仲春の加賀・越前・若狭紀行(三)-「北前船の里資料館」にて(続)-

 現在は資料館となっているこの建物は、もともとは橋立の北前船主の一人であった酒谷長兵衛(さかや・ちょうべえ)が1876(明治9)年に建てた家屋である。この酒谷家は、6隻の船を所有して富を築いた。敷地面積は約1,000坪、「オエ」と呼ばれる30畳の大広間には、8寸(約24cm)角の欅(けやき)の柱、巨大な松の梁(はり)、秋田杉の一枚板の大戸(おおと)など、最高級の建材が使われている。

 この建物からも、当時の船主の豪勢な暮らしぶりを窺い知ることができる。ホームページにも紹介されていたそんなことを、ガイドの方が実物を前に熱心に説明してくれた。だが、酒谷家はそれでも橋立の中では中の上のクラスだったようで、さらなる富豪もいたらしい。

 橋立の近くには、瀬越(せごえ)や塩谷という村もあって、ここにも北前船の大船主が住んでいた。よく知られているのは、瀬越では広海(ひろうみ)家や大家(おおいえ)家であり、塩谷では西野家である。「広海」や「大家」などと名乗っているところは、いかにも北前船の船主らしい(笑)。しかしながら、今はすっかり没落して子孫も村を離れてしまい、板塀で囲われた屋敷跡以外には何も残っていないとのことだった。

 ここのガイドの方もなかなかサービス精神が旺盛な方のようで、時折駄洒落を口にしていた。もしかしたら、同行の所長を意識していたのかもしれない(笑)。事務局長にそんなことを呟いたら、「多くの訪問客を相手にしているからでしょうね」とのことだった。同じ話をしているうちに、あれこれと工夫を凝らしたくなり、その工夫があらぬ方向に転じているということなのかもしれない(笑)。

 せっかくだから、ガイドの方の話の中で印象深かったものを一つだけ紹介しておく。荒海で船が難破し、「海に放り出された時に助かる可能性の高い人はどんな人だと思いますか」との問いに対する答えである。それは、「信仰心の篤い人、音楽が好きな人、そして笑う人」だとのことだった。もしかしたら、笑いは大事だと言いたかったのであろうか(笑)。

 各地の神社には夥しい数の船絵馬が奉納されている。海の恐ろしさを知り尽くした勇敢な船乗りたちであっても、嵐に遭えば最後は神仏の加護に頼るしかなかった。絶えず大きな危険に身を曝している彼らなので、人一倍信心深くなって当然であったろう。資料館には立派な仏壇もあった。残された家族も、その前で航海の無事を祈ったに違いない。もちろん、仏壇は船の中にもあった。

 そんな思いを抱いて、資料館にあった船絵馬や仏壇を眺めたのは、今回が初めてである。いつもは、特段何も考えずにただぼんやりと眺めていただけだったからである。よく言われる「北前魂」とやらによって、膨大な富が蓄積されたのではあるが、その裏に潜む何とも人間臭い哀歓のようなものが浮かび上がってきた。

 資料館で手にした橋立の散策マップによると、ここ橋立は次のように紹介されていた。「ひなびた町並みにしっくりと溶け合う柔らかな赤瓦の屋根、橋立の船主邸は武家屋敷のような派手さはありませんが、いかにも骨太な海の男の美意識が結集したような家構え、外観は日本海から吹き付ける潮風からしっかりと家を守る如く船板でおおわれています。命をかけて北の荒波に乗り出し、その才覚によって巨万の富を築いた北前魂が静かに休息する町並みは優しさに満ちています」。なかなか味わいのあるいい文章である。

 この散策マップによれば、船主の館の外観にもいくつかの特徴が見られる。まずは石垣。「敷地の高低差をなくすため、盛り土して石垣で囲んでいます。低いものから高いものまで様々ですが、共通しているのは石。濡れると青さを増す福井県産の笏谷石(しゃくだにいし)を使って」いるとのこと。

 ここに登場する笏谷石について一言触れておくと、この石は奥羽や蝦夷地へ向かう下り船に、必ずと言っていいほど積まれたという。空荷の船だと船の安定が悪くなるので、バラスト(重し)代わりに船底に積み込まれたのである。北前船で大量に運ばれたので、各地で墓石や灯籠、敷石、建物の土台石などとして使われた。

 笏谷石は、別名越前青石と呼ばれていることからも分かるように、産地は福井市の足羽山に限定されている。そのため、この石が見つかれば、他に文献や資料などがなくても、北前船が寄港した港だと考えていいのだという。このように北前船と関係の深い笏谷石だが、現在はもう採掘されていない。

 ついで板塀。「家や蔵、屋敷の塀垣に縦板が張られています。これは、北前船を保護するため、船に張っていた板を再利用したもの。古いものには、虫食いの跡が見られ」るとのこと。そして赤瓦。「鉄分を含んだ赤茶色が特徴。当時はまだ茅葺きがほとんどで、瓦屋根は富の象徴でした。棟瓦の代りに笏谷石を乗せた家も」あったとのこと。

 こんなふうに書かれていたので、私としては「北前魂が静かに休息する町並み」を、できうればそぞろ歩きしながら眺めてみたかった。何処を訪ねてもそんな気分になるのだが、きっとそうした旅の形が好きだからであろう。ここは、2005年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されてもいる。

 資料館を囲っている石垣や板塀は目にすることができたが、時間の関係でのんびりと散策するわけにはいかなかった。いささか後ろ髪を引かれるような思いで「北前船の里資料館」を後にすることになったのだが、それもまた旅情を生み出すことになるので、悪くはないのかもしれない。

 橋立は人通りの少ない静かな町である。一人の観光客に過ぎない私が失礼を承知で書けば、寂れた侘しい町のようにさえ感じられた。もちろん見下して言っているのではない。私はもともとそうした場所が好きだからである。加賀の橋立や瀬越は、昔は「日本一の富豪村」とまで言われたこともあったようだが(この話は、橋立を語る際によく引き合いに出される)、そんな話はもはや夢幻の如きものであろう。

 私のような年寄りは、その落差にこそ歴史の味わいを感ずるのである。先の牧野は、解説書のあとがきで「筆者の望む所は、本書及び展示物をとおして、船乗り達のたくましいバイタリティと、給与や経営に見る船主の創意と企業精神を読みとり、現代に生きる北前魂を振起することである」と書いている。そう書きたくなる気持もわからないではない。

 北前船の歴史を掘り起こし往時を顕彰しようとする人々の多くは、懐古を越えてその今日的な意味を探ろうとするあまり、牧野と似たようなことを書いたり言ったりすることになる。だが、歴史の面影を辿ろうとしている今の私は、牧野の言をあえて否定もしないが、かといって素直に肯定する気にもなれない。そんな宙づり状態のなかにいる。北前魂は、「静かに休息する」だけでもいいのではあるまいか。