咲く桜、そして散る桜

 私が住んでいる団地には、クラブ白桜会というシニア世代を中心としたサークルがある。ここに載せた文章は、そのクラブ白桜会の総会で紹介してもらうことにした挨拶文である。本来は、管理組合の理事長として総会に出席して挨拶せねばならないところであったが、それがかなわなくなったので、文面にしたというわけである。ここに投稿するにあたって、若干手を入れ、少し長めの「追記」を加えておいた。

 メゾン桜が丘と言うだけあって、今年もまた見事な桜が咲き誇り、そしてまたいつもの年と同じようにあっという間に散っていきました。澄み切った蒼空に浮かんだ団地の満開の桜を眺めながら、こんなに美しい桜をあと何回見ることができるのだろうなどと思い、いささか感傷的な気分にもなりました。さらに言えば、こうした悠々たる自然の営みを眺めていると、人生の「雑事」に何時までも惑わされている自分自身の愚かしさや卑小さを、あらためて振り返ったりもいたしました。

 桜の後に待っているのは、新緑と薫風の五月です。イギリスの古い諺に「三月の風と四月の雨が美しき五月をつくる」というものがありますが、それとの対比で言いますと、人生というものの風や雨(普通に表現すれば風雪ということか)に耐えてこそ、美しき老いを迎えることができるということなのかもしれません。今日の総会にご出席の皆様方も、きっと美しき老いを迎えられておられるのであろうと推察いたします。

 白桜会も20年になんなんとする歳月を経てきたわけですが、このメゾン桜が丘団地もできてから優に30年を超えましたから、随分と長い歳月が流れ去ったことになります。30代の後半に転居してきた私も、すでに古希を過ぎております。共同生活の場が快適であるためには、建物がしっかりしていることは勿論大事なことではありますが、それだけではなく、周囲が緑に溢れており、そしてまたそこに暮らす人々の関係が良好であることが求められます。とりわけ最後にあげた人間関係のありようが、これからますます重要になってくるのではないでしょうか。

 大事なことは、寛容や思いやりや落ち着きや支え合いの「精神」などを育むことであろうと思われますが、こうした「精神」を団地内に広げ定着させて行くにあたって、人生経験の豊かな白桜会の皆様方の役割は、今後ますます大きなものとなるはずです。皆様方が示しておられる美しい老いや充実した老い、健やかな老いが、後に続く世代にとっての人生の羅針盤となることを願ってやみません。

 最後に、本日総会にお集まりの皆様方の末永いご健康を願うとともに、趣味の世界が多方面に広がり、残された人生がさらに彩り豊かなものとなることを期待して、総会の開催にあたっての私のお祝いの言葉とさせていただきます。

(追記)

 文中に、「こんなに美しい桜をあと何回見ることができるのだろう」などと記したが、こうした感慨を抱いたのは退職後だからということもあるかもしれない。大事なことはすべてやり終え、周囲を「末期の眼」で見始めた所為であろう。同じ言葉を、先年亡くなった先輩の先生から昔聞いたことがあるが、私もまた同じような境地に近付いたというわけである。先日同世代の女性三人と花見に出掛ける機会があり(両手と片足に花か-笑)、そんな話をしたところ、歌手の竹内まりやの歌にも似たような科白があると教えてもらった。

 その辺りの事情に私はまったく疎いので(自ら意識的に身を遠ざけている節もある)、帰宅してからネットで調べてみた。「人生の扉」という曲だった。このタイトルからもわかるように、扉というものは開きそしてまた閉まるものである。桜が咲き、そして散ることと似ているかもしれない。私自身は、桜というものにあえて無関心を装っているが、周りの人々が桜に妙に関心が深くなるのは、桜が咲きほこりあっという間に散ることに、人生というものの凝縮した姿を見ているからなのだろう。

 「人生の扉」には英語の歌詞も含まれていた。眼に止まったのは、以下のような部分である。長い人生の旅路というものを感じさせているので、どこか少しばかり生きる力が沸いてくるような気配も漂っている。自分が90歳まで生きながらえるなどとはとても思えないが、60でもfineであり、70でもalrightであり、そしてまた80であってもstill good なのかと、一人微笑みながら思った。そんな柔らかな気分で生きる人生も、もしかしたら悪くはないのかもしれない。

 I say it’s fine to be 60
 You say it’s alright to be 70
 And they say still good to be 80
 But I’ll maybe live over 90