小人閑居して映画をみる(続)

 映画『スパルタカス』は、ハリウッドを追われたトランボが、事件後はじめて本名を明かすことのできた作品なのだった。 私は彼のことについては何も知らなかったので、あれこれ映画の本をひっぱりだして調べてみたら、赤狩り後は変名でシナリオライターとしての仕事を続け、『ローマの休日』(1953年、イアン・マクアレン・ハンター名)の脚本やアカデミー原作賞を得た『黒い牡牛』(1956年、ロバート・リッチ名)の原作を書いていた。

 さらに『スパルタカス』でカムバック後も、『栄光への脱出』(1960年)や『ダラスの熱い日』、『パピヨン』(ともに1973年)のシナリオを書き、1971年には自作の小説『ジョニーは戦場へ行った』を自ら監督して映画化したという人物だった。私の見たこれらの映画の多くは、熱いまでの「自由」への思いに彩られているが、そのシナリオライターが彼だったのである。

 ハリウッドを襲った赤狩りの話を読み続けていたら、『欲望という名の電車』(1951年)やアカデミー作品賞、監督賞を授賞した『波止場』(1954年)、そして『エデンの東』(1955年)で有名なエリア・カザンの転向のことが紹介されていた。『波止場』のマーロン・ブランドに昔私も武者震いしたが、しかしその映画が赤狩りの後で作られていたことをこれまで知らなかった。

 友人の法政大学の木下武男さんが建設一般の組合機関誌『建設労働のひろば』に「ビデオにみる労働運動」という連載を書いているが、それによると、「結末をむかえるクライマックス、(主人公)テリーはたった一人で立ち向かっていった。群れをなす労働者たちは、ただみているだけである。みんなが立ち上がれば、ひとたまりもないはずだ。このラストについて、エリア・カザン監督の民衆不信があらわれている、とみる映画評論家もいた」とのことである。

 たしかに彼は非米活動委員会に協力し、かつての仲間を「密告」することによって生き延びたのであるが、そうした経験が映画にも投影していたのであろうか。こんな事実を知ってから再見した『波止場』は、昔よりもずっと味わい深いものになっていた。年齢をとってから映画を見直すという楽しみ方もある。

 ところでそのエリア・カザンであるが、彼は進歩的な劇団「グループ・シアター」で働いていた人々の名前をあげたのであるが、そのなかには後に『ノーマ・レイ』(1979年)を撮ったマーチン・リットがいたという。この映画には個人的な思い出がある。内容は、サリー・フィールドが演じる無知でだらしのない女の工員が、紡績組合の活動家の影響で次第に組合活動に関心を寄せ、ついには組合結成へと向かう姿を感動的に描いたものである。

 また彼女彼自身がこの映画でアカデミー主演女優賞を授賞しているだけあって、映画の質も悪くはなかったので、簡単な解説を入れてゼミの学生諸君にも見せたのである。映画を見せたのはこれが初めてだったが、彼らにも労働組合というものの組織や機能が少しは理解できたようで、なかなか好評だった。

 映画を見終わってから彼らに感想文を書かせたのであるが、そのなかで2人ほどが音楽がたいへんよかったという感想をよせていた。私の音楽などはせいぜいがカラオケどまりなので、彼らの感想を読んでも「そんなによかったかな」と思った程度だったが、その後しばらくして、この映画がアカデミー主題歌賞を受賞していることを知り驚いた。

 これまで私は、ポスト・モダンの人間の感性をあまり信じていなかったが、私にはないものを彼らがもっていることを知ってから、彼らに対する見方が変わった。娘が『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)の主題歌のCDを買ったので、私も聞かせてもらったが、印象深い場面が思い出されてやたらに懐かしく感じられた。

 最後にもう一度話を『スパルタカス』に戻そう。この映画の監督はスタンリー・キューブリック(彼はこのとき弱冠32歳である)であり、主演は『OK牧場の決闘』(1957年)で有名なカーク・ダグラスである。キューブリックの映画は『2001年宇宙の旅』(1968年)と『フルメタル・ジャケット』(1988年)しかみていないが、ともに衝撃的な映画だった。

 後者の海兵隊における新兵訓練のしごきでは、猥褻なスラングを浴びせ続けられて人間としてのプライドが剥奪されていく様があまりにリアルで、文字どおり圧倒された。軍隊というものは現代の奴隷をつくりだす組織なのであろう。また、カーク・ダグラスの息子が今をときめくマイケル・ダグラスである。彼の主演作品でみたのは『ウォール街』、『危険な情事』(ともに1987年)と『氷の微笑』(1992年)である(イヤラシイ私が『氷の微笑』でしっかりみていたのは、もちろんマイケル・ダグラスではなくシャロン・ストーンの方であるが…)。
 
 去年は、日本映画の傑作の誉れ高い小津安二郎の『東京物語』(1953年)をゼミ生に見せたいと思ったが、ゼミの時間にビデオをみることができるような教室はどこも空いていないとのことだった。視聴覚教室が普通の授業で埋まってしまっているのである。私などはときどき映画で社会や人間を語りたくなる質なので、こうした事態はまことに残念至極である。

 専修大学に、スパルタクスやトランボそして土井先生にも流れていた「自由」の精神が満ち溢れ、さらには落ちつきのある品のいい映像ホールができたならどんなにか素晴らしいことだろう。教員組合がそうした大学の創造に寄与できることを、私は心ひそかに期待している。

(追 記)

 今回の投稿は、土井正興先生の話から始まって、映画『スパルタカス』に移り、さらにこの映画の脚本を担当したダルトン・トランボにまで広がっていったが、このトランボの半生がしばらく前にハリウッド映画となって上映された。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015年、監督はジェイ・ローチ)である。邦題にのみ付けられたサブタイトルが、何ともユニークである(笑)。日本で公開されてからしばらく経って、私も自宅で見た。

 トランボ(1905~1976)は、上院議員だったマッカーシーによる「赤狩り」が吹き荒れた冷戦初期のアメリカで、共産党員の脚本家として映画界で活躍していた。その彼は、下院非米活動委員会に召喚されて、「共産主義者」であるかどうかの認否や仲間の「密告」を迫られたのだが、それを拒んだために収監され映画界から追放された。そんな目に遭った映画人は他にもいて、彼らは「ハリウッド・テン」と呼ばれたが、彼はその代表格のような存在であった。

 「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」は、その彼を自叙伝のように追った作品である。映画界で仕事を失い、妻子が嫌がらせを受け続けた間も、食うために別人の名を借りたり偽名を使ったりして脚本を数多く書き続けたことは、先に紹介したとおりである。ある解説には「希代の脚本家」とあったが、何とも言い得て妙である。体中から溢れるような創作意欲がそう言わせるのであろう。

 彼を演じたブライアン・クランストンは、アカデミー主演男優賞にノミネートされただけあってなかなかの名演だった。映画のポスターを見ると、グラスを片手に煙草をくわえタイプライターに向かう、いかにも不敵な面構えの男が写っている。きっとトランボもあんな人物だったのであろう。

 映画を見終えて印象に残ったのは、権力に膝を屈することのない逞しさは言うまでもないのだが、それに加えて、あまりにも精力的な仕事ぶりと深い家族愛である。ハリウッドから追放された男の半生がハリウッド映画となったのだから、トランボも草葉の陰で喜んでいるに違いない。