仲春の加賀・越前・若狭紀行(五)-北前船と江差-

 前回は、北前船の出発地でもあり終着地でもあった大阪との関係に触れたので、北前船の最終目的地であった蝦夷地の様子についても、ここでついでに触れておきたくなった。たまたま、今年95歳になるという松村隆の『江差花街風土記ー北前船文化の残影ー』(文芸社、2021年)を読んだことも、そんな気にさせた一因だったかもしれない。なかなか面白い著作だったので、以下の叙述でも活用させてもらっている。

 北前船と関係が深いのは、鰊漁で賑わった北海道の西海岸である。かつて北海道の日本海沿岸には、春になると鰊が産卵のために、大群となって押し寄せてきた。日本近海に分布する太平洋鰊は、春先にだけ群れをなして接岸し、浅瀬の海藻に産卵するのである。

 メスが卵を産み、オスが一斉に放精する。そのありさまは、海が乳白色に染まるほどだったという。そんな話を、私も昔何処かで聞いたか読んだかしたことがある。魚のこととはいえ、妙になまめかしく感じたものである(笑)。「群来」(「くき」と読む)と呼ばれたこの春鰊の来遊を待ち、その大群を目掛けて刺し網を投げ入れるのである。

 江差は、前面に位置する鷗島(かもめじま)が自然の防波堤となり、水深もあったので、天然の良港だった。前からよく知られた港だったが、北前船の時代には、対馬海流の延長上にある地理的有利さも加わって、さらに港の価値が高まった。松前や箱館のように津軽海峡を横切る危険性がなかったからである。

 その後、江差以北の漁場開拓が進むにつれて、新たに出漁基地としての賑わいも加わることになった。当時の松前藩は、松前、箱館、江差以外での交易を禁じていたので、北海道の奥地の産物は、すべて江差に集荷されることになった。北前船が小樽まで北上するのは1870(明治3)年になってからのことで、それまでは江差が北前船の終点だったのである。

 江戸時代から昭和の初期にかけて、群がる鰊を目当てにした漁で、北海道の西海岸の漁場は大いに賑わった。毎年、春の漁期が近付くと、東北地方や北海道各地から「ヤン衆」と呼ばれた出稼ぎ漁師たちが、漁場に続々と集まってきたからである。当時「江差の浜には小判の波がよせてくる」とまで噂されたらしい。

 彼らは宿舎を兼ねた網元の大邸宅である「鰊御殿」に集結し、船頭のもとで鰊の「群来」を待ち続けるのである。やがて海が乳白色に染まったという「群来」の一報が入るや、一斉に船を漕ぎ出し、休む間もなく刺し網(後には建て網による漁法に変わった)で鰊を獲り続けたのである。

 春とはいえ、海上での作業は寒さに苛まれたはずである。単調で辛い肉体労働を長い時間こなすには、大勢で掛け声を唱和する必要があったのであろう。そこに生まれたのが 「鰊場作業唄」のなかの沖揚げ音頭であるソーラン節である。漁師たちの威勢のいい労働歌ではあるのだが、今では何処かに哀感さえも感じられる。もはや挽歌となってしまったからである。

 そうした感覚に囚われるのは、「北」が醸し出している通俗的な観念に、福島育ちのこちらがどっぷりと浸かっている所為もあるかもしれない(笑)。「北国の春」(千昌夫)、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)、「熱き心に」(小林旭)、「風雪流れ旅」(北島三郎)などに、いつの間にやら心惹かれてしまうのである。しかしそうは言っても、「北酒場」や「函館の女」や「北の旅人」や「北の宿から」には何の関心もないのではあるが…。

 ソーラン節を聴くと、小僧たちが保育園や小学校の運動会でやけに真剣に踊っていた姿を思い出す。貼り付けておいた伊藤多喜雄のソーラン節もそうだ。力強い唄と踊りが何とも魅力的である。そしてともに懐かしい。しかしながら、歌詞はやはり昔ながらのものの方がいい。労働歌の名残が感じられるからである。その歌詞もさまざまあるようだが、代表的なもののうちから主要部分だけ紹介しておく。

  鰊来たかと 鴎に問えば
  わたしゃ立つ鳥 波に聞け

  今宵ひと夜は どんすの枕
  あすは出船の 波枕

  男度胸なら 五尺の身体
  どんと乗り出せ 波の上

  沖の鴎が 物言うならば
  便り聞いたり 聞かせたり

  沖の鴎の 啼く声きけば
  船乗り稼業は やめられぬ

 獲られた鰊は浜に揚げられ、一部を食用としての干物である「身欠き鰊」等に加工する以外は、すべて大釜で煮て魚油を搾り出した。この搾りかすを鰊粕に加工したのである。これは当時第一級の肥料であった。その生産が本格化するのは、建て網の普及によって鰊の大量捕獲が始まった江戸末期から明治初期以降のことだという。

 浜での作業には女たちも従事したが、単調でつらい作業なので、なかには浜でのヤン衆相手の筵(むしろ)張りの花街に流れていく者もいた。鰊漁で稼いだヤン衆たちを相手にしたので、儲かったからである。一連の漁期が一段落した5月の江差は、鰊製品の売買や、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師たちの喧騒で「江差の春は江戸にもない」といわれるほどの賑わいに包まれたという。

 狭い浜は男と女でごったがえしていたのであろう。この時期には、鰊場の景気を目当てに座頭や瞽女(ごぜ)などの旅芸人も渡ってきて、太鼓や三味線が夜通し鳴り響いたという。現在の江差町は、江差追分の発祥の地として知られるものの、人口7,000人ほどの静かな町である。今ではもはや想像すらできない光景が、当時は見られたのであろう。

 しかしながら、これほどの賑わいも鰊漁が終われば消えていく。ヤン衆も花街の女たちも故郷に去り、七月に北前船が出港した後は、浜小屋も取り壊されて浜からは灯が消えていった。「江差の春」は、江戸とは違って春のみであったということなのだろう。その後、鰊の「群来」も見られなくなって、「江差の春」もまた遠い過去の昔話となり、北前船によって運ばれてきた江差追分のみが残った。

 江差追分会館の館長も務めたことのある先の松村隆には、『たば風に唄うー江差追分・青坂満ー』(北海道新聞社、2006年)という著作もある。「たば風」とは、江差で1月から2月の厳寒の時期に北西から吹く強い季節風のことを言う。

 江差追分の第一人者である青坂満の唄声は、この「たば風」をものともせずに、あるいはこの「たば風」に乗って悠々と北の空を流れていくかのようである。彼のような悠揚迫らぬ唄いぶりによって、江差追分はこれからも多くの人々を魅了し続けていくことだろう。その青坂も昨年亡くなった。

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