福島から(二)-高羽哲夫記念館にて-

 温泉巡りに出掛ける当日となった。この日は、高湯に音楽スタジオを持つSが、私が泊まっていた弟の家の近くまで迎えに来てくれた。一緒に出掛けるはずだったHは、当日午前中に対応しなければならない急な用事が出来たために少し遅れるとのことで、私とSだけが先に出掛けることになった。向かう先は、飯豊山(いいでさん、標高2,105メートル)の麓にある温泉保養施設「いいでの湯」である。この宿は喜多方のかなり奥にある。

 昼前にSの運転で福島を離れた。喜多方でラーメンでも食べようということになったのだが、まあわれわれも結構ミーハーなのである(笑)。天気も上々だし、急ぐ旅でもないので、まさにドライブ日和である。電話では時折話をするが、顔を合わせるのはほぼ1年ぶりなので、Sと車内であれこれとのんびり雑談を交わした。Sはもともとは声楽家だが、今は指揮者に転じている。高齢になったので、その方がきっとよかったのであろう。私には、政治談義はできても音楽談義は無理である(笑)。何の素養もないからである。だから彼も私に向かってそんな話はしない。

 Sの話で興味深かったのは、音楽の道を志し、音楽大学を卒業した彼の友人や知り合いたちのその後の人生であり、音楽の世界で暮らしていくことの苦労話である。老境に入ってくると、我が身を振り返ることもあって、そんな類いの話に興味が沸くのであろうか。はたまた、他人の苦労話を聞きながら、自分はこれでよかったのだなどと思いたいのであろうか。あるいはまた、そんなことを思っているみっともない自分を、抉り出したいからなのであろうか(笑)。

 喜多方では、よく知られたラーメン店が定休日だったり、長蛇の列だったりしたので、比較的行列の短い店に並んだ。店の前で待ち入店してからもテーブルで待ったので、出てきたラーメンはそれだけでもう既に美味だった(笑)。まさにHunger is the best sauce.である。喜多方ラーメンがなぜ全国的に名が知られるようになったのか、他のラーメンといったいどこが違うのか、そんなことはどうでもよくなってしまった。
 
 目的地の「いいでの湯」は、山峡の地にある一軒宿だった。われわれが到着してから程なくしてHも到着した。湯船も広々として気持ちが良く、深まる秋の中で日頃の疲れを癒やした。宴席でわれわれを前に語るHの話は、まるで漫談のようだった。タダで聞かせてもらうのが申し訳ないくらいである(笑)。ただし、漫談家は人の話を聞くのが苦手である。私も家人に常日頃同じようなことを言われているので、とても他人事ではない。そんなこんなで温泉宿の夜は更けた。

 翌日は猪苗代にある中ノ沢温泉に向かうことになっていたので、再び車中の人となった。途中勝常寺の標識が見えたので、折角だからと暇に任せて寄ってみることにした。私もそうだがSも道草が結構好きである。私の場合は、ブログに書く材料があるかもしれないなどと不埒なことを考えていることもある(笑)。勝常寺のある湯川村のホームページによると、この寺は、法相宗の硯学徳一(とくいち)上人によって、807年に開かれたという。この徳一は、日本初の伝教大師となった最澄の論敵として知られている。

 創建当初の寺院名はよくわかってはいないようだが、中世以後は勝常寺と呼び習わされているとのこと。創立された当時は七堂伽藍が備わり、多くの附属屋や十二の坊舎、さらには百余ヵ寺の子院を有する一大寺院であったという。寺にあった案内板によると、現在残されている建物は薬師堂や客殿、庫裏、中門などで、仏像も三十余躯あると記されていた。外見とは違ってなかなか由緒のある立派な寺なのである。古刹とはこうしたものを言うのであろうか。鄙びた感じが何とも言えない。

 勝常寺をひとしきり眺めて戻ろうとしたら、駐車場のあった「湯川たから館」の前に、「高羽哲夫の軌跡」と題した大きな看板が立てられているのが目に入った。この看板には「山田洋次監督と共に歩んだ映画人生」との文字もあったので、どんな人物なのか知りたくなった。「入場無料」というのもその気にさせたかもしれない(笑)。何とも分かり易い行動パターンではある。

 高羽哲夫(たかは てつお、1926~1995)という人を私はこれまでまったく知らないでいた。彼は湯川村の出身で、会津中学(旧制)を卒業後松竹に入社し、映画カメラマンとなって山田洋次監督とコンビを組み、「男はつらいよ」全48作の撮影に携わった人物だった。もらった「高羽哲夫遺品集」と題したパンフレットによると、監督の初期の作品である「馬鹿まるだし」で撮影監督としてデビューし、「馬鹿が戦車でやって来る」から、世評の高かった「幸福の黄色いハンカチ」や「同胞」、「息子」、「学校」まで、実に多くの山田映画を撮っている人物だった。日本映画アカデミー賞を始めとして、数多の映画賞も受賞している。

 山田監督の映画はそれなりによく見ている方だとは思うが、俳優陣や監督にばかり目が行って、スタッフの存在などまったく忘れている。如何に物事の表面ばかりを追いかけているだけかが、分かろうというものである。些か驚いて、展示されたものを眺めていたら、村の職員の女性がわれわれの側でとても熱心に説明してくれた。あまり見学者が来ないこともあったのかもしれないが、それ以上に、高羽哲夫を湯川村の誇りに思っていることがよく分かり、何となく微笑ましい感じがした。

 館内には、山田監督の追悼文も展示されていた。そこにはこうある。「頭の良い人はいる。高い教養や豊かな想像力の持主もいる。しかし、高羽さんのように、そのすべてを合わせ持った人はめったにいるものではない。この人を仕事の伴侶に得たぼくは、はかりしれぬ果報者だった。ぼくが彼を独占していなければ、彼はもっともっと優れた仕事を残したかもしれない。高潔、という、今は死語になりつつある言葉にふさわしい生涯を生きた人だった。あらゆる意味で、一流の人だった」。彼に対する何とも心暖まる賛辞である。

 また、「高羽さんを称える」という別の文章も展示されており、そこには次のような一文も見える。「高羽さんを称えると共に、その高羽さんを産み、育てた父祖の地、彼が誇りにしてやまない会津の地に対しても、ぼくは常に一目も二目も置いて敬しているつもりである」。高羽哲夫は会津の生まれであることを誇りに思っており、山田監督も高羽に対してだけではなく、会津の地にも敬意を払っていたことがよく分かる文章である。湯川村の人々が、「湯川たから館」を建てて、故郷を忘れることのなかった先輩を顕彰しようとたのは当然であったろう。決して立派な記念館とは言えなかったが、素朴で田舎の匂いがする暖かな場所だった。