立夏から小暑へ(一)-「寺家ふるさと村」にて- 

  前回の投稿からまだ4日しか経っていないので、もう少し先でもいいかとも思ったが、あえて投稿しておくことにした。今日は7月23日、東京五輪の開会式の日である。浮世離れした私などは、オリンピックやパラリンピックに何の興味も関心もないので、ただぼんやりと世の中の動きを眺めているだけである。2013年に招致が決まってから、随分とさまざまなことが起こったようだが、最後は緊急事態宣言下での無観客開催の強行というとんでもない事態となった。そこに炙り出されてきたのは、日本社会の闇であり膿であり病であろう。その意味では、7. 23は8. 15そして3. 11に続く第三の敗戦と言ってもいいのかもしれない。

 今日は、壮大なゼロとなり果てた東京五輪をしっかりと記憶に留めるために、テレビ観戦なども遠慮して一人で静かに「祝宴」ならぬ「祝杯」を上げることにした。永井荷風の『断腸亭日乗』の1945年8月15日の稿には、「S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも良し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」とある。こんな日ぐらい、荷風を真似てみるのも一興であろう。

 ところで、何回か続き物の文章を投稿しているうちに、季節は立夏から梅雨を経て小暑から大暑へと移ってきた。朝から蝉の声もうるさいほどである。毎月行われている年金者組合のウオーキングに必ず参加し、何時もそれにまつわる話を投稿してきたので、引き続きこの間の分についても3回に分けて投稿しておくことにした。こうして書き留めておかないと、いつの間にやら印象が薄らいでしまって、後で記憶を呼び戻すのが難しくなるからである。しかしながら、他方では少し時間を置くことのメリットもないわけではない。どうでもいいことが濾過されて、書きたいと思うことがそれなりに沈殿してくるからである。まず最初に取り上げるのは、5月の初旬に出掛けた寺家ふるさと村と「のむぎ平和のバラ園」の話である。

 この日も前回同様好天に恵まれた。汗ばむほどの陽気で日差しが眩しいほどだった。寺家ふるさと村にはこれまでにも何度か出掛けたことがあるが、ほとんどがクルマであり、田園都市線の青葉台駅からバスで出掛けたのは今回が初めてである。クルマから離れるといろいろな発見がある。青葉台駅には少女像の彫刻があった。ほとんどの人は足早に立ち去るだけで振り向きもしないが、閑な私などはゆっくりと眺めたくなる。駅前から「鴨志田団地」行きのバスに乗り、終点で降りてしばらく歩くと寺家ふるさと村の入口に着く。

 何度でも来たくなるような、実に気持ちのいいところである。田圃の土と周りの緑との対比が何とも美しい。田舎育ちの私などは、それだけでうっとりしてしまう。景観がきちんと保存されているだけあって、あたりには何もない。田舎以上に田舎の景色なのである。こうした場所で深呼吸していると、都会の喧噪や世の中の馬鹿騒ぎ、人間関係の煩わしさなどに悩まされている日頃の自分を、すっかり忘れることができる。自然の懐に抱かれていると、それらのことがどうでもよくなるからであろう。自然の持つ治癒力ということなのか。こうした場所では、勿論ながらスマホをいじろうなどという気にもならない。当然であろう。

 近くにある熊野神社の階段で記念写真を撮り、のんびりと歩き始めた。里山には写真を撮りたくなるような場所がたくさんあるので、ブログに使おうと思ってあちこちで写真を撮った。美しい田園風景に緑溢れる山道、そして抜けるような青空である。誰が撮ってもいい写真になるに違いなかろう。逆に言えば、そうした場所で自分の眼を研ぎ澄ました風景写真を撮るのは、かなり難しいのかもしれない。私は、風景を見ることが好きだし、風景を見る目にもこだわりを持ちたいなどと思っている人間である。そんなふうに勝手に思い込んでいる。だからなのか、写真では前田真三、水彩画では宮田耕二、切り絵では内田正泰といった方々が好きであり、ときどき本棚にある写真集や画集を手に取る。そして、郷愁に駆られて柄にもなく見入ってしまう。そんなこともあって、寺家ふるさと村が好きなのである。

 里山をひとしきり散策してから、居谷戸(いやと)池と呼ばれる雨水調整池に向かった。誰かが、「池はこの道でいいの」と案内人のSさんに尋ねた。そうしたところ、そのSさんは「行けばわかる」などと駄洒落で返した。その機転に私は笑った。駄洒落が過ぎる年寄りもどうかとは思うが、しんねりむっつりしているよりは余程ましであろう(笑)。だが、駄洒落というものは一端出始めると次々に出てくるもののようで、際限がなくなりがちである。きっとそれで嫌がられるのであろう。広いベランダのある家を見て、ある女性が言った。「いいわねえ。布団が何枚でも干せるわね」。そうしたら、誰かが「1枚、2枚、3枚…おしまい」と返した。たいしたものである(笑)。

 他にも面白い駄洒落がいくつかあったのだが、残念ながら忘れてしまった。駄洒落を言う人も嫌いではないが、もっと好きなのは、大した駄洒落ではなくても笑ってやるような心優しい人(たとえば私のような-笑)である。こんな図々しいことを書いて平気なのも、すっかり年寄りになったからに違いない。同行の方々も、私同様皆伸び伸びしていたはずである。何とも和気藹々とした散策が続いた。

 最後に向かったのは、寺家ふるさと村の外れにある「のむぎ平和のバラ園」である。このバラ園は、「のむぎオープン・コミュニティ・スクール」の向かい側にある。アンネ・フランクの名に由来したバラ「アンネ」だけではなく、1977年に米軍ジェット機墜落事故の犠牲となった林和枝さん親子を偲び、和枝さんの父土志田勇さんが作ったバラ「カズエ」もあった。今思い返しても本当に悲惨な事故だった。横須賀にある「平和の母子像」については聞いたことがあったが、バラとなって残っていたことはまったく知らなかった。

 もちろんバラも美しかったが、フリースクールを運営し、こうしたバラ園を守り育てている元教師だという樋口さんご夫妻の心根の美しさに、いたく打たれるものがあった。最後に寺家ふるさと村の入口に戻り、四季の家の隣にある鰻屋でもあり蕎麦屋でもある店で、少し遅めの昼食をとった。初めて入った店だったが、落ち着いた雰囲気で味もなかなかよかった。アクリル板に囲まれて一人静かに天ざるを食べた。

 昼食をとったこの店が気に入ったので、この日から2か月ほど後の今月7月に入って、娘と二人の坊主を連れて鰻を食べにまた顔を出した。土用丑の日にちなんで、立派なうな重を食べさせてやったのである。年寄りに期待されている役割は、こんなことぐらいなのかもしれない(笑)。腹ごなしに散策したが、2か月前は土だった田圃は、田植も済んで緑一色となり、美しさは更に増したようにも感じられた。いつ来ても素晴らしい景色である。この日は梅雨の晴れ間で、うだるような暑さとなったので、甘味処で今年初めてとなる氷水も食べた。小僧たちももうすぐ夏休みである。