早春の南信州紀行(七)-満蒙「開拓」の現実とは-
では満蒙開拓団の名称に示されたその「開拓」とは、いったいどのようなものだったのであろうか。その実態を探ってみよう。日本全国から約800の開拓団が満州に渡ったが、その多くは北満の中心都市であったハルビンよりもさらに北の地域に入植している。無人の荒れ地を開墾した所もごく一部にはあったようだが、ほとんどの場合既に現地の農民が耕作していた土地を安く買収し、強制的に立ち退かせた所への入植だった。土地を追われた現地の人々は、小作人や使用人として日本人に使われる身となったり、また別の場所で初めから開墾せざるを得なくなったのである。記念館を訪ねるまで、こうしたきわめて重要な事実すらもまったく知らないでいた。開拓団というのだから、当然大変な苦労を重ねて開墾したのだろうなどと思っていたからである。
もう少し立ち入ってみる。満蒙開拓団の入植地の確保にあたっては、まずは治安の悪化を理由にして、地元の農民が既に開墾していた農村や土地を「無人地帯」に指定する。彼らを新たに設定した「集団部落」へと強制的に移住させる。そのうえで、関東軍の力を背景にして満洲拓殖公社がこれらの「無人地帯」を安く買い上げる。そこに開拓団を入植させていく、といった経過を辿ったのである。これでは現地にいた農民たちの土地を強奪したようなものであろう。日本政府は、20町歩の田畑をもらえるという宣伝を信じて満州に渡ってくる入植者を増やすために、財政的な負担をできるだけ軽減して広大な土地の買収にあたったのである。このようにして、移民のための用地がおよそ2,000万ヘクタールも用意されることになる(そのうち実際に農地として利用できたのは150万ヘクタールほどであった)。
いずれにしても、関東軍の力を背景としなければ上記のようなことは実現不可能だった。現地の人々にとっては、開拓団は自らの土地を奪う存在として目に映じていたに違いない。そのことが入植者に対する根深い恨みをもたらしたことは言うまでもなかろう。満州への移民は、 日本国内の農村問題を解決する施策としての側面を持つことは持ったが、それよりも重要なことは、現地の人々に大きな苦難を強いる施策であったことだろう。国策としての満蒙開拓は、もともと侵略への加担という側面を色濃く持っていたと言わなければならない。武力による領土の強奪がマクロの侵略だとするならば、先のような土地の強奪はミクロの侵略だと言えるのかもしれない。マクロの侵略に疑問を抱くことがなければ、ミクロの侵略が問題とされるはずもない。満州への移民はブラジルへの移民などとはまったく性格を異にする。敗戦後の凄惨な逃避行は、国策としての満蒙開拓のうちにすでに埋め込まれていたと言うべきだろう。
現地の人々は開拓団に対して恨みを抱いていたと述べたが、では入植後両者の関係はどのようなものへと変化したのであろうか。ここも気になるところである。飯田市歴史研究所編の著作である『満州移民 飯田下伊那からのメッセージ』(現代史料出版会、2007年)には、中国のある研究者の次のような発言が紹介されている。これを読むと、現地における差別の実態が何ともリアルに浮かび上がってくる。「五族協和」などまったくの建前に過ぎなかったことがよくわかるだろう。開拓団として満州に移住した人々も、そんなスローガンはなど建前に過ぎないと思っていたのではあるまいか。当時の日本社会では、日本人は一等皇民(皇民とは天皇が治める国の国民のこと)、朝鮮人は二等皇民、中国人や満人は三等皇民であると、ごく普通に口の端に上っていたからである。中国の研究者の発言とはどんなものだったか。
私の調べでは、土地を取り上げられた後、完全に日本の人々に追い出されたわけではないですね。引き続きその土地で働いていますね。日本の開拓団の人々は水田にはくわしいが畑についてはくわしくなかったです。日本人がやってくる前に、その中国人の地主に小作人として働いていた土地から、こんどは日本人の地主のもとに働くことになったのですね。たくさんの農民はそういう状態にあったんですね。そうした中で、日本の中では貧しい農民だったのが中国へやってきて割と豊かな農民になったのですね。たくさんの日本人は、現地の中国人をあざむいたり、いじめたりしていた。しかし、その中の一部の日本人は現地の中国人と仲良くやっていたことも事実ですね。私はその田舎へ行って調査してきたのですが、当時日本人は豚を飼っていたのですが、中国人が豚飼いをさせられて、結構殴られていました。ですから開拓団の人たちは、その人を名前で呼ばずに、「豚」と呼んでいたですね。
開拓民は、役場と農協を兼ねた団本部を中心にしながら、学校や神社、医療施設、購買部を備えた日本人社会を形成しており、そのなかで生活は完結していたと言う。学校も民族ごとに別々に設けられていた。新たな言語の習得なども勿論必要なかった。そのため中国人の集落と接していながらも、そこには住民どうしの対等な交流などはほとんどなかったようだ。また、一戸当たり20町歩もの広大な農地を割り当てられてはみたものの、これを家族だけで耕作することはそもそも困難であり、結局は現地の労働者(その土地を元来耕作していた農民を含む)を「苦力」(クーリー)として雇ったり、小作人にしたのである。自作農の農業経営ではなく、地主的な農業経営にならざるを得なかったと言えよう。証言集には次のような指摘もある。
開拓じゃないに。開墾したところに中国人を追っ払ってそこに入ったんだから。「お前たち出て行け」って。その後ろ盾には、日本軍がおったんだ。行ってすぐオンドルのあるあったかい家を授かったんだ。そこに入りながら自分たちの家を、中国人を使って造ったの。米は朝鮮人に作らせて、日本人は大豆やとうもろこしを作って供出したの。その代金が開拓団の本部に入って、それからお給料のような具合で分配しとった。それでも、内地におった生活より良かった。
「五族協和」が唱えられながらも、現実には地主一小作関係が発生し、そこに民族問題が絡み合うことになった。満洲国は、日本政府の承認した一国家、すなわち外国であったはずだが、日本の本土である「内地」の延長としての「外地」(内地以外の日本の統治地域、台湾や朝鮮、南樺太など)に過ぎなかった。渡満後もみな日本国籍のままであったので、入植者たちは「外地」にいるような感覚だったのではあるまいか。移民事業が本格化すると、開拓団の男性の配偶者問題を解消するために、花嫁候補の募集も行われた。「大陸の花嫁」と呼ばれた彼女たちは、さまざまなメディアに取り上げられ、満蒙開拓の美化に一役買うことになる。単身満州にわたった彼女たちを待ち受けていた運命は、あまりにも過酷なものであったが、当時そんなことを誰一人知る由もなかった。
先にも触れたように、満蒙開拓団は青少年義勇軍を含めて約27万人に達していたが、そのなかでも長野県の送出数は約33,000名であり、他県と比較して突出した数となっていた。それは何故なのだろうか。たいへんに興味深い論点である。その要因としてまず挙げられるのが、養蚕業の衰退による経済的な困窮と、耕地面積の狭さである。補助金が得られる分付移民が経済更生運動の柱となったこともあって、移民が積極的に進められていくことになる。村々の不況対策と、国策である満州移民が結び付いていったのである。
また次のような歴史的な要因もあった。長野県には移民事業に積極的な土壌があり、大正時代には信濃海外協会が設立され、行政と連携してブラジルに移民を盛んに送り出していたのである。さらに重要なのは、地域や行政、教育界などのリーダーたちの中に満業開拓の推進論者が多かったという人的背景もあった。これらも送出の後押しとなったのだと言う。こうした複合的な要因が絡まり合いながら、官民挙げた運動が活発に展開されていくのである。分村移民が「運動」として展開されいったという指摘が何とも興味深い。「非常時」の際の運動はとりわけ異様なまでの熱気を帯びがちである。移民を勧める側も勧められる側も、その熱気に飲み込まれていったということであろうか。
しかしながら、 満州への入植に疑問を抱いた村長もいた。国策に盲目的に従うのではなくそれに抗うことになるのだから、当時としてはきわめて希有な存在だったと言えよう。大日向悦夫の『満州分村移民を拒否した村長 佐々木忠綱の生き方と信念』(信濃毎日新聞社、2018年)によれば、長野県の現阿南町の村長であった佐々木は、満蒙開拓団を送るにあたって事前に満州視察に出掛けるのだが、疑問を抱いて帰国するのである。戦後になって彼は次のようなことを述べたようだ。紹介しておこう。
満洲を一巡して帰ったのだが、私がちょっと疑問を感じたのが、第二次千振郷なんちゅうのは経営がほとんど資本主義、営利主義的な経営で、耕地は全部立派な既耕地、 これ当初、強制収用した土地だと思いました。第一次の弥栄というところは、やや開拓した痕跡もあったが、もうひとつの松島自由移民団というのが、この下伊那から松島という人が中心になってあったが、そこに行ってみたところ、水田がもう全部朝鮮人が水田をつくって、全部広い水田地帯だったのですが、これも結局、全部買収でしたね。もう見渡す限り。そして、これはどうも開拓ではなくて強制収用ということで、私は疑問をもって帰りました。
それからハルビンの市街で車に乗ってわれわれいくつも分かれて、私も車に乗っていったところ、幾人ばか乗っていた10人か15人かの車に乗って、運転手は日本人でした。そうすると向こうから車が来まして、止まれの号令をかけて止めまして、運転手が呼び出して盛んに怒って。朝鮮人だか中国人だかの運転手だったか、あっちに対して態度が悪いということで。これは日本人が恐ろしく横暴ということにも疑問をもって帰りました。
今から見れば、実にまっとうな疑問だったと言う他はない。言い換えるならば、当時の日本社会はこうした疑問さえ感じないような社会に既に変容していたということなのだろう。同じようなことは、『生活の探求』や遺作となった「赤蛙」の作家として私には記憶されている島木健作(しまき・けんさく)についても言える。彼の話は、川村湊の『異郷の昭和文学-「満州」と近代日本-』に登場している。川村によれば、島木は満州の開拓農業の問題点を鋭く把握していたが、彼にそれが可能だったのは、プロレタリア運動の活動家として日本の農業事情、農村事情についての知識を持っていたということもあるだろうが、要は彼が「生活」の細部についてこだわらざるをえないものを持っていたからだと言う。次のように書いている。
「満州がただ広い広いといはれてゐるものだから、まるで水か空気のやうな、全然所有のきまつてゐない土地がそのへんにいくらでもあって、日本移民はそこへ入って行くものだと思つてゐる人々が、知識階級の相当なところに沢山に見出されるといふことはじつに驚くべきことだ」と、彼(島木)は『或る作家の手記』の中に書いている。 むろん、そうした人間は日本人に土地を売った(あるいは取り上げられた)満州人たちがどこへ行くのか、その替地はどうなるのか、買収価格はどれほどなのかといったことに、頭が回るはずがないのだ。つまり、それらの人々には結局は満州のことなど、開拓移民や満州人の「生活」のことを含めてどうでもよいことだったのである。
主観においては、英雄的な “開拓農民”が客観的な政治社会の文脈においては、日本軍による中国大陸侵略の片棒を担いだ者にほかならない。そして、そのことは少しでも常識的な頭を働かせば、容易に理解しうることであるはずだ。“既墾地”の開拓地なんてものはありえない。それは当然、誰かが耕し、そこを田畑にするために苦労した人間がいて、初めて無肥料でも作物が取れるようになるのである。そして、その「誰か」のことに頭をめぐらさない農民がいるとしたら、彼らは農民としての最低限の自覚を持たない者ということに他ならなくなる。あるいは、それだけ日本の農業移民が、国内の窮迫した農業経済事情、開拓移民という国策によって盲目的な状態に置かれていたということになるだろう。
上記のような川村の指摘は、鋭くかつ厳しくそしてまた正しい。このように見てくると、満州移民の抱えていた問題が、たんに彼らの問題にとどまらず日本社会全体の抱えていた問題であったことがわかってくる。小林信介の『人びとはなぜ満州へ渡ったのか 長野県の社会運動と移民』(世界思想社、2015年)は、長野県における満州移民の全体像を知るうえで、きわめて読み応えのある重要な著作である。そこには「バスの論理」に触れたきわめて興味深い指摘がある。その二か所を紹介してみる。
移民の推進主体であった「中心人物」や「中堅人物」は、経済更生運動を通じて準備された。長野県で中心人物の存在を要件としていた更生運動が最も盛んであったことは、県内各町村に多数の中心人物が存在していたことを意味している。このことは、長野県が最大の満州移民送出県になったことと無縁ではないだろう。 満州農業移民の送出地域を示した分布図は、移民が中心人物の存在を軸に展開されていたことを裏づける。分村を積極的に実施した町村を中心にして、「彼(あの村)が行くのなら自分も」とか、満州行きの「バスに乗りおくれまい」という一種の競争心理が、地縁的結合関係を背景として、さながらドミノ倒しの如く近隣町村へと伝播・展開しているのである(「バスの論」)。この論理は、「中心人物」に作用することもあるし、村民一般に直接作用する場合もある。後者になると場合によっては、 下伊那郡大下條村で佐々木忠綱村長の分村反対の姿勢に反して村民が隣村である泰阜村の分村に参加したように、当該村における中心人物のありよう以上に、移民の送出分布に強い影響を与えている。
経済更生策としての必然性が早くから失われていたにもかかわらず、満州農業移民事業が敗戦に至るまで展開し続けたのは、移民事業のもつもうひとつの側面である大陸政策上の必要性のためであった。これは、「中心人物」や「中堅人物」など移民推進論者によって宣伝されたが、広く民衆一般に共有されていることでもあった。大陸侵略の過程で多くの血が満州に流れ、満州を「生命線」と認識していったことにより、民衆は満州侵略を正当化・必然化させていた。移民推進論者に限らず、民衆自身にも大陸政策としての満州移民事業に参加する素地があったのである。そうした民衆の満州意識を鼓舞し、青少年も含む民衆を移民へと駆り立てたのが中心人物たちである。彼らの活動は、社会運動弾圧によって作り出されたな政治的な無風状態という社会構造を背景にしていた。こうして民衆は否応なしに国策に動員され、その動員には地縁的結合関係を背景にした「バスの論理」が大きく作用したのである。

