さまざまな旅の形

 以下の文章は、「瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮鞆の浦、尾道、松山-」と題して綴ったエッセー(『専修大学人文科学研究所月報』第294号所収)のプロローグの部分のみを取り出して、あれこれと加筆したり修正したものである。この一年の旅を振り返りながら、自分の「眼のつけどころ」のようなものを点描しているのであるが、そんなことに関心を払っているのは、古希を迎えて自らの来し方、現在、そして行く末をあらためて再確認したいと思っているからなのであろう。死を前にしたゴーギャンの大作のタイトルをもじって言えば、「私はどこから来たのか、私は何者か、私はどこに行くのか」とでもなるのだろうか。

 昨年は、教員生活に区切りを付ける年だという思いが強くあった所為なのか、「晴耕雨読」ならぬ「晴遊雨読」を常としているいつもの自分には珍しく、一年を通してあちこちに出かけた年だった。出かければ、何かしらは目に入るし、何かしらは感じるし、そしてまた何かしらは考えることになる。旅に出かけることの意味は、もしかしたらそんなところにもあるのかもしれない。

 まず春浅い3月の初旬に、高松地区労からの講演依頼を受けて高松に出かけた。いつもなら面倒に思って辞退するところだが、労働組合からの依頼で講演に出かけたりするのも恐らく今回が最後だろうと思い、意を決して出向いてみたのである。空港では、「つるつるのうどん」などと書かれた看板に出迎えられ、禿頭の私は一人苦笑してしまった。苦笑と言うよりも、微苦笑すなわちニヤリとしたと言った方がいいのかもしれないが…。その苦笑に絡めて触れておけば、宿泊先のホテルの近くにあった中央公園には、高松出身の菊池寛の巨大な銅像が建っており、政治家でもあるまいにと思って、こちらにも苦笑した。地元の偉人だということで建てられているのであろうが、作家に銅像などまるでそぐわない。

 講演を終えた翌日には、フェリーに乗って小豆島まで足を伸ばし、「二十四の瞳映画村」にある壺井栄文学館にも寄ってみた。立ち寄って初めて知ったのであるが、私の知る二人の人物も、栄と同じ小豆島の出身だった。一人は、後に栄の夫となる詩人の壺井繁治であり、もう一人は、「橇(そり)」や「渦巻ける烏の群れ」、「武装せる市街」などで知られ、プロレタリア文学、反戦文学に大きな足跡を残した作家の黒島伝治である。そこで手に入れた栄の年譜によれば、1936年に夫の繁治は転向後の失意の中で、栄とも親しい中野鈴子(中野重治の妹で詩人)と不倫関係に陥り、栄は大きなショックを受けたとあった。ここに来て初めて知った出来事だった。

 同じ3月には社会科学研究所の一行に加えてもらって、日韓の広域経済圏と歴史を巡る調査旅行に出かけ、釜山から玄界灘を渡って対馬と太宰府を回ってきた。経済学部では長年「労働経済論」を担当してきたにも拘わらず、私が興味を抱いていたのは、「広域経済圏」ではなくて「歴史」の方ではあったのだが…。この調査旅行に関しては、社会科学研究所の『月報』(649・650合併号)に少し長めのエッセーを書かせてもらった。誰に遠慮することもなく、書きたいことを書きたいときに書きたいだけ書くというのが、定年後の愉しみなのだが、その予行演習のようなエッセーとなった。そして、もともと海外旅行にそれほどの興味はないので(正確に言えば、出かけてみても何かを書けるような気がしない海外旅行には、それほど興味が湧かないので)、これが最後の海外旅行になりそうな気配もあった。

 定年後は研究活動に終止符を打つことにしていたので、学会に参加するのもこれが最後だと思い、夏も近い6月には諏訪の東京理科大で開かれた労務理論学会に顔を出した。実に久し振りの学会である。書評分科会では、若い研究者の新著の誤りを舐めるように探し回っただけのYの報告を聞いて、かなりうんざりした。嫌みな物言いに何だか嬉々としているようなのである。人間のレベルが余りにも低すぎるのではあるまいか。箸にも棒にもかからぬ私のような人間が言えた義理ではないが、似たような人物は、どこの世界にもいるものである(笑)。そんな陰鬱な気分を吹き飛ばすべく、翌日は知り合いの女性の案内で、霧ヶ峰高原あたりを散策して愉しい時間を過ごした。

 さらに、杖突峠の先にある日本料理の店「連」にまで出向いてみた。近くまで来るような機会がないと、顔を出せないであろうと思ったからである。この店は,2017年の2月に亡くなった多辺田政弘さんの娘さん夫婦と奥さんがやっている。普段口にしないような立派な料理を堪能させてもらった。多辺田さんとの思い出話に花が咲いた所為なのか、俳句とおしゃべりそれに女人が大好きだった彼を偲んで、「「連」出でて声ばかり聞く春の蝉」などといった句を詠んでみた。俳号を青魚(青魚の由来は、鯖(さば)を読むにかけたのだと彼は言っていたが)と称し、天衣無縫な句をたくさん詠んだ多辺田さんには笑われそうな気もしたのだが…。私が好きな彼の句は、「そう言えば春になくしたものばかり」であるが、まるでこの句のように、まだ肌寒い早春の日に彼は一人旅立ってしまった。

 夏も盛りの7月末から8月にかけては、毎年恒例となった観のある、故郷福島の復興支援を兼ねた温泉旅行に出かけた。今年は、高校時代の友人たちと磐城にある塩屋埼に2泊し、そこを足場にして浪江にまで足を伸ばしてみた。塩屋崎の灯台は、映画「喜びも悲しみも幾年月」(監督木下恵介、1957年)の舞台となったことで知られている。崖の上の灯台は、すっきりとした美しい姿で建っていた。昨今は映画の話はすっかり忘れられて、美空ひばりの「みだれ髪」に「憎や 恋しや 塩屋の岬」」と歌われたことばかりが「売り」になっているようで、いささか興ざめな気もしないではなかったが…。そう言えば、人影も絶えた浪江駅前には、「桑港のチャイナタウン」や「アルプスの牧場」、「高原の駅よさようなら」等のヒット曲の作曲家で知られる佐々木俊一の碑が、ひっそりと建っていた。

 大震災から6年も経っていたので、浜通りの幹線道路だけは通れるようになっており、浪江の駅にも電車が日に数本通うようになってはいたが、それ以外の場所は依然として立ち入り禁止区域である。放射能汚染の不安に怯えて住民もほとんど戻っていないので、浪江の駅周辺の建物は3.11当時のままに放置してあり、無残としか言いようの無い無気味な姿を曝け出していた。三陸とはまた違った悲しみの光景である。中筋純の写真集『かさぶた』(東邦出版、2016年)を開くと、東京オリンピック開催の「出し」にされ、そしていつの間にやら用済みとなって、隠蔽され忘却されようとしている放射能汚染地域の惨状が、余すところなく写し撮られている。

 そんなところに足を踏み入れた所為なのか、帰路に立ち寄った「草野心平記念文学館」では、文化勲章まで受賞した心平よりも、彼の弟で夭折した天平の方に興味がわいた。文学館の片隅に建てられていた天平の詩碑「一人」には、「見ても誰もゐない/本を伏せる/家を出て山を見れば/山はやはり山」とあり、詩碑の先には磐城平のなだらかな山並みが見晴るかされた。心平の戦中の詩「われら断じて戦ふ」などについてもあれこれ知りたかったが、文学館にはそうした資料は何一つ展示されていなかった。地元の偉人の「恥部」には触れたくないということなのであろうか。今更偉そうに高踏的な批判を加えたいわけではない。心平は本当のところ何を思っていたのか、そして何を反省したのかを知りたかっただけなのだが…。

 磐城から福島に戻ったその足で、件の友人たちとともに、高校時代の恩師である佐藤幸一郎先生の墓参りもした。水戸から来た先生の子息夫妻が、先生の墓に案内してくれた。私はその時初めて、先生がクリスチャンであったことを知った。うかつと言えばうかつであるが、今思うに、私の興味はもともとそうしたところにはなかった所為なのかもしれない。先生は1960年代の中頃に冊子『麦』を自力で発行されていたが、もしかしたらこの『麦』という名称は、聖書にある「一粒の麦」(一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの実を結ぶべし)に由来するのかもしれないなどと勝手に思ったりもした。墓は福島市郊外の小高い丘にあり、そこからは懐かしい山並みが遠望された。天平の詩にあったように、「山はやはり山」のままなのであった。

 さらに初秋の9月には、社研のグループ研究の仕事で大分大学に出かけ、藤本武文庫の収蔵状況を確認かたがた別府に2泊してきた。温泉に泊まれる出張などそうあるものではない。嬉しい限りである(笑)。私は大学卒業後縁あって(財)労働科学研究所に就職し、そこで15年ほど働いてから専修大学に転職した。労研には三つの研究部門があったが、そのうちの一つが社会科学研究部であり、藤本さんは当時研究部長であった。そんなわけで、私にとって藤本さんは直属の上司ということになる。

 大分大学に収蔵された邦文中心の文庫には、歴史的な価値のある文献は多くはないようにも思われたが、それでも私にとっては昔懐かしい書籍や調査報告書がたくさんあった。そんなものを手に取って眺めていると、まだ若かった頃の自分の姿が蘇り、ときどき仕事の手が止まった。昔に返った気分に浸ったわけである。同行した兵頭淳史さんと恒木健太郎さんの尽きることのない談論風発ぶりを、別府の居酒屋で眺めるともなく眺め、聞くともなく聞いていたら、彼らの話に参加したくなり、何やら少しばかり若返ったような気にもなった。若い人と付き合う効用なのかもしれない。もっとも、それが錯覚に過ぎないことは言うまでもなかったのだが…(笑)。

 秋も深まった翌10月には、これまた最後の学会になるということで、日本労働社会学会が開かれた富山大学まで出かけた。新幹線に乗れば楽なのはわかっていたが、帰路に母の生まれ育った出雲崎にも寄ってみたかったので、延々7時間もかかる道程をクルマで出かけた。富山から出雲崎に電車で行くには、4本も乗り換えなければならず、待ち時間も相当ありそうだったので、敢えてクルマにしたのである。年寄りの冷や水にも似た所業のような気もしたが、特段急ぐ必要も無い気儘な一人旅だったので、思ったほど苦にはならなかった。富山では昔懐かしい人に会うこともでき(もしかしたら、それが本当の目的だったような気もしないではないのだが…)、あれこれとお喋りもできて何時になく気持ちが和らいだ。思い出話などができればもっとよかったのであろうが、こちらにそんなことを望む資格があるはずもない。

 学会終了後に向かった出雲崎では、少しゆったりしようと思って2泊した。あれこれの面白い出来事にも遭遇し、何とか母の実家の跡に辿り着くことができた。今でも隣に住んでいる住人からは、「もう何もないよ」と告げられた。以前叔父に連れられて一度ここに来たことがあり、何もないことは既にわかっていたので、何かがあることを期待して行った訳では勿論ない。先祖は寺泊の出身で、その後出雲崎の尼瀬で北前船の廻船問屋「泊屋」を営んで財をなし、それを元手に西越村で地主となった。当時は「敬徳書院」の扁額を掲げた大きな屋敷だったようだが、今では廃屋どころかその痕跡すらなくなっていた。まさに芭蕉が詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」の世界である。草藪に覆われ尽くした母の実家の跡を眺めながら、遙か遠くに過ぎ去ってしまった母の人生を思った。

 出雲崎では、妻入り(建物の妻側に入り口を設ける建築様式のこと)の町並みを徘徊し、曾祖父の妾宅があった跡地を眺め、良寛記念堂や道の駅にある天領の里などを訪ねた。良寛の書では「天上大風」が最もよく知られており、私も細く伸びやかな線で書かれたその書を気に入っていたので、色紙などを購入した。何だが「裸木」のイメージに似ているようにも思われた。さらには、資料編も含めて全10冊からなる『出雲崎町史』を、ひょんなことから破格の値段で安く手に入れることができたので、わざわざクルマで出かけた甲斐があったと言うものである。夜散歩にでも出ようかと思ったら、宿屋のおかみさんから、「外に出ても何もないですよ」と言われた。確かに何もないし誰もいない。日本海の冥い海が拡がっているだけだった。

 そして最後の締め括りとなったのが、年の瀬に出かけた瀬戸内周遊の旅である。その詳しい中身については、来年夏に刊行予定のシリーズ『裸木』第3号に掲載する予定なので、そちらに譲ることにしたい。

 こんなふうに旅のあれこれを書き連ねてきたのは、現在の私にとって、旅とは一体何なのかを自問自答してみたかったからなのかもしれない。還暦を過ぎたあたりからは特にそんな気配が濃厚になっているが、旅に出かけては「懐かしい聲」や「遠ざかる跫音」を聞き、「ささやかな記憶」を辿ろうとしているかのようである。吉行淳之介に「街角の煙草屋までの旅」と題したエッセーがあり、それがそのままエッセー集(講談社、1979年)のタイトルともなっているのだが、そこには、「以前から、自分の住んでいる都会の中を動くことを、私は旅と受け止めているところがあるようだ。事実、外国を旅行しても、住んでいる都会を動いているときも、眼のつけどころは同じような場合が多い」とある。

 私などは、吉行さんのように、旅行しても「観光ということを一切しない」などと断言できるほど、徹底した美意識と自意識を持つ人間ではないので、出かけた先々で物珍しげにあれこれと世俗的な観光もする。どこかで俗を嫌いながらも、その本人はまったくの俗人に過ぎないのであるから、当然と言えば当然のことではあるのだが…(笑)。しかしながら、興味を引いた場所以外のところでは、ほとんどの場合ただぼんやりと静かに眺めているだけである。

 そうだとすると、年老いた私の場合なども、「眼のつけどころ」はどこに出かけてももはや変わりようはないのかもしれない。もしもこの先「裸木」のように生きたいのであれば、「眼のつけどころ」を気儘に深めていくしか術はなかろう。

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