畠山重忠ゆかりの地鶴ヶ峰を訪ねて

 先月2月のウオーキングでは、畠山重忠ゆかりの地である鶴ヶ峰を歩いた。この鶴ヶ峰は相鉄線の停車駅なので、横浜まで出て電車で行くことも可能だったが、今回は中山駅からバスで30~40分ほどかけて、旭区にある鶴ヶ峰に向かった。バスが通ったのは、昔保土ケ谷に住んでいた義父母のところに出掛ける際によく通った道だったので、その頃のことが思い出されて懐かしかった。このところ、年金者組合のウオーキングは好天に恵まれているが、今回もまた散歩日和のいい天気だった。この私は、畠山重忠が鶴ヶ峰近辺で討ち死にしたことなどは勿論のこと、畠山重忠という人物についてすらもまったくと言っていいほど知らなかった。しかしながら、参加者の多くはNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場したこの人物のことを、それなりに知っているようだった。人気ドラマの影響力は絶大だということか(笑)。

 今回もまた案内人のSさんがたいへん丁寧なチラシを作成し、それぞれの訪ねた場所で詳しく説明してくれた。いつもは4ページ立てなのに、今回のチラシは8ページ立てだったから、彼が歴史好きだということがわかろうというものである。事前に下見もされていたようだ。人がすべてお膳立てしてくれた企画に、ただただ参加するだけの自分が少しばかり恥ずかしくなった。もっともそんな殊勝な気になったのはほんの一瞬ではあったのだが…(笑)。そのチラシによると、重忠は頼朝の信頼を得て鎌倉幕府で大いに活躍し、勇名を馳せたようだが、頼朝亡き後北条一族の権力争いに巻き込まれ、所領地の嵐山町にあった菅谷館から鎌倉に向かう途中、騙し討ちに遭ってここ鶴ヶ峰付近で非業の死を遂げている。

 主君の一大事と聞いて「いざ鎌倉」とばかりにわずか134騎の手勢で駆けつけようとしたらしい。しかしながら、先に鎌倉に向かわせた息子の重保が謀反人として由比ヶ浜で討たれたことを知り、この自分にも北条義時の大軍が差し向けられていることを知るのである。家臣たちは重忠に一度本拠に戻って軍勢を立て直してはどうかと進言したようだが、彼は「一時の命を惜しんで、かねてより謀反の企てがあったかのように疑われるよりは、ここで潔く闘う」と家臣たちに告げるのである。その覚悟を知って全員が鬨(とき)の声を上げて、相手方の万余の軍勢に立ち向かい激闘を繰り広げたようだ。言ってみれば玉砕であり、最後には全員が討ち死にするのだが、その戦いに因んで戦場の跡が万騎が原という地名になったと言われている。霧ヶ峰の隣の駅は二俣川だが、この駅の近くに万騎が原が町名となって残っている。

  この時の戦いの様子は、『鎌倉燃ゆ』(PHP文芸文庫、2021年)に収録されている矢野隆「重忠なり」に詳しい。何だか見てきたような書きっぷりである(笑)。それだけ書き手の技量が優れているということなのだろう。読んでいるうちに、こうした歴史物を書くのが得意だった友人Kのことが思い出された。「重忠なり」の末尾は次のような文章で結ばれている。「その後、畠山重忠は関東武士の鑑として鎌倉御家人たちの間で語り継がれてゆく。彼の並外れた大力と武勇は神格化され、鵯越(ひよどりごえ)において馬で崖を駆け降りる義経たちを見て、馬を哀れみ、みずから担いで降りたという逸話をも生む。在世中から頼朝や義時たちにその武を愛された重忠は、生き様と死に様によって武士としての己を、後世に示したのであった。」

 この日私たちが巡り歩いたのは、首塚であり、畠山重忠の碑であり、薬王寺の六ツ塚である。いずれもそれほど離れていない場所にある。先ずは首塚であるが、その名の通り重忠の首が奉られたところだという。区役所裏側の小高い場所にあり、「首塚」と書かれた標柱があった。その側には、首を洗い清めたといわれる「首洗い井戸」があったというが、現在はない。次いで重忠の碑であるが、この碑は、水道道(すいどうみち、横浜市内に水を送るために作られた道路)が厚木街道と交わる交差点の、見晴らしのよい場所に建っていた。重忠没後750年を記念して、 1955(昭和30)年に鶴ヶ峰と埼玉県深谷市の有志によって建立されたものである。一見古そうに見えるが結構新しい。

 そして最後は、薬王寺にある六ツ塚である。薬王寺は重忠の碑から歩いて10分ほどの所にある。国道16号線を渡って路地に入ると、閑静な住宅地が現れるが、そんな場所にあった。重忠をはじめ、一族郎党を埋葬したと伝えられている6つの塚である。霊堂である薬王寺には重忠の霊が祭られており、毎年命日には慰霊祭が催されているのだという。境内にあった案内板には、 畠山重忠がここ鶴ヶ峰で無念の最期を遂げたエピソードとともに、「畠山重忠公は知仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている」と書かれていた。武勇の誉れ高い重忠だが、いつの間にかどんどんと偉くなっていくように思われて、臍曲がりの私は少しばかり笑ってしまった。

 ところで、世俗的には何やら偉人のような重忠だが、そんな重忠像が昔から出来上がっており、地元の人々からも敬愛され続けてきたのかと言えば、どうもそんなことはないようだ。私の住むところからさほど離れていないところに、横浜歴史博物館がある。先月このホールで演説会があったので顔を出したのだが、その際にショップで興味深い書籍を見つけた。『追憶のサムライ』(勉誠社、2020年)と題した、雑誌のような体裁をとった本である。収録されているのは本格的な論文で、中世の武士のイメージがどのようにして形成され、またその実像はどのようなものであったかが、実に詳細に論じられている。

 興味深かったのは、畠山重忠を論じた二つの論文、阿諏訪青美「横浜・二俣川地域にみる畠山重忠イメージの創生」と、林宏美「横浜鶴ヶ峰の畠山重忠顕彰運動と栗原勇」である。これを読むと、重忠に関する現存の一次資料はきわめて少なく(だから「と言われている」となるわけだが…)、後世の軍記物や演劇等でそのイメージが形作られてきたのだという。あれこれと逸話も創作されてきたのであろう。今風に表現すれば、盛られてきたのである(笑)。

 現在のような重忠像が確立し、広く世間に流布するようになるのは、近代に入ってからである。1872(明治5)年に全国に学制が敷かれ、1880(明治13)年の教育令の改正で「修身」の重要性が増すのだが、この教科書に重忠が登場するに及んで、剛勇・忠義・清廉潔白や教養の深さといった「武士の鑑」としての重忠像が確立していったのだという。同時に、全国で地域の偉人を顕彰する機運が高まり、畠山重忠に関してもいくつもの顕彰碑や像が建てられることになったというわけである。

 一面が畑だった鶴ヶ峰に碑や像や廟堂が建ったのだから、すべて新しいものばかりである。それまでは、地元の人々にも特段の親近感はなかったはずだ。重忠とその一族郎党が眠ると言われる六ツ塚や、彼らを奉る薬王寺も、昭和の初め頃は誰一人弔いに訪れる者もない粗末な寺で、狐や狸の住処であったようだ。そんな鶴ヶ峰に、ある時畠山重忠を武士道の鑑と慕う一人の軍人が現れるのである。その名を栗原勇と言い(彼の息子は、二・二六事件で首謀者の一人として処刑された栗原安秀である) 、彼は当時陸軍大佐であった。

 現役を退いた栗原は、精神的軍備の充実に情熱を燃やし、国民精神の称揚を目的とした活動に邁進するのである。その活動の一環として、畠山重忠の霊堂建設に関わり、重忠の伝記まで著すことになる。行動力に溢れた栗原は、軍人の立場と人脈を大いに活用して、鶴ヶ峰の重忠顕彰活動を積極的に支援したらしい。その結果、霊堂の建設や重忠の顕彰に対して多くの賛同者が集まることになったようだから、その意味では、畠山重忠を世に出したのは栗原勇であり、そしてまた彼の背後にあっ戦争だったのかもしれない。

 私は、もともと武士道にも侍にも関心がない。関心がないどころか嫌ってさえいる。忠義やら礼節やら清廉やらに胡散臭さを感じているからである。そんなこともあって、「侍ジャパン」などに何の関心も払わないので、やたらに熱狂することもない。今回のウオーキングは廻った場所が近かったこともあって、昼前に終わった。私はと言えば、せっかく鶴ヶ峰まで来たので、皆と離れて旭区役所に顔を出してみることにした。ネットで調べてみたら、区役所に重忠コーナーがあるとのことだったからである。入手したパンフレットを眺めていたら、重忠ブランドが紹介されており、重忠最中や重忠銘茶、重忠豆腐、それに旭の重忠という名の酒まであるとのことだった。こちらにも少し笑えた。霊堂などに奉ってありがたがったりしないで、一人の勇猛な坂東武者としての重忠を偲べば、それだけでいいのではないかとも思った。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/03/22

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