新春の五島・島原紀行(七)-キリシタン集落の人々-

 では、頭ヶ島での暮らしとは、いったいどんなものであったのだろうか。新たに開かれた土地には、移住元の外海で培われた石積み技術が駆使され、段畑(だんばたけ、段々畑のこと)や、石積み壁の小屋、石段、水路などが築かれた。「石の文化」が生み出したのは教会だけではない。現在でもあちこちに当時の景観が残っているとのこと。急な斜面に作られた段畑では痩せた土地でも育つ甘藷(「ごと芋」と呼ばれ、今では五島産のブランドとなったさつまいもである)が栽培され、人々の暮らしを支える食糧となった。こうした集落の姿は、頭ヶ島に限らず他の集落でも見ることができるのだという。

 以前から島で暮らしてきた「地下」(じげ、在郷または在郷の人のこと)の人々は、比較的条件の良い海岸沿いに軒を連ねて、主に漁業で生計を立てていた。それに対して、新たに移り住んだ「居付」(いつき、一定の場所に住み着くこと)の人々は、宗教上の違いなどもあって、海岸から少し離れた山の中腹の斜面などを開墾したので、家屋が散らばるような集落になったのだという。こうして、両者が対称となるような景観が生まれることになった。図式化して言えば、「漁業、仏教、海岸の集落」に対する「農業、キリシタン、山村の集落」という構図である。

 潜伏キリシタンが集まった「居付」の集落では、傾斜地で生活するためのさまざまな知恵が駆使され、強風に備えるための石垣や林なども設けられた。厳しい自然環境のなかで、「斜面にしがみ付くような生活」を今日まで根気強く続けてきたのである。彼らは、禁教の高札が撤去されて以降、集落ごとに次々と簡素な教会を建てていった。中通島・若松島とその周辺の島々からなる新上五島町には、昭和40年代には35もの教会があったようだが、現在は29にまで減少している。しかしそれにしてもたいへんな数である。

 移住先の五島における生活は厳しいものだったが、それでもいちばん大事にしていた信仰を守り続けることができた。賑わいからはるか離れた場所、人が住まない急な山肌、辺鄙な入り江。そうした土地が与えられたのか、自らそこを求めたのか、あるいはそこに住まざるを得ない事情があったのか、理由はそれぞれに違うのであろうが、きわめて不便な土地を切り開き、人目を忍んでキリシタンの信仰生活を続けてきたのである。生活に不便で人が近付きにくい土地のほうが隠れて信仰を続けていくのにも都合がよかったのであろう。

 上述したような図式は、頭ヶ島の集落にとりわけよく当てはまる。対岸の生活しやすい 「地下」の集落と、急な流れの瀬戸を挟んで、向かいの人が近付きにくい不便な島につくられた「居付」の集落という対称である。明治になって木造の簡素な教会が建てられたことも同じである(石積みの教会ができたのはその後のことである)。無人の島であった頭ヶ島を最初に開拓したのは前田儀太夫(まえだ・ぎだゆう)であるが、キリシタンの集落に育て上げたのはドミンゴ松次郎である。その後は、カトリックの集落として厳しいながらも安定した、平穏な日々が続いたようだ。世界遺産に選ばれた頭ヶ島の集落は、潜伏キリシタンとその子孫が生み出した典型的なキリシタン集落なのである。

 かいつまんで大事なところを要約してみると、『頭ヶ島に生きる』にはおおよそ以上のようなことが書かれている。最後のページには、教会をバックにした10人の信徒の写真がある。その佇まいには、質素ではあるがどこかに落ち着きが感じられる。信仰を持った人の心の平安が生み出した落ち着きということであろうか。1867年に130人ほどだった頭ヶ島の人口は、1960(昭和35)年には250人近くにまで増えたものの、現在では10人台まで減っている。急速な過疎化の進行である。しかしここで暮らす人々の笑顔は、古い写真に残る人々の笑顔と変わらない。頭ヶ島が「安住の島」であることの証しであろう。

 離島に多大の関心を示してきた民俗学者に、竹田旦(たけだ・あきら)と宮本常一がいる。ともに五島には何度も顔を出しているようだが、その二人が書いた文章を読むと、彼らの目の付け所がよくわかる。私が景観としての教会を眺めているのとはまったく違って、彼らが注目するのはあくまでも人間であり、人々の暮らしである。印象深いのでここに紹介しておきたい。まず竹田である。『離島の民俗』(岩崎美術社、1985年)には、最初に五島を訪ねたときの印象が次のように書き留められている。

 いったいに五島には、この島らしい特色がいくつかある。たとえば五島を漁業の島と名づけてもよかろう。中通島の奈良尾港などを基地とする巾着網、福江島三井楽のブリ定置網は日本一東洋一を誇ってきた。かつて李ライン問題でしばしば新聞紙上を賑わした以西底曳き網は中通島の奈摩港が基地である。福江島の富江港や荒川港は近海捕鯨の根拠地であったし、中通島の有川町からは南氷洋捕鯨船に400人も乗り組んで活躍しているとのことである。陸上では耕して天に至ると評言される段々畑が著名である。

 第一回の渡島の際、五島最初の港、奈良尾港に入港しようとする時、港内にひしめく大小各種のおびただしい漁船群にたまげたのであるが、街のうしろの山肌が、はるか見上げるまで空高く石垣をもって段々畑に積み上げられているのにも目を見張るほどの驚きを覚えたものである。この驚きは人間の限りない営みに対する畏敬の念でもあった。さらに段々畑の開墾が土地の人々にイツキ(居付き)とかヒラキ( 開き)とかよばれるかつての切支丹の手によってなされたものであることがわかった時、これらの人々をより深く知ろうという学問的情熱が勃然と湧いてくるのであった。彼らの偉大な力の根源は何だろうかと。

 では、もう一人の宮本の場合はどうであろうか。彼は、五島を3回目に訪れた際に頭ヶ島の老人たち全員に集まってもらって、話を聞いている。そのことは、『私の日本地図5 五島列島』(未来社、2015年)に登場する。この著作は、1968年に出版された同名の著作の復刻版である。彼は、「みな白髪。色は黒くやけているけれど、いずれも頑丈で、しかも清潔な感じの人びとで、明るく生きいきとしていて、いわゆる老人くささがない」島の老人たちに、好印象を抱いたようである。次のように書き留めている。

 私はこんなにあかるく充実した老人たちの群にあったことはきわめて少ない。一人ひとりにあうときにはみな充実感をもっているけれども、群をなしている老人にあうと、中にひねくれたり、しなびたり、暗い感じの人がいるものである。それが少しもない。写真をとっておけばよかったのを、話がはずんで、ついそのことを怠った。この清潔さは長い苦難の生活にたえつつ、信仰によって支えられ、その苦難におしひしがれることがなかったためであると思われる。

 しかもこの人たちは、この島で畑をつくるだけでは生活をたてることができないから、みんな出稼ぎして来、年をとって島におちついて生活するようになったものである。この老人たちの中には、南氷洋で鯨を追った人もあれば、ブラジルで働いた人もある。シンガポールにいた人もある。小さな島の中のみに生きつづけた人ではなかった。そして、そのような外でのはげしい働きの後、島へかえって静かに余生をおくっている。そして島はこの人たちにとって天国にひとしいという。お互い気心がわかりあい、明るい天地と澄んだ空気。何一つ不平はありません、というのが老人たちの言葉であった。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/06/08

五島の海三景(1)

 

五島の海三景(2)

 

五島の海三景(3)