名画紹介⑪「ニュー・シネマ・パラダイス」

 今回は、イタリアのジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品『ニュー・シネマ・パラダイス』を取り上げることにした。彼は、自身2作目この映画で、イタリアのみならず世界に名を知られる存在となったので、世に言う出世作ということになる。今ではもはやイタリア映画界の巨匠である。コロナ禍のこの間、私も不要不急の外出を控えていたので、在宅時間が以前よりも長くなった。そのため、家での楽しみの一つとしてさまざまなジャンルの映画を見たが、この作品もそのなかの一本である。

 今更言うまでもなかろうが、素晴らしい作品は何度見ても心を動かされるし、それどころか、昔は見逃していたような発見さえある。年を取ってくると、映画の見方も少しずつ変わっていくからである。年輪を重ねることの効用とでも言えようか。エンニオ・モリコーネの音楽も印象深く、聞くたびに溢れるほどの郷愁をかき立てられる。この映画の魅力を増すうえで、多いに力を発揮していると言うべきだろう(そんなこともあって、この投稿の最後にテーマ曲も挿入しておいた。心置きなく堪能していただきたい-笑)。素晴らしいの一言である。この映画の日本での公開は1989年だから、30年以上も前の作品ということになるが、私の胸中では今でも色鮮やかなままである。

 シチリア出身のトルナトーレ監督は当時30代前半の若さであったが、そんな年齢で、監督は勿論のこと脚本や原案も担当して(彼は自作のほとんどで脚本も担当している)、このような作品を撮ることができたとは驚きである。彼は、その後も数々の名作を生み出し続けており、そのいくつかは私も観た。『ニュー・シネマ・パラダイス』を撮った監督の作品だということで、気になっていたからであろう。例えば、『みんな元気』(1990年)や『海の上のピアニスト』(1999年)、『マレーナ』(2000年)などだが。

 最初にこの映画を観た時には、「新パラダイス座」(座でも館でもいいが、「ニュー・シネマ・パラダイス」を訳せば、こんなふうになるのだろうか)を舞台にした、主人公サルバトーレとエレナの恋の行方が主題のようにも感じられたが、年を取ってから見直してみると、大分違った印象を受ける。もう少し複雑であり、奥行きもある。

 当然のことだが、幼い頃にトトと呼ばれたサルバトーレが、亡き父のように慕った映写技師のアルフレードとの長期にわたる交歓も、なかなか含蓄に富んでいる。科白の一つ一つが、今となってみると何とも心に染みるのである。さらには、サルバトーレが年老いた母親と交わす会話にも、人生の奥深さを感じさせるものがある。エレナ、サルバトーレ、母親との間で紡がれる三つの「愛」が、浮かび上がり絡まり合っているところが何とも魅力的である。

 名画紹介欄で『ニュー・シネマ・パラダイス』を取り上げることはかなり前から決めていたが、いざこうして文章にしようとする段になって、あれこれと迷いが生じてしまった。この映画の主題をどう捉えればいいのかが何時までもはっきりせず、頭の中に鮮明な輪郭が描けなかったからである。作品の輪郭がぼんやりしたままでは、例え短い文章でもなかなか書けない。正確に言えば、書く気になれないのである。そんなこんなで時間が過ぎていき、原稿の締め切りが間近に迫ってきた。困ったものである(笑)。

 あえて一言で言い表そうとすれば、日本語では「郷愁」(ノスタルジー)とか「追憶」いうことになるのであろう。だが、どうもそうした言葉には収まりきらないものが残るように感じられたのである。もともと私の場合、「正論」にもとづく「断定」などは好まない質であるが、それだけではなく、もしかしたらそうした収まりきらないものの中にこそ大事なものが含まれているのではないか、そんな感覚が何時までも抜け切らないからである。だいたいの場合それほどのものは含まれていないのであるが、この映画に関しては、そこにこそ大事なものがあるように思われる。

 ●戻ることのできない故郷の過去

 映画監督として名をなしたサルバトーレのところに ある晩田舎の母親から電話がかかってくる。アルフレードが亡くなったという知らせだった。サルバトーレの住むローマは、故郷からさほど離れてはいないのだが、彼の帰郷は30年ぶりのことであった。故郷を離れてかなりの歳月が経っている。サルバトーレは、アルフレードの葬儀に参列するために故郷の村に戻ってくるのだが、そこで、トトと呼ばれていた幼かりし頃から村を離れるまでの昔の自分を、懐かしく振り返ることになる。

 幼かったトトは、村の映画館「パラダイス座」の映写技師だったアルフレードに纏わり付いていたが、そのうちに見様見真似で映写機の操作を覚えて、彼の代わりを務めるまでになる。アルフレード同様彼もまた、村の人々を楽しませる映画が大好きだったのだ。戦争直後の娯楽が少なかった頃は、映画が唯一の娯楽であり、村人たちは毎晩のように映画館に集うのである。そこに描き出されるさまざまなシーンは、映画賛歌そのものである。当時の映画がスクリーンに乱舞する。昔私の住んでいた田舎にも映画館が何館かあったが、そこでの想い出が去来したことも付け加えておこう。

 トトは銀行家の娘エレナに激しい恋をし、紆余曲折を経て相愛の仲となるのだが、身近にいてトトの才能を感じていたアルフレードは、彼が恋い焦がれていたエレナと別れさせ、さらには「村を離れろ」、「戻ってくるな」とまで言う。そのまま村に残っていたのでは、持てる才能をあたら枯らすことになると信じていたからであろう。彼がアルフレードの死まで故郷に戻らなかったのは、そのためだったのである。

 パラダイス座の火事で盲目となったアルフレードからすれば、かわいがってきたトトを側におきたかったに違いないし、再建された新パラダイス座で彼の後継者として映写技師の仕事を継いでもらいたかったはずだが、彼はあえてトトを突き放すのである。アルフレードがトトに言う厳しい科白は、自分自身に言い聞かせるためのものでもあったのだろう。それが分かるので、駅での二人の別れのシーンを観る者は、痛いほど胸が締め付けられるのである。

 こうして、恋を失い故郷を離れることによって、トトは映写技師とは違った人生を自分の力で切り開いていくことになり、映画監督サルバトーレへと変身していくのである。日常に満足しきったところからは、創造のエネルギーは沸いてはこない。サルバトーレは、故郷の過去を喪うことによってそのエネルギーを手にすることができたのであろう。「人生はお前が見た映画とは違うんだ」、「自分のすることを愛せ」と別れ際に諭すアルフレードの言葉が、年老いた今となってみるとなんと重く響くことであろうか。

 この映画には劇場版とオリジナル完全版の二つがあるが、後者では村に戻ったサルバトーレはエレナと再会している。熱い恋に燃えた若かりし頃の二人も悪くはないが、歳月を経た二人の方がずっと魅力的に見えるのは、こちらが年老いた所為であろうか(笑)。長い歳月を経た今でもエレナを忘れられないサルバトーレだが、再会した彼女は言う、私と一緒になっていたら今のあなたはいなかったと。そして、昔の恋にはもう戻れないしあれは夢だったのだと。故郷を離れて都会に出てきた者は、彼女の科白をほろ苦い思いで聞くはずである。昔懐かしい故郷でいつまでも暮らすわけにはいかないのであり、今でも忘れられない昔の恋にも、もはや戻れないのである。

 長らく家を離れることによって世に出た息子を、年老いた母親は慈愛のこもった眼差しで見つめるのであるが、その優しい眼差しにもそこはかとなく切なさが漂っている。サルバトーレがあれこれの女性と一緒に住んではいても、人生の伴侶となる相手とは未だ巡り会っていないことを、母親の直感でよく分かっているからである。彼の成功を喜んでいないはずはないのだが、それは一人の人間の幸せとは違うとでも思っているからなのであろうか。彼女もまたなかなか魅力的な人物として登場している。

 サルバトーレが村に滞在している間に、古びてしまって長らく閉館していた新パラダイス座が取り壊されることになる。喪われた恋と喪われた故郷、そうしたものを象徴する映画館の崩壊。戻ることができないが故に忘れ難い過去の記憶が、『ニュー・シネマ・パラダイス』という一本のフィルムに焼き付けられたかのようである。この映画を観る者の胸が締め付けられるのは、切ない思いで自らの人生を振り返らざるをえないからなのではあるまいか。

 アルフレードが形見としてサルバトーレに残したものは、昔上映された映画のなかで、謹厳な神父の指示でカットを余儀なくされたキスシーンのみを繋いだフィルムだった。あの頃のことを一瞬にして蘇らせるフィルムである。それを一人観るサルバトーレの表情が何とも素晴らしい。映画のなかの映画を背景にしながら、人生というものを描き尽くし語り尽くした傑作である。