早春の上州紀行-富岡製糸場雑感(中)-

 当時の富岡製糸場における工女の実態に関する話となると、必ず持ち出されるのが和田英(わだ・えい、旧姓横田)の『富岡日記』(ちくま文庫、2014年)である。製糸場の売店にも置いてあったので、購入し帰宅してから読んでみた。絹製品のお土産は高価なので私などには手が出ないが、文庫本ぐらいは買える(笑)。伝習工女として働いていた彼女の日記は、当時の製糸場の実情と工女たちの息吹を生き生きと伝えていて、確かに興味深い。親が松代藩士のわずか17歳(数え年で17なので、満では15歳か)であったこの娘は、官営の巨大な製糸場まで親元から皆とともに歩いてやって来る。そして、製糸場に入場して驚愕するのである。

 「この繰場(くりば)の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽くされません」と、その時の驚きようを素直に書き留めている。威容を誇るレンガ造りの巨大な工場は、その大きさ自体で幼い工女たちを圧倒していくのである。そして彼女は、「夢の如く」に思うとともに「何となく恐ろしい」とも感じたのであった。当時この工場を見るために日本の各地から見学者が訪れたというぐらいだから、その驚きはいかほどであったろうか。

 この最新鋭の工場は、「行儀正しく一人も脇目もせず業に就き居る」ことを求め、無言で作業することを求めたようである。労働の現場における工場規律の徹底である。こうして工女たちは、高品質の生糸を繰る技術を習得するとともに、器械の動きに従属した不自由な働き方を身に付けていったのであろう。これまで日本の労働問題に少しばかり関心を払ってきたこともあってなのか、私は彼女が感じたというその恐ろしさの方がとりわけ気になった。

 文庫本となった先の『富岡日記』には、斎藤美奈子さんの「近代の女子労働史からみた『富岡日記』」と題した解説が付されている。この解説がすこぶると言っていいほど興味深い。関心のある方には、是非とも全文に目を通してもらいたいのだが、なかでも目を引いたのは、「富岡と『女工哀史』は別なのか」と言う小見出しが付された一文である。いささか長くなるがそのまま紹介してみる。

  フランスの工場に準じた富岡製糸場は就労規則もフランス式で、年季奉公のような日本の伝統的な労働形態と比べると、はるかに近代的でした。 就業は朝7時から午後4時半まで。9時から30分、12時から1時間、午後にも15分の休憩時間があり、実働は7時間45分。灯下の労働は品質に影響するというブリュナの考えから、作業はすべて自然光の中で行われました。 週一度の日曜日は休み。 猛暑の時期には昼の休憩時間を増やすなどの措置がと られ、夏と冬には休暇もとれました。 しかしながら、こうした「恵まれた」 労働環境は富岡製糸場からはじまる製糸業の長い歴史の中では、ほんの一時期の「短い春」だったといわなければなりません。日清戦争を契機に生糸が輸出産業として成長し、製糸業が資本主義的性格を強めるにしたがって、製糸業界の労働条件は劣化の一途をたどったからです。

 地域や会社によって濃淡はあったにせよ、労働時間は短くて12時間、ときには14~15五時間におよび、賃金は時給計算ではなく出来高払い制。「労働時間の如き、忙しき時は朝 床を出て直に業に服し、夜業12時に及ぶこと稀ならず。(略)その職工の境遇にして憐れむべき者を挙ぐれば、製糸職工第一たるべし」と横山源之助が『日本の下層社会」に書い たのは富岡の開業から約四半世紀後のことです。採算度外視で模範的な労働環境を目指していた富岡製糸場も、ブリュナの帰国後は生産性重視の姿勢に転じ、1893(明治26)年に三井に払い下げられると、労働時間の延長、等級制から出来高制への賃金体系の改変など、労働強化が図られています。

 したがって、 横田英が在籍した官営時代だけを取り上げて「女工と聞けば『女工哀史」 や「野麦峠』の暗いイメージを思い起こすかもしれません。 しかし、富岡製糸場にはそのような雰囲気はありませんでした」(自由主義史観で知られた藤岡信勝の一文であるー引用者注)などとことさらに強調するのは、富岡からはじまる製糸労働史、ないし女子労働史の全体像を無視した態度にほかなりません。 「富岡日記』を手にした私たちがいま考えるべきは、近代日本の資本主義発達史の中で、富岡製糸場がどのような役割を果たしたかです。

 富岡は日本の殖産興業にたしかに貢献しました。 富岡製糸場が導入し、日本式に改良された器械製糸は生糸の大量生産を可能にし、20世紀の初頭には天蚕(ヤママユと呼ばれる蛾の別名ー引用者注)生産の先進国だった中国やイタリアと日本は肩を並べ、やがて追い越すまでになります。 しかし、日本経済の屋台骨を支える基幹産業の担い手が10代の少女たちだったことを考えるとき、一見模範的に思える富岡製糸場にも、後世の歪みを生む素地があったことは否定できません。

 こうした斎藤さんのきわめて重要な指摘は、富岡製糸場での展示を見ても、顧みられたような気配すら感じられなかった。織都の桐生でも同じである。世界遺産登録後に出版された富岡製糸場を紹介した著作なども、ほとんど同様である。見学場所にあった掲示物を丹念に読めば、そうした記述はもしかしたらあったのかもしれないが、私には見付けることができなかった。官営の富岡製糸場が模範的な工場であったことのみが、振り返られ強調されていたのである。

 問題となるのは、『富岡日記』をどのようなものとして位置付けたらいいのか、そんなところにあるのだろう。たまたま手元に置いてあった立花雄一著の『明治下層記録文学』(ちくま文庫、2002年)を広げていたら、次のような記述にぶつかった。「記録者は日本の工女第一号で ある。ちいさな経営体ながら、そこの娘である。同時に指導手ほどき者である。それは 『富岡日記』の微妙な位置をしめしている。『富岡日記』は被雇傭者、下積みの工女の記録ではない。官製と民間、経営者と工女の中間にあって、日本の製糸工場の夜明けの生成のさまが微細に綴られてある、『富岡日記』の価値はそのあたりにある」。

 立花さんが指摘する「『富岡日記』の微妙な位置」という表現が何とも気になった。私が感じたぼんやりとした違和感とも相通ずるような感じもしたのである。ところで、あれこれの資料を眺めているうちにふと気が付いたことなのだが、「工女」と「女工」はどう違うのか、「器械」と「機械」はどう違うのかを知りたくなった。しかしながら、そうしたことに関してさえも研究者は既にきちんと調べ上げているのである。そのあたりのことは、玉川寬治著の『製糸工女と富国強兵の時代-生糸が支えた日本資本主義-』(新日本出版社、2002年)に詳しい。

 結論から言えば、どちらにも「意味内容に本質的な違いはない」とのことである。私が紹介したいのは、玉川さんが明らかにしたその結論だけではない。日本の製糸業に関しては、微に入り細に渡った過去の膨大な研究蓄積があるということを、言いたかったのである。世界遺産の登録に目を奪われてしまって、過去の研究上の遺産がないがしろにされてはならない、ふとそんなことを言ってみたくもなった。