど限定され、その他の取り組みに対する期待がそれほどは大きくないことである。とくに「政治課題」に対する期待が極端に小さく、「期待しない」あるいは「関わるべきでない」と答えた者が6割近くに達している。

 こうした回答結果から見ると、青年の政治に対する無関心といった常套句ばかりが強調されかねないが、それは正しくないだろう。他方では、今の「社会体制」や「政治のあり方」に対して不満を持つ者が6~7割にも達しており、かなり強い不満が表明されてもいるからである。

 今の「社会体制」や「政治のあり方」のどこにどのような不満を抱いているのかは今回の調査では不明であるが、そうした点をさらに掘り下げることによって、労働組合の「政治課題」に対する取り組みを再検討すべきではなかろうか。

 現代の青年は、生活に満足しているためなのか、狭い意味での政治問題(例えば「財政構造改革」や「日米防衛協力の指針(新ガイドライン)」問題など)に対する関心は弱いが、環境や人権、福祉などの問題(例えば諌早湾干拓や従軍慰安婦、HIV訴訟など)には強い関心を示しているという(『朝日新聞』1997年10月17日)。

 彼らが関心を示している「社会」問題に対して、労働組合はどのような関心を示してきたのであろうか。「この指とまれ」だったり「今どきの…」といった決めつけではなく、彼らとともに彼らの視線で、社会や政治を考え、語ることが今労働組合に求められているのではあるまいか。

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