書き忘れたこと-自然教育園から-

 今回のブログには、「書き忘れたこと」といったタイトルを付けたが、正確に言えば「忘れた」わけではなく「残した」のである。しかしながら、書き残したと書くと少しばかり意味が違ってくるような気がする。そこで、あえて書き忘れたと記すことにした。晩秋の頃に、「『飲み会』三態」というタイトルで長々とブログを綴っていたのだが、そんなことにうつつを抜かしているうちに、年末が近づきさらには年が改まったものだから、昨年の11月と12月に行われた年金者組合のウオーキングの話を、ついつい書きそびれてしまったのである。

 新年を迎えたのだから、まずは新春の寺社巡りの話を先に書き、そのうえで昨年の話に戻ることにした。順番が前後したのはそんな事情があったからである。ご了解願いたい。ところで、今年の年賀状は、例年と違ってかなりシンプルなものにした。シンプルが過ぎて何とも味気ないほどである。2018年までは年賀状にびっしりと文字を並べていたが、退職後のここ3年ほどはかなりあっさりした文面に変化してきた。そして今年である。

 年を取ってくると、年賀状から離れる人も多くなる。年の瀬で気忙しくなる頃に、年賀状に追われるのが鬱陶しく感じられるからなのかもしれない。その頃に、相手のことを想いながら一言二言手書きの文章を添えることになるわけだが、それがいささか重荷になるのであろうか。わからないでもない。まったくの形式的な年賀状なら、何枚でもそしてまた何歳になっても出せるのかもしれないが、そこに何か意味があるようには思えない。

 これまでにも、「今年で年賀状を終わりにしたい」という年賀状をもらったこともあるし、年賀状に返事がないという対応に接し、結果として年賀状から離れたことを知ったこともあった。人それぞれである。今年は思い切って年賀状を模様替えしたのだが、その背景にはブログの存在がある。自分の思いは殆どブログに吐き出しているので、最早わざわざ年賀状に文章を綴る必要が無くなってきたからである。そんなふうに考えると、私にとっての年賀状の役割は、終わりに近付いているのかもしれない。

 今年の年賀状で、知人のHやKは自身が今年後期高齢者となることに触れていた。そうなのである。私もまた今年の誕生日で75歳となり、後期高齢者に分類されることになる。前期と言い後期と言っても何が変わるのか判然とはしないのだが、世間から見れば、後期高齢者ともなれば名実ともに年寄りということであろう。だからといって老け込む必要など無論ないが、最早十分に年寄りであるとの醒めた自覚ぐらいは持ちたいものである。年寄りの若さ自慢など滑稽の極みであろう(笑)。

 さて本題に戻ろう。毎回欠かさずに参加している年金者組合のウオーキングであるが、昨年11月には、国立科学博物館の附属施設である「自然教育園」に出掛けた。目黒駅から徒歩で10分もかからないところにある森である。この日私はあざみ野駅で一行と合流し、目的地に向かった。目黒などという所も私にはほとんど縁が無く、降り立ったのは一、二度あるかないかといった場所である。駅前には高層ビルもあり、幹線道路がすぐ側を走っていたから、こんな所に自然に溢れた森があるとはにわかには信じ難かった。

 当日受け取ったチラシには、以下のようなことが記されていた。港区白金台にある自然教育園は、「目黒駅から徒歩9分という立地条件にありながら、自 然の面影を残し、カワセミやオオタカも巣作りをする数少ない森」であり、もともとは「400年~500年前の豪族・白金長者の館跡と言われ、高松藩下屋敷、陸海軍の火 薬庫、宮内庁の御料地と歴史を重ね、通常一般の人々の出入りができなかったために、 まれに見る豊かな自然が残され」たのだという。

 その後「1949年に全域が天然記念物および史跡に指定されると同時に、自然教育園として一般 に公開されるようになり」、1962年には国立科学博物館の附属附属となったとのことである。そのために、「一般的な植物園や庭園と違って、自然の移り行くまま、出来る限り自然の本 来の姿に近い状態で残そうという独特な考え方のもとで運営されている」ようなのである。言ってみれば、東京という大都会のど真ん中に残された自然の森だということか。

 自然の状態に近い森は、成り行き任せで放置しておけば維持されるわけではなく、そのための行き届いた管理があってこそ保存されるのであろう。「無作為」を維持せんがための「作為」とでも言えばいいのか。こんな場所に来ると、両の手足を指先まで伸ばし、頭を上げて背筋を立て、肺腑の奥にまで達するほど深呼吸し、そして時々立ち止まりながら、ゆっくりと心の赴くままに散策したくなる、まさに自然を満喫できる素晴らしい森である。さまざまな花が咲き乱れる植物園でもなく、造園の粋や贅を尽くした庭園でもない。自然のままであることの贅沢を、満喫できる所なのである。しかも年寄りは無料で入園できるのであるから、有り難いの一言しかない(笑)。

 松の巨木や椎、コナラ、欅を初めとしたあれこれの木々の裸木が至る所にあったので、散策していて写真心がいたく刺激された。この日は快晴に恵まれたので、尚更である。沢山の写真を撮って廻った。ここであれば、春夏秋冬何時来てもいい写真が撮れそうな気さえした。「敬徳書院」の店主では飽き足らずに、ついでに裸木写真家にでもなろうかというお調子者の私のことであるから(笑)、そのうち気が向いたらまた顔を出すことになるかもしれない。

 帰り際に、正門脇にある教育管理棟に顔を出してみた。そこには自然教育園の歴史や生態が紹介されていると同時に、書籍や記念品も買えるショップにもなっていたので、眺めて廻った。これだけ自然に溢れた森なのだから、写真集ぐらいはあるだろうと思ったからである。眺めているうちに「photo二人三脚3腕」と記された一冊の写真集が目に留まった。福田盛明・福田光夫妻の『白金の森と自然』(2010年)と題した私家版のような写真集である。花や生物の写真も素晴らしかったが、私が気になったのは風景写真に写し撮られた裸木である。はしがきには次のようなことが書いてあった。少しばかり訂正して紹介してみる。

 私は残念ながら自分一人で写真を撮ることができません。10年前突然重い脳梗塞で倒れて以来左半身不随となり、左腕は麻痺が酷く今でもほとんど動きません。そのため写真の撮影には 妻の助けを必要としました。何事にも前向きな妻は、まもなく写真を覚え急速に上手になっていきました。こうしてphoto二人三脚3腕は誕生しました。思えば、病院を退院した当初は20 ~30メートル位しか歩けず、最初は園の備付けの車椅子を借りての撮影でした。しかしやがて 園の森が生み出す清浄な空気と何百年も経った巨木が発する強烈な気を全身で受けて、何とか 自力で歩けるようになりました。自然の力で私の病んでいた心と身体が甦ってきたのです。

 このように、自然教育園の森と自然は私達にとってかけがえのない貴重な存在なのです。以来私達が来園した日数も撮影した写真の枚数も相当な数となり、昨年は写真集「小さな白金の 森と自然」全3集を限定出版本として発刊しました。この本はそれらを纏めて特別に編集したものです。 この小さな白金の森と自然は、環境破壊が進む大都市の一角に存在すること自体が信じら れない、先人達から受け継がれてきた貴重な自然なのです。その大切な自然の息吹きを少しで も感じ取っていただければ幸いです。

 こうした文章を読むと、人間と自然との共生といったことを改めて考えさせられることにもなる。そしてまた、写真集を開けば、お二人がどのような思いでシャッターボタンを押し続けてきたのか、その一端を垣間見ることもできるはずである。写真集にあったように、「人は自然の息吹の中で生きている」に違いないし、そしてまた、その息吹の美しさは言うまでもなかろうが、それにカメラを向けているお二人もまた美しい存在であるに違いなかろう。そんなことを教えてもらった一冊であった。