近隣の緑道を通って

 今日はもう12日、正月気分もすっかり抜けた。現在は二度目の緊急事態宣言下にあるような状況なので、もともと正月気分などとは無縁の方々も多かったのかもしれない。今の事態に関してあれこれ書いてみるのも悪くはないのかもしれないが、そんな話は至る所に溢れているようにも思えるので、今更という気もする。

 そんなわけで、相変わらず浮世離れした文章を綴ることにした。年が改まったというのに、去年の話を書くのもどうなのかなと思いつつも、これまでと変わらずに続けるしかない。高浜虚子の名句「去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの」の境地である。この句に惹かれるのは、たとえどうあっても揺るがぬ自分でありたいと願っているからなのであろうか。

 昨年最後のブログへの投稿は、「晩秋の武蔵野を歩く」であった。11月末に企画された年金者組合のウオーキングで、武蔵国分寺跡に出掛けて来た話を綴ってみたのである。主催者の方は合わせて紅葉狩りも想定していたようであったが、紅葉はそれほど目には留まらなかった。私がいたく気に入ったのは、紅葉ではなく武蔵野の雑木林の方であった。静かな雑木林を一人で歩んでいたら、何とも心が安まったからである。

 このウオーキングは、特別なことがない限り毎月企画されており、当然ながら12月にもあった。前回1万歩近く歩いた翌週である。元気な方が多いのであろうか(笑)。勿論私も参加した。歩くのが好きだし、特段のことがない限り毎回参加すると自分で決めているからである。今回は、「都筑・緑道の紅葉を訪ねて」と題して、近くにある緑道を歩いた。

 前回同様今回もまた冬晴れの天気に恵まれた。冬晴れとは穏やかに晴れ渡った冬の日のことであり、冬日和とも言うらしいが、こうした天気もなかなか気持ちがいいものである。防寒具さえ着込めばそれだけでいい。風のない澄みきった空には明るい日差しが広がっていたので、散策には申し分のない日となった。

 前回は紅葉狩りというほどのことはなかったが、今回は違った。文字通りの紅葉狩りである。紅葉狩りとはなかなか優雅な表現であるが、私のような俗人にはあまり似つかわしくはない(笑)。『新日本大歳時記』を広げてみたら、紅葉は「雪月花」に劣らず和歌以来の代表的な美の主題であり、連歌や俳句ではこれに時鳥(ほととぎす)を加えて「五個の景物」と呼ばれているとのことであった。この解説を書いていたのは、俳人の鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)である。そこには以下のような興味深い指摘もあった。

 紅葉は、個々の木よりも、錦のように染め上げられた山々の見事さをたたえることが多く、春の桜狩りのように、秋には紅葉狩りに出かける。紅葉の美しさはやがて散ってゆくという滅びを前提としている。それは秋という季節の華やかさの裏にある寂しさそのものでもある。桜同様、身近であるだけに発想が型にはまりやすく、なかなか扱いが難しい季語。「障子しめて四方の紅葉を感じをり」(星野立子)、「紅葉して桜は暗き樹となりぬ」( 福永耕二)のように、感覚を研ぎ澄まし、焦点を定める必要があろう。

 なるほどと深くとうなずくような文章であり例句である。先程の五個の景物などは、感覚を研ぎ澄ますことなく扱えば、発想が型にはまって俗に流れるに違いない。俗人の私ではあるが、桜や紅葉をそのまま手放しで素直に愛でる気になかなかなれないのは、そんな危険を何処かで感じているからなのであろうか。
 
 センター南駅に集まったウオーキング参加者は、近くにある都筑区最大の公園である都筑中央公園に向かった。ここには何度か来ているが、今回のようにきちんとした解説を聞いたり、資料を読んだり、掲示を見たりしながら歩いたことは一度もない。それ故、既知の場所が予想外に新鮮に感じられたのが嬉しかった。もしかしたら、ブログに投稿しようと思っているために、こちらが少しは感覚を研ぎ澄まそうとしているからなのかもしれない。

 都筑中央公園などという味も素っ気もない名称の公園には、宮谷戸(みやと)の大池や螢見橋があり、そこを抜け緑道のささぶねの道を通って心行寺に着いた。肝腎の紅葉はどうだったかと言えば、写真を見てもらえばよく分かるように、文字通りの見頃でありあちこちが紅葉で飾られていた。なかなか派手な光景ではある。これなら紅葉狩りと言っても言い過ぎではあるまい。

 心行寺にあった案内板によれば、この寺がいつ開創されたのか定かではないが、開山相誉上人の没年より文禄・慶長年間にかけての開創と推察されるという。新編武蔵風土記稿によれば、「荏田村澁澤谷にあり。澁澤山龍泉院と號す。浄土宗江戸芝増上寺の末寺」だとのことである。私が興味深く目にしたのは、こうした由緒よりも、もう一つの簡素な掲示板に樋口一葉の和歌が貼られていたことである。「あらし山ふもとの寺のかねの音にくるる紅葉のかげぞさびしき」とあった。一葉が和歌を詠んでいたことも知らなかった。 

 「墓地分譲中」の看板がいささか興ざめではあったが(笑)、それを除けば静かで落ち着きのあるいいお寺であった。紅葉狩りにもよく似合っている。その後葛が谷公園まで来たところで、今回は最終目的地の仲町台駅まで行かずに途中終了となった。歩き疲れて大分遅れた方がおられたためである。無理はできないので仕方がない。

 私はもう少し歩きたかったので、受け取ったチラシを頼りに、一人で最後まで歩いてみた。葛が谷公園から大原みねみち公園、茅ヶ崎公園、せせらぎ公園と辿ってようやく仲町台駅に着いた。途中で、先週武蔵野の雑木林を歩いたときの感覚が蘇ってきた。一人だと感傷的になるからなのであろうか。昔仲町台にあった店を探してみたが、フランス料理のレストランも、アンティークショップも、アジアングッズを扱っていた店も、蕎麦屋も既になくなっていた。

 あるのは何の興味も沸かない店ばかりである。あの頃からもうだいぶ時が流れているので、やむを得なかろう。初冬に一人で散策した所為か、無くなってしまったものばかりが思い出されて、いささか寂しさを感じたのであるが、これもまたもしかしたら型通りの発想だったのかもしれない。

   

身辺雑記

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