名画紹介③「東京物語」

 第3回目は、小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)を取り上げることにした。タイトルは、いろいろと考えた挙げ句「そうかい、みんなもう帰るかい」にした。母の葬儀に顔を出した3人の子供たちが、父と紀子を残してそそくさと去る場面に登場する。この科白を発して父親は一人酒を飲むのであるが、その姿には侘しさが色濃く漂っている。子供たちが悪い訳ではないのだろうし、父親もそのことを嘆く訳でもない。にもかかわらず、親と子の絆は切れかかるのである。映画はその一瞬を的確に捉えている。

 決め台詞の候補として他に考えたのは、「あの子ももっと優しい子でしたがのう」や「ああ、綺麗な夜明けじゃった」や「一人になると、急に日が長ごうなりますわい」などである。この映画は、ごくごく日常の風景を淡々と描いているので、決め台詞というものを意外にも見付けにくい。しかしながらよくよく考えてみると、「東京物語」で交わされる会話のすべてが、逆に決め台詞のようにも見えてくる。この辺りの面白さを実感してもらうためには、この映画を見てもらうしかない。

 何故そのように見えてくるのであろうか。あらゆる余分なものを削ぎ落とし、細部にまで拘ってまったく無駄のない簡潔な映画として作られているからではなかろうか。「神々は細部に宿る」という箴言があるが、それを地で行くような映画と言ってもいいのかもしれない。だから、この映画を見ていると、饒舌や能弁や長話が嫌いになり、沈黙や抑制や静謐が好きになるのである(笑)。その意味では、大人の映画と言うこともできるのではなかろうか。以下からが雑誌に掲載される本文となる。

 今回取り上げたのは小津安二郎監督の「東京物語」だが、これもまた、いまさらと言われかねないほどよく知られた作品である。前回黒澤明監督の「七人の侍」を取り上げた際に、文藝春秋編の『日本映画ベスト150』ではトップにランクされてることを紹介したが、そこで2位にあげられていたのがこの「東京物語」である。この映画も世界的に高い評価を受けており、世界の名画のベストワンに選ばれることさえある。

 また、小津安二郎や「東京物語」に関する書籍も数多く出版されており、今でもさまざまな人がこの映画について論じ続けている。名画の名画たるゆえんであろうか。小津安二郎は、日本人の日常世界を撮り続けたが、そうした視点から見ると、この映画は「日本映画が到達した最高峰」と言っても過言ではない。

 「七人の侍」は「動」の映画であったが、「東京物語」はその対極とも言うべき「静」の映画である。テーマは家族の崩壊ということになるのであろうが、家族内での葛藤や苦悩や軋轢が生のままに描かれることはないし、特段の事件が起こるわけでもない。年老いた両親が子供たちに会いに尾道から上京し、旅を終えて帰宅した直後に、母親が亡くなるといった話に過ぎない。

 変わらぬものの新しさ

 この映画において大事なのは、交わされる会話や普段着の所作である。それを演ずる俳優陣も素晴らしい。どこにでもありそうな話に過ぎないのに、何故私たちは見るたびに心を動かされるのであろうか。老夫婦の姿に自分の両親を見ていたり、子供たちや嫁の姿に今の自分を投影しているからなのかもしれない。言い換えれば、自分たちが失ってきたものが何であったのか、これから失おうとしているものが何であるのかを、知らされるからなのではあるまいか。

 静謐な佇まいのなかに、人生というものの本質を描いてみせたのがこの映画であり、だからこそ、いつまでも色褪せないのであろう。変わらぬものこそ新しいのであり、上質の芸術作品とはそうしたものを言うのではなかろうか。小津安二郎は、「何でもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」と言ったらしい。慧眼ここに極まれりと評すべき名言である。

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