暮れから正月へ-東電争議の勝利に想う-

 「忘れられない小品から」ということで次に紹介するのは、「暮れから正月へ-東電争議の勝利に想う-」と題した一文である。この文章は、1996年に「かながわ総合科学研究所」の『所報』の80号に掲載された。現在では、研究所は「NPOかながわ総合政策研究センター」に改組され、『所報』は『研究と資料』に改題されている。その頃、私はこの研究所の理事を務めていたので、そんなこともあって『所報』の巻頭言として書いたのである。
 
 内容は、読んでいただければ分かるように、東京電力における思想差別裁判をめぐるものなのだが、その後の福島における原子力発電所のメルトダウンという大事故の発生と、そこでの会社幹部の対応等を眺めていると、この大事故の根源には、異論を許さないという東電の企業体質そのものに問題があったのではないかという思いにも駆られる。そんなこともあって、ここに紹介しておくことにした。以下がその全文である。

 「ゆとり」の必要性などを痛感しそんな発言もしているうちに、最近ますます不精者になってきた。とうとう昨年(1995年)は年内に年賀状を書くことを早々と諦め、年が明けてからもらった年賀状にだけ返事を出すという始末と相成った。ところで、もらった年賀状のなかに、東電争議の原告団の一人である鈴木章治さんからのものがあった。

 そこには、「東電の職場から思想差別を止めさせるたたかいで全面解決をかちとりました。この間のご支援本当にありがとうございました。この成果を職場に根付かせること、これが次の課題です」としたためてあった。じつに嬉しい便りである。暮の25日に19年にも及ぶ争議が全面的に解決したのである。和解の内容は、会社は雇用関係にある原告について処遇の見直しをおこない、原告団に解決金を支払い、雇用関係にある原告を将来にわたって公正に取り扱うことを約束するというものである。

 鈴木さんとお会いしたのはもう大分前になる。日本の人事考課のことを調べようと思って、雑誌『労働運動』に論文を書いておられた鈴木さんに連絡をとったのである。横浜の喫茶店でお会いして当方の依頼の主旨をお話ししたところ、こころよく裁判闘争の記録を借りることができた。しかしながら、膨大な記録をせっせとコピーだけはしたものの、それを読みこなしてまとまった論文に仕上げるという肝心の作業は遅々として進まず、とうとう今日にいたるも未完成のままである。せっかくの貴重な資料をなんとか有効に活用したいと今でも念じている。

 そんな縁もあって、一度だけ横浜地裁に裁判の傍聴に出掛けたことがある。もうその時の内容はおぼろげになっているが、今でも脳裏に焼き付いているのは、原告団とその支援者の人々の服装がとても地味だったこと、東電側の証人の答弁が、木で鼻をくくるとはこのことかと思われるような無愛想なものだったこと、そして原告側の星山輝男弁護士がときどき皮肉を交えながら歯切れよく追求していたことなどである。星山さんは『所報』の73号に「東電横浜訴訟判決の特徴とその意義」という論文を書かれているが、それによると1994年の横浜地裁判決では次のように指摘されているという。

 「(被告会社は)原告らの職務遂行能力及び勤務実績が劣悪であると主張しながら、その人事考課に関する資料は証拠として何も提出しない。事柄の性質上その全てを証拠として提出することを期待するのは困難であるとしても、少なくとも原告らが被告会社主張の不都合行為をしたとの事実関係に関するものくらいは提出することができると思われるが、その資料すらもほとんど証拠として提出せず、被告会社の従業員または元従業員の作成した膨大な陳述書とこれらの者の証言をもって立証しようとしている」。しかしそれらの「陳述書はその形式からも明らかなように、すべて本訴になってから被告会社の主導で作成され、陳述者が記載したのはその署名だけというものであり、その内容も、原告らの勤務態度をかなり悪し様に述べているが、反証のあげようのない抽象的な、いわば言いっ放しのものである」。

 こうした被告会社の不当な「あらさがし立証」によって、和解にいたるまで19年という長い期間を要することになった。東電は、「原告の職級及び資格を同期同学歴者の最下位グループよりさらに数段下位に長期間留め置き、賃金は格段に少ない」状態に追いやってきたのであるが、こうした事実に対して、判決は「原告らの職務遂行能力及び勤務実績と現実に被告会社から受けている処遇との格差は、原告らが共産党員であることを理由として特別な考課査定をした結果生じたものであり、それは被告会社の裁量権の範囲を超えるものであるから、この点で、被告会社の右行為は故意による不法行為を構成する」と、きわめて明快に断じている。

 ところでこの正月には、1月1日発行の「東電人権闘争山梨支援する会」の『跳躍』196号も我が家に届いたが、そこには詩人でもある原告の坂田満さんの「勝利とは」と題する心震える詩が載っていた。私は以前坂田さんの詩集『星のうた』(近代文芸社、1990年)を読みたくて支援する会に連絡をとったのであるが、それ以来会報が送られてくるようになったのである。その詩は次のようなものであった。

勝利とは何か

とり残されたものが
死者の分をも
生きるかぎり生きると
魂の高まりの
音楽の
ひびく谷を
不安をたたえる海へ
はるか下る流れ
そこに位置する道標だ

 先のような「あらさがし立証」に明け暮れた会社側と比べるのもはばかられるような、何とも気高い精神がここには溢れている。坂田さんの詩のことは佐高信『KKニッポン就職事情』(講談社文庫、1985年)でもふれられているが、巨大企業と対峙して揺らぐところのない姿勢に、あらためて敬意を表せずにはいられない。

 坂田さんは先の詩集のあとがきで、電産時代のレッド・パージについてふれ、それによって「自殺、離婚、一家離散、『赤』という烙印をおされたことによる長期の失業など、三親等まで迫害されるという情況が生じた」という文章を元電産副委員長高倉金一郎氏の著書『切られたばってん』(電産九州不当解雇反対同盟、1980年)から引き、そのうえで「今日の東京電力という企業による従業員への思想弾圧は1949年からつづくレッド・パージである」と結んでいる。

 戦後50年という年の終わりに、そしてまた憲法公布50年を迎える年の直前に、このレッド・パージに抗した闘いが長い苦闘の末に勝利しえたことは、じつに象徴的である。闘う労働者が築く歴史の歩みとはこうしたものなのだろう。憲法14条の法の下の平等や19条の思想および良心の自由、および労働基準法3条の思想信条による処遇差別の禁止を職場に定着させ、企業社会に風穴をあける闘いは、東電闘争の勝
利を「道標」としてこれからも続く。

(追 記)

 原発事故の翌年2012年に、『「東京電力」研究 排除の系譜』と題した分厚い本が講談社から出版された。著者はジャーナリストの斎藤貴男さんである。この本は、丁寧な取材と大量の資料にもとづいて執筆されていたうえに、斎藤さんのシャープな筆力も相俟って、発刊当時たいへん評判になった。そんなこともあって、その後角川文庫にも収録された。

 副題にもあるように、東電の体質は異論を「排除」するところにもっともよく現れている。斎藤さんは、あとがきで次のように書いている。「校了直前の5月14日(2012年)には、さらに凄まじい報が飛び込んできた。この日東京電力の勝俣恒久会長が原発事故を検証する国会の事故調査委員会に参考人招致され、責任を問われて、『事故対応の責任者は社長』『第一の代務舎は副社長』『現場の最高指揮官は発電所所長』と言い放ったのである。会長である自らの責任は、『東電の一員として当然ある』と言うだけ。事故当時の菅直人首相や官邸の対応への批判までしてのけたそうだから恐れ入る。いったい、どの面を下げて?」。異論を排除した組織は、無責任の体制となる。

 また最終章にはこんな指摘もある。「何事かを最終的に決定する立場にある人々の浅はかさが尋常ではなかった。いつか必ずこうなるとわかりきっていて、それでも一切の手立てを打たない道を積極的に選択し、当然の帰結として現状を招いたのである」。東電にも忖度や改竄や隠蔽が広がって人間の劣化が進んでいたが、それは、異論が排除された組織における必然の結果であると言うべきなのだろう。