読書四題(二)-「メタメッセージ」のこと-

 続く第二話では、友人の話を取り上げてみたい。私の昔からの友人にKがいる。現在彼は体調を崩して介護施設に入所している。そのKは、入所するまではフリーのライターの仕事をしており、これまでにかなりの数の著作を纏めている。日本史の知識がとりわけ豊富なので、歴史物や時代物が彼のもっとも得意とする分野であるが、ある名の知られた政治家のゴーストライターのような仕事を、何度か手掛けたこともある。もの書きで食べていくためには、そんな仕事も引き受けざるを得ないのであろう。
 
 彼は、元気な頃は本が出来ればいつも私に贈ってきてくれたが、それとともに、「感想を聞かせてくれ」と必ず電話してきた。だから、もらったが最後必ず通読しなければならない羽目に陥った。ふざけて言えば、タダほど高くつくものはないのである(笑)。向ヶ丘遊園駅近くの飲み屋で二人で飲んだ時なども、自分が書いた本の話か、これから書こうとする本の話に夢中になることが結構多かった。私に気を許していたり、甘えていたからでもあろう(笑)。

 歴史の知識などないに等しい私のような素人に、感想を求めてみても詮ないような気もしないではなかったが、求めに応じて、ごくごく普通の読者の一人として、あれこれ感想めいたことを語ったりもした。歴史のディテールについては何も語れないので、書いたもの(あるいはこれから書こうとするもの)の大枠や筋立てや叙述全般に拘わるような、いかにも印象批評めいた感想でしかなかった訳だが…。

 今から考えると、ものを書く人間は作品を仕上げるまで孤独な作業を強いられることになるので、書き上げたものが、読者からどのように評価されるのかが気になっていたのであろう。たとえその分野に関しては素人であったとしても(いや、もしかしたら素人であったからこそ)、忌憚のない感想を直接聞いてみたかったに違いなかろう。その相手として、私などは格好の存在だったのかもしれない。

 しかしながら、もう少し掘り下げてみると、単純に感想を聞きたかった訳ではなかったろうとも思う。やはり、身近な知り合いから、評価して欲しかったのではあるまいか。もの書きとしての自分の才能に関する漠然とした不安(それは将来に対する不安でもあるのだが)もあったはずだから、身近な人間から褒められることによって、どこかで安心したかったのかもしれない。当然の心の動きだと言うべきだろう。誰でも、貶されるのは嫌で褒められれば嬉しいに決まっているが、先のような心の動きは、そうしたよくあるような感情からもたらされたものとは、微妙に違っていたはずである。

 私は、たとえあまり名の知れない出版社であろうとも、出版社から本を出して印税や原稿料をもらい、しかもそれによって生活を維持することができるというだけで、何とも凄いことだと思っており、そうした人に敬意を払っている。そんな考えは今でも変わらない。松井計さんの『ホームレス作家』(幻冬舎、2001年)や『ホームレス失格』(幻冬舎、2002年)などを読むと、もの書きで生きていくことがどれほど大変なことなのかが、実によく分かる。だから、Kの話を聞くたびにいつも褒めた。他人からは結構辛口の人間のように思われることも多いが、私はその辺りは案外優しいのである(笑)。

 ものを書いて食べている人は、言うまでも無いことながら、余暇に書いたり趣味で書いたりしている訳ではない。書きたい時に、書きたいことだけを書いている訳にはいかないからである。職業としてのもの書きなのだから、どうあっても売れる原稿を書き続けなければならない。先の松井さんの著作やKの話を通じて、その大変さを少しばかりは知っていたので、お気軽な立場にいて、好き勝手に論評する気にはなれなかったのかもしれない。

 昔話になるが、映画評論家としても著名で映画の解説者もしていた、淀川長治という方がいた。映画番組の解説でテレビにもよく顔を出していたから、彼の風貌や独特の語り口を覚えておられる方も多いのではなかろうか。映画に関する本もたくさんあり、私も何冊か読んだことがある。

 その彼が、いつだったかテレビ番組で次のように語っていた。「たとえB級映画、C級映画であろうとも、解説している人より映画を作っている人の方が偉いんですよね」。今でも忘れられない科白である。彼はいつも優しい語り口で、取り上げた映画の良いところを見つけ出して褒めていたが、そこには、実作者に対して敬意を払わなければならないという、揺るがぬ信念があったのであろう。

 もの書きの人が原稿を書いて本にするという営みは、大学の教員が自分の研究成果を纏めるために、印税なしで(あるいは費用の一部を負担してまで)、本を出すのとは大分事情が違っている。はたまた現在の私のように、老後の道楽で冊子を作っているのとはまるで訳が違う。だから、まずはあれこれ褒めたうえで、いくつかの感想を付け加えることが多かった。淀川さんの姿勢に、自分なりに感じるものがあったからなのかもしれない。本心を言えば、のんびり雑談でも交わしながら久闊を叙したかったが、もの書きので生きている彼は、とてもそんな悠長な気分にはなれなかったのであろう。

 彼が体調を崩して施設に入所してから、かなりの年月が経っている。当然のことながら、この間は何も書いていない。ものを書けるような状況ではなかったからである。入所後何度か見舞いに出掛けたが、その際どんなふうに励ましたものか迷うことも多かった。今のところ傍目には元気に見える私のような人間が、型どおりに励ましたとしても、そんな目線自体が鬱陶しく思われる可能性も大であろう。

 結局のところ、彼を励ますには「頑張って書くように」と言うしかなかった。無理かもしれないと心の片隅で思いつつも、見舞いに行くたびにそう口にしてきた。だが、書けない自分に苛立っていたこともあって、彼は「ものを書くには体力がいるんだよ」などと自嘲気味に語ることが多かった。長時間机の前に座り続け、頭の中で何人もの登場人物を動かしながら原稿にしていくのであるから、相当に根気のいる作業であろう。そんな作業は、確かに体力がなければ無理である。

 しかし最近、ようやくにしてKの体調も上向いてきた。回復にはまだ遠いにしても、何か書いてみたいと口にするようになった。執筆意欲が戻ってきたようなのである。私がほっとしたことは言うまでもない。書こうとする作品の構想を私に話し、「この人物については、今まで誰も取り上げていないんだよ」などと、嬉しそうに語ったりもした。彼の頭の中で、登場人物たちが動き始めたに違いなかろう。

 それからしばらくして、歴史物の原稿を100枚ほど書いたということで、その途中の原稿のみがメールで送られてきた。源頼朝を助けた文官の御家人、中原親能(なかはら ちかよし)に焦点を当てた作品だという。過去の体験もあったから、これは直ぐに読んでその感想を聞かせに見舞いに顔を出せ、というメッセージに違いないと察した。隠されたメッセージをメタメッセージというが、きっとそれである(それほどメタでもないか-笑)。彼も口にはしないし、私も口にはしないが、それこそ阿吽の呼吸というものだろう(笑)。世情だけではなく人間の機微にもまるで疎い私ではあるが、その辺りは妙に察しがいいのである(笑)。

 とにもかくにも これだけの量の原稿を彼が書けるところまで回復したことが素直に嬉しかったこともあって、「よく書いたねえ」などと褒めた。勿論ながら、心から素直に褒めたのである。しかしながら、彼にはそんな褒め方がいささか(いや、大分だったかもしれない)気に入らなかったようで、もの書きなんだから書くのはある意味当たり前のことなので、褒めるなら中身を評価して褒めてくれとのことだった。そう言われて、一瞬とはいえ彼の我が儘振りが気にはなった。だが直ぐに考え直した。

 迂闊と言えばまったく迂闊であった。彼は、「よく書いたねえ」という私の言葉の背後に、(内容はともかく)といった言葉が隠されていることをすぐに察知したのであろう。私が彼のメタメッセージを嗅ぎ取ったように、彼もまた私からのメタメッセージを嗅ぎ取ったということであろうか(笑)。

 確かにそうなのである。送られてきた途中原稿を一読して、主人公たちの会話や行動を描いている部分と、当時の歴史的な時代背景を詳しく説明している部分が、あまりにもはっきりと分離しているように感じられた。両者が小説の中でうまく溶け合っていないために、ぎくしゃくしてどうにも面白く読み進められなかったのである。

 しかしながら、そうした感想を、数年もものを書くことができなかった彼に、そのままは伝えられなかった。伝えるべきだとも思えなかった。だが、私のメタメッセージを見透かした彼から、先のように言われてしまった以上、私は自分の抱いた感想をそのまま伝えてみるしかなかった。どう受け取られるのか些か心配ではあったが…。

 しばらくして彼から電話があった。あらためて原稿を読み返したらしい。彼としては、私の感想がやはり気になったからであろう。読み返してみて、彼にも思い当たる節があったためであろうか、私の感想が、当たらずとも遠からずだと言ってきた。私の指摘など、彼にはとうに分かっていたはずである。それでも少しばかり嬉しかった。

 私の感想が刺激となって、彼の作品が少しでもいいものに仕上がることを願っている。因みに、私がもっとも面白く読んだ彼の作品は、学研の歴史群像新書の一冊として世に出た『戦国叛逆伝』(2007年)である。これは(一)で終わっている。こう書けば、彼のことだから私のメタメッセージを直ぐに読み取り、きっと苦笑することだろう(笑)。