書き忘れたこと(続)-下鶴間宿から-

 前回は、「書き忘れたこと」として昨年11月に開催されたウオーキングの話を投稿したが、今回は12月のウオーキングの話である。この日は大山街道の下鶴間宿に出掛けた。大山街道はもともとは矢倉沢往還(矢倉沢峠を通ったのでそう呼ばれた)と言う名称の東海道の脇街道であったが、江戸時代に庶民の間に大山詣でが広がるなかで、大山街道の名称の方がよく知られるようになった。そんな話は既に紹介済みである。

 昨年の7月には、溝の口駅から二ヶ領用水に出て久地の円筒分水を見学してきたが、その帰途に川崎市の「大山街道ふるさと館」を訪ねた。その顛末についても既にブログに投稿してあるが、今回はその続きとも言えるような企画である。大山街道については、少しばかり素人知識が身に付いたこともあって、今回も出掛けるのを楽しみにしていた。緑多き場所に出掛けるのも好きだが、歴史の面影を辿るような散策もお気に入りである。先の施設で購入した『訪ねて楽しい大山街道』を広げて、行き先を事前に確認しておいた。

 当日は長津田駅で待ち合わせ、田園都市線に乗って南町田グランベリーパーク駅で下車した。ここはもともと南町田という駅名であったが、2019年に現在の駅名に改称されている。その名にふさわしく何ともキラキラした綺麗な駅だったが、皮肉な見方をすれば、消費欲望のみをやたらに刺激する場所のようにも思えなくはなかった。まあ年寄りには不向きなところなのだろう。われわれはグランベリーパークとは反対側の国道16号線沿いを歩き、日本で初めて地下に鉄管を通したという横浜水道道路を通り、国道246号線に架かった立派な歩道橋を渡って大山街道に出た。そこからのんびり歩いて行くと下鶴間宿に出る。

 この日に受け取ったチラシによると、下鶴間宿はその手前の長津田宿と同規模の宿場であり、江戸からは11里(42.9㎞)、長津田宿からは1里(3.9㎞)、そして次の宿場である海老名市の國分宿までは2里(7.8㎞)の位置にある。ここは、昔大山街道と八王子往還が交差する交通の要衝であったようだ。松屋、三津屋、角屋などの旅籠(はたご)を中心 に、床屋、居酒屋、小間物 屋、飯屋、質屋、染物屋などが建ち並び賑わっていたという。明治初期には繭や米の市場も開かれていたようだ。

 下鶴間宿に出るまでの道沿いには、一里塚(旅人の目印として、街道の側に1里ごとに設置された塚のこと)や庚申塔(中国伝来の道教に由来した庚申信仰にもとづいて建てられた石塔のこと)や道祖神(村境や峠などの路傍にあって外来の悪霊や疫病を防ぐ神のこと)があり、往時の人々の暮らしが偲ばれた。道祖神は正確には五貫目道祖神と言うらしいが、五貫目という町名も気になった。

 調べてみたら、江戸時代の初期に年貢の石高が五貫目と定められ、それが字名となり町名となったとのことである。グランベリーパークの裏側に当たる場所には、歴史の面影があちこちに残されているのである。大山街道に出て下鶴間宿に入ると、右側に大山阿夫利(あぶり)神社御分霊社が現れた。江戸から来た旅人たちは、ここで草履を履き替え身と財布を清めて、金運にあやかるようにと祈願したらしい。

 また入口のすぐ左手には、新田義貞軍の鎌倉進撃地図が掲げてあった。そこにお住まいの方が新田義貞の末裔だとのことである。邸内には、義貞が鎌倉攻めの際に黄金の大刀を稲村ヶ崎の海に投げ入れたところ、龍神によって潮が引いたという伝説にもとづく像まで建てられていた。ここまでくると、私などは苦笑を禁じ得なかった。先祖自慢もほどほどにしなければなるまい(笑)。一行のなかにはこの伝説を知っている方がおられたので、そのことにも驚いた。帰宅してから家人にその話をしたら、家人も知っていたのでさらに驚いた。

 神社の前には、「相州鶴間村」と刻まれた道標があり、右側面には「是より東江戸十里」、左側面には「是より西大山七里」と記されていた。すぐ側に大和市立の「下鶴間ふるさと館」があった。今日来た同行のメンバーは、ここからバスに乗って帰路に就くことになった。私はまだ歩き足りなかったこともあって、暇に任せて小田急線の鶴間駅まで大山街道を歩くつもりだったので、ここで一行と別れて、このふるさと館に立ち寄ってのんびりと見学した。

 ふるさと館には、市の文化財である旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されており、さまざまな展示物が並べられていた。宿場の商家建築としては珍しいようであったが、私はそれほどの関心が湧かず、ただぼんやりと眺めただけだった。溝の口のふるさと館と比べると、大分小振りで、購入できるような特別の資料も作られてはいなかった。小倉家は幕末の創建時から雑貨商を営んでいたようで、取り扱っていた商品の中では医薬品の品揃えが豊富だったという。展示された薬の中には、昔懐かしい赤チンやヨーチンもあったし、日露戦争の直前に発売されたという征露丸(ロシアを征服する丸薬の意)も並べられていた。

 興味深かったのは、明治4年10月4日号の『The Far East』(横浜居留外国人向けの英字新聞)に掲載されたという下鶴間宿の写真である。大山街道を挟んで藁葺き屋根の家が建ち並んでいるが、街道とは言ってもなんと狭いことか。ふるさと館の女性の方が、この写真は道路の向かい側にある鶴林寺から撮ったものだと教えてくれた。そこで、急な階段を上って鶴林寺にも顔をし出してみた。なかなか立派な寺である。私としては、立派な寺よりも鄙びた古刹(こさつ)の方が好きではあるのだが…。

 案内人の説明を聞きながら歩くウオーキングも勿論愉しいが、こうして途中から一人になって自由にぶらつくのも悪くはない。師走だというのに空は晴れ渡っており、冷たい飲み物が欲しくなるような陽気だった。誰もいない小さな公園で喉を潤した。途中、先般の衆議院選挙で落選した甘利明自民党幹事長のポスターに出くわした。「日本には甘利明がある。」と書かれていたが(日本語では「ある」ではなく「いる」だろうとも思ったのではあるが…)、こうした大言壮語を平気でポスターにする人物の気が知れない。いい年をした大人であり年寄りのはずなのに、羞恥心の欠片もないのであろうか(笑)。

 鶴間駅の近くまで歩かないと昼食にはありつけない。結構歩いて駅の近くの店で蕎麦を食べた。駅のホームで電車を待っていたら、2度ほどジェット機がかなり低いところを爆音を撒き散らして飛んでいった。厚木基地に着陸する米軍のジェット機なのだろう。今から30数年前に、労研の最後の仕事として厚木基地周辺の騒音被害調査に取り組んだことがあったが、その頃のことが急に記憶の底から浮かび上がってきた。若かりし頃、同僚の鷲谷さんと一緒に大和市や綾瀬市をあちこち這いずり回っていたことが妙に懐かしく思い出された。

 帰りは中央林間駅で田園都市線に乗り換え、そのまま自宅の最寄り駅である市が尾に向かおうと思っていたが、今後来ることもなかろうと思ったので、この機会にグランベリーパークに立ち寄ってみることにした。今風の店が所狭しと沢山並んでいる。雑貨屋風の店を2、3軒覗いてみたが、結局は何も買わずじまいだった。朝駅に降り立った時に予想したように、私のような年寄りがうろちょろするところではない(笑)。少しばかり淋しさを感じ、グランベリーパークの隣にある鶴間公園に足を延ばしてみた。そして冬空に立つ桜の裸木をしばし眺めた。