晩夏の両毛紀行(一)-旅に出るということ-

 専修大学社会科学研究所が毎年実施している調査旅行は、老後の平々凡々とした退屈な暮らしを続けている私にとって、気分転換のための妙薬となっている。日頃の生活に彩りを添える実に爽やかな清涼剤だと言ってもいい。こんなふうに書き出すと、どういうつもりなのかと周りから顰蹙を買いそうな気がしないでもないが、嘘偽りのない本当の気持ちを吐露してみただけである。

 私は、定年退職を機に「第二の人生」に踏み出そうと思い、これまでの研究者生活からすっかり足を洗った。大学との繋がりで残すことにしたのは、社会科学研究所の研究参与という肩書のみである。大学を辞めるまでは人文科学研究所の所員でもあったが、退職した際に退所してしまった。しかしまあ、所員であったとは言っても、ただ名前を連ねているだけの幽霊所員のようなものではあったのだが…。

 先日、教員時代の知り合いと町田で飲み食いする機会があった。こうした集まりには、私などは喜んで顔を出すのが常である。気心の知れた4人で飲み食いし、雑談を交わすのが愉しいからである。そこでの雑談のなかで、人文科学研究所がこの秋に実施した調査旅行のことや、年明けに企画している次の調査旅行のことが話題に上った。聞いているこちらもわくわくするような話であった。調査旅行に出掛けたり企画したりする人の話を聞くのも、なかなか面白いものである。

 そんな話を聞いているうちに、退職を機に人文科学研究所を退所してしまったのは、早まった決断だったかもしれないと思われ、少しばかり後悔した。いまさら戻してくれとは言いにくかったが、その場にいた一人はこの研究所の所長を務めているHさんだったので、退所した人間がまた戻れるのかどうか尋ねてみた。そうしたところ、書類を提出してもらえればまたメンバーに戻れるとのことだった。少しばかり嬉しかった。

 集まりには顔を出してみるものであり、話は聞いてみるものであり、人には尋ねてみるものである。そんなこんなで、私はまた人文科学研究所の所員に戻った。正しくは、退職者なので所員ではなく研究参与である。私が調査旅行に興味や関心を抱くのは、個人ではとても行けそうにない所に連れて行ってもらえるからであり、しかも、ブログに投稿したくなる材料がごろごろしている旅のように思われるからである。つまり、旅行が好きだと言うよりも、ブログに文章を綴ることができるような旅行が好きなのである。

 社会科学研究所の調査旅行もそうだが、人文科学研究所の調査旅行にも、これからも機会を見て参加させてもらいたいと思っている。そんなこともあって、旅についてあれこれ考えていたら、私小説作家としてよく知られた上林暁(かんばやし・あかつき)の「旅行上手と旅行下手」というエッセイを読む機会があった。亡くなってから40年以上も経つというのに、彼のエッセー集『文と本と旅と』(中公文庫、2022年)が刊行され、そこに収録されていたからである。上林さんは以下のようなことを書いている。

 旅行鞄一つ提げて、始終気軽に旅行している人を私は羨ましいと思う。 旅行に旅行の次いでいる身分を好いと思う。しかし、私としては、旅行ずれということは感心しない。見聞の広くなるのはいいが、何を見聞しても、大して感興を覚えない。こういうようになっては困るのである。広く恋愛をした人が、かならずしも深く恋愛を味うとは限らない如く、広く旅行をした人が、かならずしも深く旅行を味うとは限らない。私はめったに旅行しない代りに旅行ずれがしていない有難さには、一寸した旅行でも、いつも生き生きとした感興を覚えることが出来るのを喜んでいる。嘱目、みな珍しいのである。大抵の場合、旅行を一つすれば、小説が一つ書けるのも、その賜物である。

 へえー、なるほどねえなどと妙に感心して読んだ。そしてまた、「旅行ずれ」していないと自認している彼は、旅はしっぱなしではなく、その思い出を大切にしたいと考えているようなのである。私は上林さんほど思い出を大事にしているわけではないが、それでも、もしかしたら思い出を残したいと思っている人間の一人なのかもしれない。調査旅行に出掛けるたびに、旅日記のような雑文を毎度綴っているからである。こうした行為も上林さんが指摘していることと無関係ではないのだろう。彼の文章を引いておこう。

 むずかしいことはともかくとして、旅というものは、楽しいものである。 楽しいから、よいものである。しかし、旅そのものよりも、旅の思い出の方が、楽しいように思える。私はいつか、「旅もいいが、旅の思い出の方がもっといいんだ」と口走ったことがある。まったく、 旅の思い出は楽しい。 辛かったこと、苦しかったことすら、美化されて頭に浮ぶ。というのは、心理学に、記憶楽観説というのがあって、悲観的なことすらも、記憶においては楽観的なものになるというのであるが、旅の記憶においては、それがことに楽観的に思い出されるような気がするからである。そこでまた、旅というものは、旅そのものを楽しむというより、そういう思い出を楽しむためになされるものだといえそうである。

 こちらの文章も、そうかもしれないなどと思いながら読んだ。このエッセー集には他にも興味深い箇所があった。彼は自分の文章について、「斬新ではないが、古くさくもない。面白さに感嘆させるところが少い反面、じっくり噛みしめれば味が出ようということを狙っている」(「まともな文章」)と書いている。今でも噛みしめる人がいるからこそ、こうしたエッセイ集が刊行されたのであろう。上林さんの大ファンである町田さんも、大いに喜んでおられるに違いない(笑)。この私も、噛みしめれば味が出るような文章を綴ってみたいなどと勝手に思ってはいるのだが、そのためには、上林さんの爪の垢でも煎じて飲まなければなるまい。

 人文科学研究所のメンバーに戻してもらった話から、調査旅行という名の「旅」に関する話題に話を広げていたら、『人は何を旅してきたか』(専修大学出版局、2009年)という大変興味深いタイトルの本があったことを思い出した。人文科学研究所が創立40周年を記念して行った「旅」に関する公開講座での10話のうちの5話を纏めたものである。せっかく研究所に戻してもらったことでもあるので、この機会に真面目に読んでみようと思った。相変わらずの殊勝な心掛けである(笑)。 

 今回は、この9月に社会科学研究所が実施した調査旅行に同行させてもらったので、そのはしがきのようなことを書こうと思っていたのだが、そこにまったく触れないうちに終わりそうである。調査旅行で廻ったのは群馬と栃木だったので、昔の国名である上毛野国(かみつけのくに、群馬)と下毛野国(しもつけのくに、栃木)を用いて、「晩夏の両毛紀行」とすることにした。前橋と小山を結ぶ両毛線という鉄道もある。この調査旅行の顛末については、次回以降順次詳しく紹介するつもりである。 

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/11/05)

 

緑の回廊の如く(センター南駅前にて)

 

聳ゆるテーダマツ(都筑中央公園にて)

 

秋の表情(都筑ふれあいの丘駅前にて)