満蒙開拓団のこと(三)-絶望の逃避行から戦後開拓へ-
1932年に建国した満州国は1945年には崩壊したので、わずか13年しか存在しなかったことになる。満蒙開拓団もまた、この傀儡国家と同じ運命をたどった。精鋭部隊と自画自賛していた関東軍であったが、戦争末期には戦局の悪化によって兵力を南方に割かざるを得なくなっていく。そのために北満の防備は手薄となり、開拓団からの召集も増えていった。1945年7月からは 「根こそぎ動員」が始まり、約4万7,000名もの開拓団員が召集されたのだと言う。1945(昭20年)年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本への参戦を表明し、大部隊が満州に侵攻してきた。日ソ戦争の勃発である。今なら国際法違反として断罪されてもおかしくはない事態である。その多くが北満に入植していた開拓団には、ソ連の参戦や終戦の情報が徹底されず、開拓地に残された女性や子供や年寄りたちは、目を覆いたくなるような修羅場をくぐることになる。
開戦当時、関東軍はひそかに朝鮮半島方面に移動しており、その結果、開拓民たちは北満に取り残されることになった。軍の逃亡と指弾されてもおかしくはない、何とも奇妙な作戦行動である。北満に敷設されていた鉄道は、8月13日以降ほとんど動かず、開拓民たちは馬車や荷車に荷物を積み込み、徒歩による避難を余儀なくされた。この間あれこれと暇に飽かせて調べていたら、関東軍の上級将校の自決者の中で、満蒙に取り残された居留民に詫びる遺書をしたためたのは、シベリアに抑留されて自殺した上村幹男(うえむら・みきお)ただ一人であったということも知った。
満州になだれ込んできたソ連軍の攻撃に加え、日本に憎しみを抱いていた現地住民の一部が暴徒化し、開拓団は無防備なまま襲撃に曝された。終戦時、日本政府は海外に住んでいた一般邦人を現地に留まらせる方針をとったが、それもまた避難を遅らせることとなり、犠牲者を増やす結果となったようである。逃避行の末に辿り着いた各地の難民収容所で、開拓民たちは厳しい冬を迎えた。衣服も食糧もなく気温は氷点下30度にもなるなか、発疹チフスが蔓延して多くの人々が命を落とした。その結果、中国人の家に身を寄せる人、子どもを預けたり売る人もでてきた。こうして中国に取り残されたのが、後に「中国残留孤児」や「中国残留婦人」と呼ばれた人々である。 生きるか死ぬかの惨い選択を迫られた結果であった。
当時の逃避行の悲惨をつぶさに描く著作はたくさんある。この私は、これまでそうしたものをきちんと読んだことがなかったので、この機会に何冊か読んでみた。地獄絵図とはこのことかと言いたくなるようなあまりにも凄惨な事態の連続で、読み続けるのが苦しくなる。貧困な想像力を駆使して、当時の状況を自分なりに思い描くほかはない。ここでは、記念館が作成した証言集から三人の「証言」を紹介してみよう。
《証言-1》とうもろこし畑の間から引っぱり出されてな、現地の若者たち数人に。持っとるこん棒で思いっきり暴力ふるわれて。結局団長も男だから引っぱり出されてすごく暴力ふるわれたわけだ。それで虫の息になっちゃった。もう年寄りだから体力がないし。「もう俺はダメだ、くるしい、早く楽にしてくれ。もうダメだ、ダメだ」って言い出して。それで幹部の奥さん達が話し合って、仕方ない、結局団長の息の根をとめてやるっていうことで話がまとまって。首を絞めて。「団長さん、さよなら」っちゅうわけで。
《証言-2》日本人も終わりか、いよいよ戦争に負けたことのない日本が負けて、もうこの場の人たちが終わりっていうより日本が終わりっちゅうことを考えたね。続けておばさんたちが我が子の首を絞めだしたんです。このまま逃げたってどこまで逃げられるか分からんで、満人におもちゃにされてその揚げ句に殺されるよりはもう死んでしまおうと。潔く逝きましょうという気持ちがみんな働いて。「久保田さん、何やってんの。早く手伝ってくれないとまた暴力ふるわれるし、夜が明けちゃうから」っておしかりを受けて…。一生懸命、子どもを殺すお手伝いをしたわけよね。
みんなお互いに子どもの首を絞めるんだが、小さい子どもは間もなく息が止まっちゃうけど、大きくなるにしたがって抵抗しちゃうわけよね。「日本が負けて、お父さん達は戦死しちゃったんだからお父さんのところへ行くんだよ」「はい」って手を合わせても、苦しいから自然に抵抗しちゃうわけよな。この繰り返し。それじゃあ子どもが苦しんで可哀想だっちゅうわけで、紐を結んじゃって、その間にとうもろこしの茎を二本はさんでそれをこじて(ねじって) いくと息ができんから、うなだれて死んでいっちゃうんだけどな。
《証言-3》一つの部落、中和屯(ちゅうわとん)という部落は一人残っただけであと全員殺されちゃった。38人。棒で頭をなぐられたそうですけど。日本が旗色悪くなったというのを見ていっぺんに暴動をおこしてきた。僕の目から見ると、本当の「五族協和」でやっていたら僕たちは犠牲を出さずに済んだ、あるいは中国に留まることもできたかしれん。「五族協和」なんてとんでもない話で、日本人は一等国民、朝鮮人が二等国民、中国人は三等国民。もうあからさまの差別。そういう状態で土地を取りあげて、家屋を取りあげて、だまっとるわけないでしょう。旅色が悪いと見てすぐに暴動がおきるのも何も不思議じゃなかったんですよ。
3千何百人という人がここの集落に入ったんだけど、食べ物はない、井戸も二つしかなかった。しみ出る水をみんなで分け合って飲んだんですよ。それで伝染病になり、飢えと寒さでまたたく間にみんな死んでしまってね。最初は集落の近くに穴を掘って亡くなった 人を埋めたんですけど、こっちもこっちも土まんじゅうだらけ。もう埋めるところがなくなっちゃって。しょうないもんで(しかたがないから)、まだ働ける人たちで大きな穴を掘ってね、みんな入れたの。その穴もまたたく間にいっぱいになっちゃった。しょうがないもんで学校の裏に積み上げるようにした。積み上げるうちはよかったけど、寒さが加わってくると運ぶ力もなくなって、家の中で死んじゃうもんでね、死んだ人と一緒に寝ている状態になった。(以下略)
では、女たちの逃避行はどんなものだったのだろう。そこには、女性であるが故の特有の惨状が出現する。「女狩り」と称されたソ連軍の兵士による強姦である。『占領下の女性たち』(岩波書店、2023年)の著者である女性史研究者の平井和子は、あとがきで次のようなことを書いている。「『満洲引揚げ』について書くことになろうとは思ってもいなかった。長年女性史をやりながらも避けてきたのは、その悲惨さに言葉を失う一方で、証言の多くが「ある日、突然、ソ連兵の襲撃に遭い、 命からがら逃げてきた」という犠牲者意識ナショナリズムにあふれていることに辟易していたこともある」と。
数多の関連著作や資料を読み込んできた彼女であるが故に、吐ける一言なのではあろう。こうした固定的認識は、記念館で語り部と出会うことによって溶解したようだが、それにしても「辟易」とまで書くとは驚きである。勿論ながら、初学者の私などが「辟易」などと言えようはずもない。言っていいとも思わないので、言う気もない。戦勝国となったソ連の兵士たちは肉欲の獣と化し、敗戦国の無抵抗な女たちをあたかも戦利品のごとくに扱った。とても社会主義国の兵士の所業とは思われない蛮行である。暴行、掠奪、殺人などがほしいままになされたのである。
戦時性暴力と言われるものの実相から目を背けてはならない。性暴力の横行を防ぐために、開拓団からは選ばれた女性たちがソ連軍に差し出されたと言う。性による「接待」であり、まさに現代の「人身御供」である。差し出した側の対応を掘り下げることは、それとして大事なことではあろう。そのことを否定はしない。だがより重要なことは、差し出すことを求めて恥じなかったソ連軍の対応ではないのか。そのことに触れる著作がほとんどないのが気になっていた。
最近麻田雅文著『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(中公新書、2024年)を手にする機会があった。そこには、「日ソ戦争における性暴力の研究は日本でも少しずつ進むが、被害者とそれを取り巻く日本社会の分析に焦点が絞られ、、加害者の分析が欠けている」との指摘があった。こうした指摘を目にしたのは初めてであり、胸のつかえが下りる思いだった。詳しくはこの著作に直接あたって欲しいのだが、「ソ連軍では、占領地における強姦や略奪に厳しい処罰が下されることはほとんどなかった」し、それどころか蛮行を繰り返した兵士らも含めて、彼らは日ソ戦を勝利に導いた「英雄」だったと言うのである。この時既に、スターリン体制化のソ連社会主義のメッキは剝がれ落ちていたと言ってもいいのかもしれない。。「皇軍」と呼ばれた日本軍も、中国で大量虐殺もし女性たちを強姦もした。ここでもまた皇国日本はその醜態をすでに晒していたと言えるだろう。
林郁(はやし・いく)の『満州・その幻の国ゆえに』には、次のような話が書き留められている。「タミたちは九月上旬、ソ連軍につかまり、方正南城門前へ連行され、そこで野宿させられた。その夜も大がかりな女狩りがあった。ソ連兵は地面にじかに寝ている避難民を軍靴でふみつけながら、適齢の女を捜し回り、見つけ次第、近くの空地で次々に犯した。輪姦に次ぐ輪姦にたまりかねて叫び、その場で射殺された娘。娘が犯されて発狂した母。抵抗する女を銃尾で殴る音。絶えまない悲鳴。タミは軍靴にふみつけられても、奥歯を噛みしめて耐えた。タミたちはその後、親切なソ連軍将校に会ったが、初めて出会ったソ連兵の残虐な記憶は今も消えない。元開拓団員は、今でも『ロスケ』といって憎む人が少なくない」と。「ロスケ」と呼ぶかどうかは別にして、性加害者に対する憎しみの感情が沸いて当然であろう。それほどまでの惨劇に見舞われたからである。
社会主義への幻滅については、後藤蔵人の『満州-修羅の群れ 満蒙開拓団難民の記録』(太平出版社、1973年)にも次のような指摘がある。「恐れていたものが、とうとうきたなと思った。うわさのように男を皆ソ連に連れ去ったりはしないが、『婦女暴行』『自殺』という文字が大きくわたしの胸をえぐった。連絡者の話で、元分会長一家の自殺は、強姦されたことが原因でのピストル自殺らしいこと、また団員入水自殺の原因は、全員学校集結を全員自決のための集結と早合点したための自殺と、もう一つはやはり強姦によって起こった自殺であるらしいことなどがわかって、危急にのぞんでの人間の神経の高ぶりに恐怖をおぼえた。これはよほど気をつけなければこの団でもたいへんなことになるぞと考えた。それにしても、ソ連軍がやってくれば治安はよくなるとばかり期待し、社会主義国ソ連の厳正なる軍紀を信じていたわたしは、少なからず失望した。あこがれに似たものをもっていたソ連軍が、『強姦』とはなにごとか! デマもまんざら根も葉もないデマではなかったのか!と、怒りとともに、ソ連にたいする信頼感が根底からゆさぶられだした」。
敗戦時、満州には155万人もの日本人がいたと言われている。帰国する術もなく避難民生活を送っていた人々は、祖国から帰還の手を差し伸べられないまま取り残されていた。アメリカと中国の話し合いにより日本人の引揚げが始まったのは敗戦の翌年1946(昭和21)年の5月。約2年間で105万人が帰還を果たしたが、それまでの間に、満州の地で命を落とした日本人は 24万5千人にものぼった。この数は沖縄や広島や長崎を凌ぐ。この私はそんなことさえも知らないでいた。
戦後、満州にいた日本軍の兵士をはじめ一般男性などはソ連のシベリア各所にある収容所(ラーゲリ)に強制連行された。女狩りとの対比で言えば男狩りである。森林伐採や炭鉱労働、鉄道敷設作業などに従事させられ、寒さや栄養失調で多くの犠牲者が出た。シベリア抑留者は約57万5千人、うち約 5万5千人が亡くなったと言われる。極寒の地での強制労働と栄養失調による死である。まさに捕虜虐待そのものであった。スターリンへの崇拝が強制され、徹底した思想改造が行われた。「女狩り」と「男狩り」によって、ソ連の社会主義に対する幻想は完全に崩壊していくのである。
移民たちの引き上げに関して、次のようなことにも触れておきたい。強姦されて帰国した女性たちが、妊娠していたという事実である。女性たちの悲劇は、引き上げ後も続いていた。二松啓紀の『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』(平凡社新書、2015年)にあるエピソードをかいつまんで紹介してみよう。
博多引揚援護局は1945年11月から47年4月までの間に139万2429人の引揚者を受け入れた。そんな短い歴史でも見すごせない逸話がある。在外同胞援護会救療部が運営した施設の記録だ。そこは、ソ連軍の兵士から受けた性的被害者の人工妊娠中絶を行うための「病院」だった。強姦された女性たちの顛末は筆舌に尽くしがたい。引揚船が日本の港に入るとき、身を投げた女性がいた。犯されて身ごもってしまった子どもをどうしたらいいか、 思いあぐねてのことであったと言う。引揚船は、外国での死と向かいあった生活からの脱出ではなく、明日からこの国ではじまる生活への恐怖をも同時に運んで来たのである。引揚者は帰国を喜んだとだけ思いがちだが、そう単純ではなかった。
日本政府が婦女暴行に憂慮したのは、犯された女性たちの被害に関してではなく、性病に対する防疫だったとも指摘されている。強姦された女性たちの、口にすることすらできない深い傷に思いをよせる人はいなかったのである。被害にあった女性たちは絶対に自ら明かそうとしない。誰にも知られたくはないからである。そこで在外同胞援護会救療部は、引揚船に乗った女性を対象に、性病や妊娠の疑いがあり身体の異常に気がついたら船医のところへ相談するように呼びかける冊子を配ったのだと言う。敗戦直後の物資不足ゆえに麻酔もないまま堕胎手術が行なわれた。女性は激痛と屈辱に耐えた。
博多が目の前に迫った時、引揚船内は沸き返り、多くの人たちが「パンザイ」と両手を上げて喜んだ。岸壁から大音響で 「赤いリンゴにロびるよせて」と、並木路子の「リンゴの駅」が流れてきた。澄み切るように明るい歌声は、マサの心を余計に辛くさせた。引揚者たちにとって、京都は耐えがたい街だった。戦禍のかけらすらない。日常が流れ、 笑顔さえある。いったい自分は何だったのか。誰かに語ろうとしても、「戦争だから仕方かない」のひと言で片付けられた。戦争で肉親を亡くした人ならまだ分かる。そんなな言葉で片付けてはほしくない。いつのまにか、自分一人だけが取り残された。その記憶を心の奥底に封じ込めていった。
強姦されたうえに忘れ去られていく女たちが、言いようもなく哀れである。では、満蒙開拓団の戦後とはどのようなものだったのだろう。家も農地も処分して満州に渡った開拓団員に、もはや帰るべきところはなかった。周りから「満州乞食」と呼ばれた人さえいた。あきれ果てた戦後の日本人の姿である。国は「緊急開拓事業」として食糧増産と引揚者の受け入れのために、全国各地の軍用地や国有林野などを払い下げるなどして開拓地を斡旋した。人々は生活の場を求めて再び故郷を離れ、新たな開拓から戦後の第一歩を踏み出していく。第二の満蒙開拓とでも言うべきか。しかしながら、生活に不便な僻地であったり耕作に適さない痩せた土地のために農業経営もままならず、出稼ぎに行ったり離農していく人も生まれた。
分損移民に先鞭をつけたことで知られる大日向村開拓団の戦後を見てみよう。長野県の犬日向村(現南佐久郡佐久穂町)から送出された大日向村開拓団は、日本初の分村移民だった。人口の3 割以上が渡満し、モデル村として日本中に宣伝されたのである。 しかし、引揚げ後は故郷に身の置きどころもなく、軽井沢の浅間山麓へ165名が入植した。標高が高く、火山灰土と溶岩だらけの土地の耕作は非常に厳しいものだったと言う。
それでも人々は、「融和団結苦難に耐えよ」というスローガンのもと、力を合わせて開拓に取り組むのである。農業経営の中心は酪農から高原野菜の栽培へと移り、高度経済成長の中で別荘地として土地を売却したり、観光業や建設業への転業が増えていく。人々が生きていくために必死で開き守った土地も、時代とともにその姿を大きく変えていった。手塚孝典の『幻の村-哀史・満蒙開拓-』によれば、1947年の10月に、大日向村開拓団の引き揚げ者が築いた軽井沢の大日向集落で、昭和天皇の巡幸視察があったようだ。
集落の代表者は、引き揚げ後の再入植と開拓について説明した。昭和天皇は「大変苦労をかけたね。開拓の仕事は国にとっても重要ですから、がんばってください」「立派な日本人になってください」と子どもたち も含めて激励。一同は涙して「がんばります」と答えたとのこと。昭和天皇がかけるべき言葉は、ねぎらいや励ましの言葉だったのか。そのまえに謝罪すべきではなかったのか。「立派な日本人」などと口にする資格が、昭和天皇にあったとは到底思われない。
世の中には、忘れてしまっていいことと忘れてはならないことがあるだろう。「満蒙開拓平和祈念館」は、例えどれほど時間が経とうとも忘れてはならないことがあることを、我々に教えているのではあるまいか。「国策」に踊らされて満州に向かった人々の無念を、どう受け止めればいいのか。ホールで話を聞き、その後一人で静かに館内を巡っていたら、「鎮魂」の思いが胸に溢れてきた。春の午後は短い。近付く夕暮れのなかに記念館はひっそりと佇んでいた。

