早春の上州紀行-富岡製糸場雑感(下)-

 桐生の織物参考館”紫”に出掛けた際に、大日本製糸会会頭という肩書を持つ高木賢という方の著作を入手した。タイトルが『日本の蚕糸のものがたり』(大成出版社、2014年)であったし、私のような素人にも読めそうな作りだったので、購入しておいた。著者の問題関心は、「それぞれの時代のある特定の分野についての著作物はありますが、 開国以後の近代の日本の蚕糸業の歴史-『通史』 ともいうべきもの-を全体としてバ ランスよく提示してきたとは言えない」というところにある。だから私などが読む気になったのであろう。しかしながら、この本には次のようないささか気になる記述があった。紹介してみよう。

 1911(明治44)年、労働時間の制限を定めた工場法が制定されましたが、 製糸業者の多くが工場法が定めようとした1日の労働時間の上限12時間に反対であったことは、製 糸業が長時間労働に依存していたことの何よりの証明といえ ましょう。 なお、綿織物業においては機械化が進展し、昼夜2交代制がとられるようになっていました。 また、賃金が1年に1回払いというところが多く、賃金支払いの時期までの工女に対する前貸し金と相殺するといくらも 手元に残らないとか、工女側の借越しになったという事例も見られたようです。

 総じて言えば、 「優等糸」 を目指す企 業には、 いい糸を作るためには工女を大切にしなければ、という考えがあり、 それなりの処遇もされたようですが、「普通糸」の量産を目指す企業の場合、 売れる時にできるだけ 作らなければと長時間労働につながっていく傾向がみられた ことは否定できないと思われます。 しかし、過剰な人口を抱えていた当時の日本において、 製糸業が明治末期から昭和前期までの間、約20万人ない し40万人の雇用の場を提供していたことも事実であり、今日の時点において今日の価値観からみての安易な批判は避けるべきものと思います。

 以上が著者の指摘するところである。この本の中でわずかに登場した工女の話なのだが、「安易な批判は避けるべき」であると一蹴されている。確かに安易な批判であっては問題であろうが、どうもそこには、批判自体が既に安易だと思われているような気配も感じられる。これでは、工女たちの話が登場する余地はまったくなかろう。果たしてそれでいいのであろうか。

 現実を見れば、官営工場時代であっても実情はなかなか厳しいものがあった。前回のブログで、斎藤美奈子さんが「短い春」だと書いておられることは既に紹介済みだが、その「短い春」においてさえ、その後の「長い冬」が既に予感されていたと言うべきであろうか。今井幹夫という方の書かれた、『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベスト新書、2014年)というハンディーな本がある。富岡製糸場総合研究センターの所長を務めた著者の今井さんは、富岡製糸場の世界遺産への登録に当たって、たいへん大きな役割を果たした方である。そこには次のような記述がある。

 世界最大規模での操業は、いざ始めてみると、関係者でも驚くほどの状況でした。『富岡製糸場記』の中にその様子を記した一節があります。 現代の言葉で要約すると次のよう な内容です。「場内では、釜からのぼる湯気は煙や霧のような濃さで、人の顔も見分けられないほどだ った。蒸気が沸騰する音や鉄の輪が回転する響きはすさまじく、波濤のように、風雨のよ うに押し寄せてくるので、しゃべっている言葉は聞こえない。身振り手振りやどなり声を 上げてようやく用をなした」。 石炭を材料とする蒸気エンジンによって動く繰糸機の騒音や300人繰りの繭を煮る釜 から立ちのぼる蒸気の様子が臨場感をもって描かれています。

 こうした記述を読むと、和田英が初めて製糸場を訪れた際に感じた「何となく恐ろしい」といった気持も、宜なるかなと思えるのである。「関係者でも驚くほどの状況」であった製糸場での労働が、各地から集められた幼い工女たちにそのまま素直に受容されていったとはとても思えない。工女たちの忍耐に限度があったとしてもおかしくはなかろう。今井さんのこの著作には、次のような記述もある。こちらも参考になるので合わせて紹介しておこう。

 工女たちには、1~3年とい う勤務期間が提示されていまし た。つまり、1年経つまでは 「私事都合では」退職できない 規則になっていたのです。それにもかかわらず、1年未満で辞 めてしまう人がとても多く、長 野・埼玉県から入場した工女の記録を集めた「工女名簿」によ ると、創業年の明治5年にこの地域から入場した工女の三分の二が1年以内で辞めています。早期退職の理由は、本当のところは集団生活や規定された労働時間になじめないこと、細かな就業規則、楽しみのなさ、給料の低さ――などのようですが、表向きには、「親が 病気になった」など嘘の大義名分を立てて国元へ帰って行きました。

 明治8(1875)年に経営診断に訪れた速水堅曹(のちの所長)はその報告の中で、 経営赤字の原因の一つとして、「工女たちの仕事が終わるのは夜になる。雑談をすれば老女に怒られ、なんの楽しみもない。みな口々に言っているのは『こんなことをしていて何 になる。お嫁に行っても活かす場はない』ということだ」と述べ、多くの工女が任期前に辞めてしまうことを挙げています。 また、地元に製糸場が建設されたために富岡でのノウハウを持って帰郷するように自治体から求められたケースもありました(和田英は、国元にできた六工社の指導者となるために、入場して1年半程して富岡製糸場を退場している-引用者注)。一日も早く、富岡での研修の成果を持ち帰ってほ しかったのでしょう。

 たいへん興味深い指摘である。『富岡日記』は貴重な歴史的資料ではあるが、それだけで工女の労働の全貌を語ることには無理があるということなのかもしれない。確かにそこには、「厳しい訓練と労働条件のなかでも、新しい技術を少しでも早く完全にマスターして国産の礎として役立てようとする、いわば楽観的な明るさ」、いささか難しく言えば「近代的知性の自生的展開」(滝沢秀樹『繭と生糸の近代史』教育社、1979年)とでも言うべきものがある。

 初めて日本に導入された工場制度のもとで、「一等工女」めざして健気に頑張り、その後各地で製糸業の発展に貢献した和田英のような工女たちの姿があったことは間違いない。その奮闘の成果が、急速に「大砲」と「軍艦」へと転じていったところに、日本の近代化の影や闇が潜んでいたのかもしれない。今「いた」と過去形で書いたが、その影や闇は、現在においても日本社会の深部を規定しているもののようにも思われる。

  片手間で勉強らしきものをしていたら、高崎経済大学附属研究所編の『近代群馬の蚕糸業』(日本経済評論社、1999年)という本が出版されていることを知った。この本に、長谷川秀男さんという方の「富岡製糸場と近代産業の育成-お雇い外国人を中心に-」とい言う論文が収録されている。そこで長谷川さんは、以下のようなことを呟かれている。その呟きに共感したのは、私も似たようなことを感じていたからだろう。最後に紹介しておきたくなった。

 明治治維新による日本の近代化はフランス革命や市民革命等を経て実現した西欧の近代化よりも およそ百年遅れていた。 この遅れを埋めるために、富国強兵政策が最善であったのであろうか。社会や個人の近代化、民主化に主眼をおくことはなぜできなかったのだろうか。少なくとも、富国強兵的な国家の近代化という枠組みの中で、それに必要 な限りにおいて社会や個人の近代化、民主化を考えるのではなく、第二次世界大戦の敗戦による「外からの民主 化」以前に、近代化の発展過程で社会や個人の民主化も実現して欲しかったと思う。

 先月のはじめに参議院選挙が実施された。私はと言えば、「8時間働けば普通に暮らせる社会を」と訴えた候補者を応援したのだが、この候補者は残念ながら落選してしまった。そのこととは別に、ふと気になったことがあった。こんなあまりにも真っ当すぎる選挙スローガンが、真顔で掲げられている社会に、違和感を覚えたからである。富岡製糸場に初めて入場した際に、工女たちが「恐ろしい」とさえ感じたことは先に触れたが、私の感じた違和感は、その「怖ろしさ」とどこかで通低するものがあったのかもしれない。

 世の中はITだAIだSNSだとやたらに喧しく、われわれは既に超近代の世界に棲息するかの如くである。だがその超近代とやらは、もしかしたら近代の表面を撫で回して通り過ぎただけの、あまりにも底の浅い超近代に過ぎないなのかもしれない。時代遅れとなった年寄りの、言わずもがなの述懐ではあろうが…。