新春の五島・島原紀行(六)-キリシタン集落と教会-

 五島列島の福江島と中通島でたくさんの教会を眺めてきたのだが、それらの教会がどのようにして建てられたのかということについても、ここで簡単に触れておきたい。『旅する長崎学』の第6号に、五島の教会群の話が登場している。そこでは、五島列島の教会は「信仰の証」であることは勿論だが、それとともに「東西文化融合の象徴」であると書かれている。日本という東洋の地に、西洋からキリスト教という宗教がもたらされ、その象徴としての教会が日本人によって作られたのであるから、「東西文化融合の象徴」といってもおかしくはない。

 先にも触れたように、五島には大村藩の外海から多くの潜伏キリシタンが海を渡ってやってきた。明治になって禁教令が解かれ、潜伏する必要がなくなったキリシタンたちは、自分たちの信仰の証である教会の建設に踏み出した。迫害から解放され、教会を自由に建てることができるようになったのだから、余程嬉しかったに違いない。五島で数多く建てられた教会は、島の入り江や海に面した高台に建っており、集落の景観に融けこんで今でも美しい姿を見せている。どの教会にも、長い潜伏の時代のなかでも信仰の灯を守り通した、キリシタンとその子孫の思いが、込められているのであろう。

 後に詳しく触れるが、五島における信徒たちは貧しい暮らしを余儀なくされていたので、教会を建てることは並大抵にことではなかった。教会は信徒の汗の結晶とも言うべき存在であり、廻ってきた教会の前に佇むたびに、その苦労が偲ばれた。ところで、世界遺産として認定された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、12の遺産から構成されており、五島には4つの遺産が存在する。野崎島の集落跡、頭ヶ島(かしらがしま)の集落、久賀島の集落、そして奈留島の江上(えがみ)集落(江上天主堂とその周辺、がそれである。今回の調査旅行では、われわれは福江島と中通島にある教会群を眺めてきたが、そのなかで世界遺産の構成資産として認められているのは、頭ヶ島の集落である。

 勿論ここにもよく知られた頭ヶ島教会がある。石積のなかなか立派な教会である。ここを訪ねた際に、隣に小さなショップがあったので覗いてみた。そこに、新上五島町教育委員会文化財課が監修した『頭ヶ島に生きる』(NPO法人長崎巡礼センター、2020年)と題した、写真集でもありガイドブックでもあるような大判の本が置いてあった。なかなか見事な出来映えだったので購入しておいた。写真が素晴らしいと、解説まで立派に思えてしまいすぐに買いたくなる(笑)。この本には、堂ヶ島教会の建設に至る経緯も紹介されていたので、それにもとづいて話を進めてみる。

 堅牢だが美しく整った外観。頭ヶ島天主堂は、西日本で唯一ともいえる本格的な石造りの教会堂である。この重厚な石積みの天主堂が完成しえた理由は三つある。まず、頭ヶ島に材料となる良質な石(砂岩)があったこと、その石を採掘し加工するという成熟した石文化が周辺の友住と赤尾と江ノ浜にあったこと、そして建築家・鉄川輿助という巧者がいたこと。この三つが揃ってはじめて完成した奇跡の天主堂である。

 建てられた場所は、五島のキリシタンの指導者だったドミンゴ松次郎の屋敷跡だ。白浜でも谷の一番奥まった場所にあり、初代となる日本家屋風の教会堂は1887(明治20)年に出来上がっていた。1910(明治43)年になりようやく現在の頭ヶ島天主堂の建設が始まったが、頭ヶ島の経済状況は明治末期になっても改善せず、資金集めには大変な苦労があったようだ。信徒の中には資金をつくるために出稼ぎに出て、ふるさとに帰ることも、完成した天主堂を見ることもできなかった人がいたという。完成したのは1919(大正8)年。約10年という長い歳月がかかったのも、資金難による工事の中断が数度あったためと言われている。

 頭ヶ島教会はそんなふうに紹介されているのだが、それを知ると、この教会は設計を担当した鉄川與助と信徒の人々の合作であることがよく分かる。 信徒自らの手で石を切り出して積み上げたというのだから、私などは驚くばかりである。現在も信徒として生きる83歳の心優しい老婆は、「昔の人は今のように便利なものもなく、切り出した石ば運ぶとも、どがんして運んだんだとやろ。昔は伝馬船の小さい舟やったしなぁ。…涙んでてくる」と語る。そんな文章を読んでいると、こちらまでついつい涙腺が緩んでくる。

 頭ヶ島教会もそうだが、五島の他の教会にも内部には椿の装飾が施されており、地域の特色も見ることができる。カトリックではバラやユリが聖母マリアの象徴とされてるとのことだが、禁教期の日本にはバラはなかったので、ツバキが代用されたと伝えられている。ツバキの花びらは5弁だがそれを4弁にして十字架を模したらしい。キリスト教が認められるとともに、ツバキの図柄が教会の壁のステンドグラスなどにはっきり描かれるようになった。尖塔にツバキが描かれた教会もあった。そんな背景があったとはまったく知らなかった。

 私などは、そもそも五島が椿の産地であることすら知らなかった。椿と言われて思い出すのは大島のみである。地図をみていたら、福江にある空港の俗称は五島つばき空港となっていたし、そもそも我々の宿泊したホテルがつばきホテルだった。土産物屋には必ず椿油が置いてあった。所長のHさんは、我が家の家人に渡してくれと、椿油の小瓶を買ってくれた。何処にでもあるごく普通の樹木なので、私が住む団地でも春になると椿が咲く。来年からは、椿の花を見ると五島のことを思い出すのかもしれない。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/06/02

中通島にて(1)

 

中通島にて(2)

 

中通島にて(3)