晩夏の佐渡紀行(一)-初めての佐渡へ-

 今日は2月の9日。立春も過ぎて暦の上では春ということだが、「早春賦」で歌われているようにまだ「春は名のみ」である。つい先日は今年一番の冷え込みになったということだし、今日も風は殊の外冷たい。しかしながら春の予兆は既にある。そう感じるのは、窓から射す光が明らかに眩しさを増しているからである。春ももうすぐであろう。

 今回からかなりの回数に渡って、昨年9月に出掛けた佐渡についての探訪記を投稿することにした。もともとは研究所の『月報』のために書いた原稿である。取り留めも無く書いていたら、大分長いものになった。内容は旅行記ということになるのだろうが、たんなる旅行記に終わらないように、少しは工夫を凝らしてみたつもりである。どこかにその跡を感じ取っていただけたら、嬉しい限りである。
 
 昨年9月の2日から6日にかけて、佐渡、富山、金沢と廻ってきた。専修大学の社会科学研究所が企画した「北前船の足跡をたどるPart3」と題する調査旅行に参加させてもらったのである。私は、残念ながらPart1には参加できなかったが、Part2には喜んで参加して旅日記風の雑文を綴り、研究所の『月報』(No.667・668号、2019年2月)に掲載してもらった。秋田、山形、新潟と辿った前回の調査旅行がかなり面白かったので、今回もまた、その意義は勿論だが面白い旅になるのではなかろうかと勝手に妄想を膨らませ、再び喜び勇んで出掛けたのである。何時ものことではあるが、相変わらず出掛ける動機は不純である(笑)。

 今回の行程は、過去2回の調査旅行と同様に、一方では北前船の足跡を辿るとともに、他方では探訪した地方、すなわち北陸(新潟、富山、石川、福井)における現代産業の動向についても視察するものだった。例えば、佐渡では地元での雇用創出を願って電子部品を製造しているセオデンテクノ、富山では世界企業でもあるYKKの黒部パークセンター、「越中富山の薬売り」から始まった医薬品メーカーの廣貫堂、包装関連機器を製造しているハナガタ、高岡では鋳物メーカーのイメージを一新した能作、そして金沢では繊維機械を製造している津田駒工業を訪問し、それぞれの企業の方からレクチャーを受け、現場を見学させてもらった。

 私はと言えば、その辺りのことについては何も知らないので、北陸にも面白い企業がたくさんあり、いろいろなものが作られているんだなあと感心して見て廻った。私の頭にあった北陸のイメージが一新されたことは言うまでも無い。他にも、佐渡ではトキの森公園内にある佐渡トキ保護センターや、真野鶴の蔵元である尾畑酒造や、佐渡産の陶器として知られる無名異(むみょうい)焼きの窯元なども訪ねた。無名異とは酸化鉄を含有する赤土のことで、佐渡の金山採掘の際に出たため、その副産物を陶土に利用して焼かれるようになったのだという。富山では、コンパクトシティーを理念とした街作りの実験に関する話も聞いたし、LRTと呼ばれる次世代型路面電車システムの姿を知るために、この電車にも乗車した。

 しかしながら、感心し楽しんだまではいいのだが、調査旅行での副産物に関する事柄については、探訪記を書こうとする意欲が沸いてこない。何故かと言えば、私が書きたいのは調査旅行に出掛けて体感した旅情とか旅愁とか旅心のようなものだからである。社会科学研究所の『月報』にそんなことを書いてどうするのかと所長や事務局長からお叱りを受けそうだが、その程度のことしか書けないし、またそんなことを書いてもみたいので、年寄りの我が儘だと思ってお許し願いたい。

 以下主に書きたいと考えているのは、佐渡に関するあれこれである。佐渡は今回初めて出掛ける場所なので、行く前から楽しみにしていた。昔ゼミ生たちとの卒業旅行で佐渡に渡る企画があって、直前までそのつもりで準備していたのだが、前日に酷い腰痛を発症したために断念した。そんな曰く付きの場所でもある。だから、是非一度出掛けてみたかった。陸地の果てをイメージさせる岬などにも人は旅情を感じるはずであるが、そこを離れて島に向かう船旅となると、その思いは更に強くなるのではなかろうか。そんなことを期待して出掛けた。

 同行の諸氏とは新潟駅で待ち合わせということになっていたので、珍しく朝早くに起きて一人上越新幹線に乗車した。旅というのは、事前に計画を練っている時も楽しいが、それ以上に興奮するのはやはり目的地に向かう時ではなかろうか(笑)。日常を離れることが、目に見えて分かるからである。燕三条を過ぎると列車は越後平野の真ん中を走っていく。車窓から眺めると田圃が一面に広がり、その広さにあらためて驚いた。さすが日本一の米どころと言うべきか。小雨に煙っている所為もあるのか、緑、黄緑、黄色のグラデーションが何とも美しい。

 見ず知らずの場所に出掛けるとなると、事前にあれこれの知識を仕入れておこうなどといった殊勝な気になる。今回も同じである。加えて簡単な雑知識も頭に入れておいたつもりだった。しかしながら、実際に出掛けてみると大分感じが違う。新潟と佐渡の両津との間には高速のジェットホイルが就航しており、僅か1時間程で着く。昔流人の島だったところがこんなに近いとは思いもよらなかった。

 船中で法学部の根岸さんと雑談を交わしたが、その際彼は、太宰治が佐渡について書いていることを紹介してくれた。その作品についてはこの後すぐに触れる。根岸さんとの雑談で、彼が能を観るために結構な頻度で佐渡に来ていることを知って、私はいたく驚いた。能などといった高尚な趣味のために、佐渡にまで出掛ける人がいるのである。世俗の塵埃にまみれた私のような人間には、にわかには信じられない話だった。世界は何と広いものであろうか(笑)。

 佐渡は、世阿弥が配流された地としてよく知られており、そうした歴史もあって、能が盛んな地となったのであろうなどと勝手に思い込んでいたが、後になってこの原稿を書くためにガイドブックの類をあらためて読んでいたら、そこには、佐渡に能が広まったのは江戸時代の初めであり、幕府から金山開発の命を受けて佐渡を訪れた初代の佐渡奉行大久保長安が、二人の能太夫を連れてきたことに始まると書いてあった。この二人の能太夫は長安が江戸に戻った後も島に残って多くの弟子を育て、それが島内での民間能の礎を作ったのだという。

 それどころか、江戸時代の佐渡は天領となったので、大名も武士もいない特殊な環境であったため、武士の式楽(儀式に用いられる音楽や舞踊のこと)であった能が、島民にも浸透していったと考えられること、佐渡の能がもっとも盛んだった明治時代には、島内には村の数と同じ200ほどの能舞台があったこと、神事から庶民の娯楽という側面を持つに至った能は、佐渡の人々に愛され続け、現在でも36の能舞台が残されていること、この数は日本にある能舞台の三分の一を占めていること、などまで触れられていた。

 こうしたことは、佐渡に関心を持つ人にとっては常識であり、今更の話なのかもしれない。私はそんなことも知らずに佐渡に向かったのであるが、もともと非常識な人間なのでやむを得ない(笑)。先のガイドブックには、主な能舞台のスケジュールまで紹介されていたから、能を観るために島外から佐渡に出掛ける根岸さんのような人は、案外いるのかもしれない。