初めてのブログ

ブログなる言葉を聞いたことはあったが、何のことか今ひとつわからないまま暮らしていたような、何とも「時代遅れ」の私である。そんな人間が、突然「店主のつぶやき」と題したブログを始めることになった。勝手につぶやくのは「天主」でも「天使」でも「天子」でもない、「店主」である(笑)。間違いのないように願いたい。

『現代用語の基礎知識』によると、ブログとは、日記感覚で日々更新していくような形式のホームページで、ウェブログの略だとある。「日々更新」とは何とも恐れ入谷の鬼子母神である。「日々更新」しなければならないような出来事に溢れていて、しかも「日々更新」し続けるような人がいるらしいことに、驚きを禁じ得ない(こうした物言いには、いささか皮肉が混じっているはずである-笑)。もしかすると、現代は自己表現や自己実現や自己承認の欲求が途方もなく膨らんだ時代なのかもしれない。それはもはや「社会の病い」とでも言うべきものであり、かく言う私もまた、たとえ今のところは軽かったとしても(しかしながら、この先重症になる可能性は大いにある)そうした患者の一人であるに違いなかろう。

私のこの場所の使い方は、まったくもってレトロである。ここでは自分の文章を好き勝手にのんびりと紡ごうとしているに過ぎないからである。日記感覚などで書いてはいないし、書けもしないし、書く気もない。前回の投稿である「金足農業高校の校歌の作詞者について」なども、何度も編集と更新を繰り返して、少しは読める文章に仕上げていったのである。しかしながら、書いたものをこうした形で公表すると、やはりどこかしらに読んでくれる人はいるようで、誤りを指摘してもらったりもした。このあたりはブログの良さなのかもしれない。一度投稿してしまった文章でさえも、何度でも自分が納得するまで書き直せるというのが凄いし、嬉しいし、楽しい。

編集と更新を繰り返したということで言えば、ホームページ内の文章についても同じである。あれこれの著作を広げたり、資料を目にしたりしていると、あるいはまた、僅かばかり残った記憶の襞を一人静かに辿ったりしていると、新たに書き加えたくなることがらがあれこれと頭に浮かんでくるからである。こんなふうにして、もはや誰にも制約されることなしに、自分なりに満足した文章に仕上げていくことができるのは、何とも素晴らしいことではないか。すっかり年を取った私は、いつの間にかそうしたことが好きになってきたのである。閑居の身となったのだから、あとは好きなことをやるにしくはない。

『徒然草』の冒頭は、誰もが知っているように、「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ」で始まる。一見何だか現代のブログのように読めなくもない(笑)。しかし、ここで大事なことは、やはり「あやしうこそ、ものぐるほしけれ」と記されていることだろう。

兼好は、何かに憑かれたように筆が止まらないと言っているのであるが、現代のブログには、こうした感覚は果たしてどの程度あるのだろうか。さらに付け加えておけば、彼は151段で「世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚(かぐ)の人なり」と指摘している。なりたくはないが、私も「上知の人」ならぬ「下愚の人」なので、こんなふうにブログを始めたりもするのであろう(笑)。

では、『枕草子』の場合はどうだろうか。清少納言は跋文で次のように書いている。「この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ」。言い過ぎのところもあるので隠しておいたのだが、心ならずも世に知られてしまったと言っているわけである。

現代のブログは、「よう隠し置きたりと思ひし」ものなどではなく、読んでもらいたい、読ませたいという思いが全開である。私の場合も同じである(笑)。彼女には、「すさまじきもの」、すなわち興ざめだとからかわれるに違いなかろう。読んでもらいたい、読ませたいとの思いはあっていいのだが、それが度を超せば「すさまじきもの」になってしまうのである。こうした逆転現象は世の中にはままあることである。年寄りであれば尚のこと自戒しておかねばなるまい。

ところで、当初私は定年後には好きなことを、好きなときに、好きなだけできるようになるはずだと、勝手に思い込んでいた。そんなわけで、例えば文章を書くということについても、きっと同じようなものだろうと高を括っていたのである。しかしながら現実は三つの意味で違った。まずは単純なところから。好きなことを、好きなときに、好きなだけやっていたら、身体を壊しかねないことがわかったからである。飲みたい酒を、飲みたいときに、飲みたいだけ飲んでいたら、身体の具合がてきめんに悪くなるのと同じである(笑)。もしかすると、身体は、頭の中で勝手に膨らんでいく欲望を制御する装置なのかもしれない。

次に気付いたことは、何の制約もなければ、書きたい時にだけ書けばいいわけだが、そうなると、書きたいと思えなければ書きたくなるまで待つことになり、その結果、書かないままに時は過ぎていくことがわかったからである(笑)。「締め切り」というものがないのだから、そうなりがちなのである。

もしかしたら、こんなふうにして、当初は旺盛だったはずの書くことに対する意欲が、徐々に減退していくものなのかもしれない。いつの間にやら精力が減退していくのと同じなのだろう。思いもかけぬ落とし穴である。主体的な判断や自発的な意志にもとづいて書くと言えれば格好いいが、店主のような人間は、それだけでは文章を綴り続けることができないような気もしてきた。強くなくていいが、何らかの強制が必要なのである。今は、1週間から10日に一度ぐらいの頻度で、投稿してみようかと考えている。

そして最後に、他者に読まれることをまったく想定しないでものを書き続けていくのは、想像以上に孤独な作業であり、そんな作業に耐えられるような強靱な精神力は、自分にはもともとないことをあらためて知ったことである。私も「あやしうこそ、ものぐるほしけれ」といった気分で文章を綴りたいのはやまやまだが、「下愚の人」なのでとてもそんなふうには書けそうにない。仕方がないから、シリーズものの冊子「裸木」を年に一冊作ることを敢えて人前で公言したうえで、そこに収録するための文章をブログに綴ることにしたというわけである。何とも殊勝な心掛けではないか(笑)。