仲春の加賀・越前・若狭紀行(四)-北前船と大阪-

 北前船の航跡を辿る旅も今回が最後ということなので、少しばかり概括的な話も書き留めておきたくなった。北前船の出発地は大阪でありまた終着地も大阪なので、北前船と大阪の関係についても、当然ながら知りたくなる。今回の調査旅行の最後の訪問地は、大阪の住吉大社であった。この住吉大社が、海運業や各種の問屋組合をはじめ多くの人々から、海上安全や渡航安全の守護神として信仰を集めてきたことはよく知られている。

 北前船は、そうしたことからも住吉大社との関係が深いのであるが、より重要なことは、北前船が当時「天下の台所」と称された商都大阪の経済の発展を、裏から支えていたことだろう。大きな影響を与えたのは、運ばれてきた鰊の〆粕であり、運び出された綿と木綿であった。大阪と北前船の繋がりが重要となる所以である。

 そうしたことが明らかとなる手頃な資料を探していたところ、大阪市立博物館によって作成された『北前船と大阪』(1983年)と題した特別展のカタログを入手することができた。なかなか良くできた冊子である。だが、そこに掲載されている文章を誰が執筆したのかは、残念ながら記されていない。

 この冊子には、北前船の経営の全体像が分かり易く紹介されていたので、それを元にしながら話を進めてみよう。北前船の経営の特徴は、大阪と江戸を結んでいた菱垣廻船や樽廻船と呼ばれた船が運賃積であったのに対して、買積の形態がとられたところにある。つまり、安く買い集めた商品を需要の多い土地に運んで高く売り、その価格差を利用して収益を上げていたわけである。よく知られた話である。

 北前船の航海は、明治に入って洋帆船が用いられるまでは、北海道と大阪の間を一年間に一往復するものが多かった。春に大阪を出発して、瀬戸内海、日本海と廻って蝦夷地に向かい、晩秋から初冬にかけて大阪に帰ってきた。大阪から蝦夷地への往路の航海を「下り」と言い、蝦夷から大阪への復路を「上り」(先の牧野は、「上り」ではなく「登り」と書いている)と言う。

 下り荷は、主に米・塩・砂糖・素麺(そうめん)・酒などの食料品、木綿・古着・足袋(たび)などの衣料品、畳表・蝋燭(ろうそく)・紙・茶碗などの日用品であった。もっとも、これらのすべてを大阪で買い揃えたわけではない。瀬戸内海や日本海沿岸の寄港地で、積荷を売り捌きながら買い集めていったのである。

 これに対して上り荷は、練(にしん)・練の〆粕(しめかす)・魚油・鮭・鱒・昆布など蝦夷地の海産物が中心であった。鰊の〆粕というのは、鎌で十分に煮た鰊を圧搾し、残った搾り粕を乾燥して作った魚肥のことである。また一口に鰊と言っても、丸干練・披(ひらき)練・身欠(みがき)練・胴練・笹目(エラを乾燥させて作った肥料のこと)・数の子等さまざまである。

 これらの上り荷は、大阪や兵庫の問屋に買取られて売り捌かれた。〆粕などの魚肥の需要は、西日本における米や綿・藍・菜種などの作物の生産が拡大したために、飛躍的に増大していったからである。もともとは鰯(いわし)の〆粕が使われていたとのことだが、それでは間に合わなくなったために、鰊粕が登場することになったのである。

 北前船では、個々の取り引きごとに決算書とでも言うべき「仕切書」(しきりしょ)が作られた。一度の航海による収益は、下り荷と上り荷の商いによる利益、すなわち売仕切総額から買仕切総額を差し引いた残高から、さらに船中での雑費を差し引くと出る。その雑費とは、船頭や水主(かこ)の賃金、食事代、航海用具代、船の修理費などからなる。

 上りと下りでは前者での利益の方が圧倒的に大きく、後者の数倍から十数倍となるのが普通であったようだ。北前船の収益は、一航海でおおよそ1,000両にも上ったとよく言われる。初年度の収益で造船費を償却し、次年度の収益で積荷の資金を確保し、3年目からは収益のほとんどを船主が手にしたようである。

 もちろん、嵐に遭って船が沈没したりすれば、船乗りたちの命も船も荷物もすべて失うことになるので、そうなれば船主は大打撃を受け破産することにもなる。北前船によってもたらされた莫大な収益は、「板子一枚下は地獄」とよく言われるような大きな危険と引き替えにもたらされたものであり、その意味ではかなり投機的な要素が強かったのである。歴史の波間に消えていった船主もけっこういたことだろう。

 買積船である北前船の場合、船主は荷主でもある。北前船の航行に当たって、最高責任者となるのが船頭であることは言うまでもない。この船頭には、船主が直接船頭となる直乗(じきのり)船頭と、船頭を雇う雇(やとい)船頭があった。船主の経営規模が小さければ直乗となったであろうし、大きくなれば船頭を雇ったであろう。

 いずれにしても、利益がどれだけのものとなるのかは船頭の腕次第であったので、船頭はたんなる船の運航の責任者ではなかった。商人としての才覚が必要とされたのである。このあたりが、今で言うところの「企業家(あるいは起業家)精神」の発露として注目されているのであろう。

 雇船頭の場合、いわゆる固定給部分は僅かだったようだが、船主は船頭の労働意欲を引き出すために、全積載量の1割ほどではあったが、船頭個人の荷物を積むことを許した。その収益はすべて船頭のものとなり、これは「帆待ち」と呼ばれた。

 彼らに商才があれば、船主を儲けさせるだけではなく自分自身の蓄財も可能となり、それを元手に船頭から船主に転ずることも可能だったのである。運賃積みの船ではありえないことであった。「一攫千金」がたんなる夢物語ではなかったということなのだろう。船頭から船主に成り上がることができたのも、買積み船であった北前船の特徴である。

 また船頭以外の乗組員には、固定給の他に「切出し」(きりだし)と呼ばれた歩合給があった。「切出し」は、船主の荷を無事に目的地まで運んだ際に契約した割合で与えられたので、一般の船員の水主(かこ)も、積荷をできるだけ多くそして確実に目的地に運ぼうとしたのである。
 
 船主は、「帆待ち」と「切出し」という二つの歩合給を用いて、船頭と主水の労働意欲を引き出すとともに、お互いを監視させてもいたのである。しかしながら、狭い船中ではさまざまなトラブルもうまれたようだ。そのため、水主の心得などを定めた文書や、積荷に応じての切出し率を定めた規約書が作られたりした。

 おおよそ以上のような経営方式で北前船は航行し、商都大阪と瀬戸内、日本海沿岸の各地、それに蝦夷地を結び付けていたのである。大阪は商都であったが故に北前船を惹き付けたわけだが、その北前船が大阪を更なる商都へと引き上げていったようにも見える。いずれにしても、北前船の時代の大阪は、「企業家精神」に溢れた人々の溜まり場となっていたのであろう。