金足農業高校の校歌の作詞者とは

今年の夏は、文字通り炎暑、酷暑の夏だった。そんななか甲子園では高校野球の熱戦が続いたが、「旋風」を巻き起こしたのは例の金足農業高校である。私は特に高校野球のファンというわけでもないので、遅い昼飯時にテレビをつけてチラチラと眺めていただけである。毎年のことではあるが、まずは出身地である福島の高校を応援し、そこが敗退すれば、次に東北各地の高校を応援することになる(笑)。何ともいい加減な応援団ではあるが、地方出身者の場合、私のようなタイプの人間は案外多いような気もする。

今年は秋田代表の金足農業高校が決勝まで勝ち進んだこともあって、二度ほど同校の校歌を聞いた。ネット上では反り返りながら全力で歌う姿勢や、著名な作曲家である岡野貞一のことなどが話題となっていたようだが、私が気になったのは、そちらではなくて作詞を担当した人物の方である。テレビには近藤忠義と記されてあったが、昔どこかで聞いたことがある名前のような気がしたからである。世の中には同姓同名の人物もいることだから、おそらく別人だろうとは思ったが、冒頭の「可美(うま)しき郷 我が金足」から始まる歌詞自体かなり格調が高く、これほどの歌詞を紡げる人物はそうざらにはいないような気もした。そんなわけで、もしかしたらとも思ったのである。

1932年(昭和7)に作られた同校の校歌は以下のようなものである。「土」と「農」への深い「愛」が溢れており、いまどきのいささかふやけた校歌には見ることのできないスケールの大きさや力強さが感じられる。金足農業高校の生徒たちも、きっと誇りを持ってこの校歌を歌っていることだろう。

一 可美しき郷 我が金足
霜しろく 土こそ凍れ
見よ草の芽に 日のめぐみ
農はこれ たぐひなき愛
日輪の たぐひなき愛
おおげにや この愛
いざやいざ 共に承けて
やがて来む 文化の黎明
この道に われら拓かむ
われら われら われら拓かむ

二 可美しき郷 我が金足
風あつく 土こそ灼くれ
見よ草の葉に 日のめぐみ
農はこれ かぎりなき意志
日輪の かぎりなき意志
おおげにや この意志
(以下一番に同じ)

三 可美しき郷 我が金足
みはるかす 大野の極み
見よ鳥海は あまそそる
農はげに 巨大なる道
天地の 巨大なる道
おお崇し この道
いざやいざ 共に往きて
あたらしき 文化のゆくて
この道に われら示さむ
われら われら われら示さむ

そこで、暇にまかせて早速ネットで検索してみたら、私の記憶の片隅にわずかばかり残っていた近藤忠義(1901~1976)は、唯物史観の立場から近世の日本文学を研究した人物で、社会歴史学派の中核的な存在であったと記されていた。彼は1937年に弱冠36歳で『日本文学原論』を刊行するが、講談社の『日本近代文学大事典』によると、この著作は「日本文学史の全般に歴史的社会的見地に立つ透徹した考察を加えた画期的な業績」で、学会に大きな影響を与えたとのことである。

近藤は、国体を批判するその左翼的な立場の故に、1944年に治安維持法違反で検挙され、敗戦後にようやく釈放されたという。そもそも先の著作さえ、時局を慮って東京帝国大学教授であった義父の藤村作(ふじむら・つくる、1875~1953)の名で刊行されている。近藤は、法政大学や和光大学の教授を歴任し1976年に没したが、翌年には新日本出版社から先の著作を含む『近藤忠義日本文学論』全3巻が刊行された。

それにしても、この近藤が何故金足農業高校の校歌の作詞者なのか、その繋がりが依然としてまったくわからなかったので、やはり別人なのだろうと思って探索を諦めかけた。そんな時偶然にも、「能代高校の校歌について」と題した同校の同窓生が書いた文章がネット上に載っているのを見つけた。それを読んでいたら、能代高校の前身である当時の能代中学には、近藤の義父である藤村の指導を受けた教師がおり、その彼が上京して藤村に作詞を懇請したとあった。能代のことをまったく知らない藤村は、最初は断ったらしいが、教え子の熱意に負けて引き受けたとある。

能代高校の校歌は、金足農業高校の校歌よりも6年前の1926年(大正15)に作られている。秋田県の北西部に位置する能代市は、秋田杉の集散地としてもよく知られており、製材業が盛んな土地柄である。金足農業高校の関係者は、能代高校の校歌を通じて作詞者である藤村を知ったのかもしれない。そして、もともとは藤村に依頼された仕事が、近藤に回ってきたことも考えられる。西鶴の研究者であった藤村だが、その一方で、彼は各地の学校の校歌を数多く作詞している。当時31歳だった近藤は、義父との繋がりによって、金足農業高校の校歌の作詞者となったのではあるまいか。こんなふうに想像を巡らすなかで、ようやくにして近藤と秋田が繋がってきたのである。

ところで、藤村が作詞した能代高校の校歌は、戦後になって一部改詞されているという。おそらく時局に迎合的な(今風に言えば、時局を「忖度」した)皇国的で復古的な表現があったからであろう。作詞者の藤村も恥ずかしく思ったに違いない。戦前はいったいどんな歌詞だったのか知りたかったが、余りにも話が脇道にそれそうなので断念した。では近藤の場合はどうか。近藤が金足農業高校の校歌を作詞した1932年には5・15事件も起きており(前年の1931年には満州事変が勃発し、翌年の1933年には小林多喜二が築地署で虐殺された)、義父が能代高校の校歌を作詞した時よりもさらに戦争の跫音が近付きつつあったにもかかわらず、そうした匂いは一切ない(強いてあげれば「日輪」か)。戦後もそのまま歌い継がれている。さすが近藤と言うべきであろうか。

また私の勝手な推測であるが、あえて別な側面から光を当ててみると、近藤は左翼の文学研究者としてプロレタリア文学にも深い関心を寄せていたはずであり、そうした点でも秋田に親近感を抱いていた可能性もある。何故そう思うのか。初期のプロレタリア文学運動に先駆的な役割を果たした雑誌『種蒔く人』が、秋田県の土崎で生まれた小牧近江や金子洋文らによって、その土崎の地で1921年に創刊されているからである。日本共産党が結成される一年前のことである。第三インターナショナルの紹介をはじめ、反戦平和や被抑圧階級の解放を公然と掲げた『種蒔く人』のことは、歴史の一知識としては頭に入っていたが、それが秋田の地で創刊されたことを私は今回初めて知った。

さらに付け加えておけば、小林多喜二も大館で生まれており、彼の盟友でもあった松田解子(代表作『おりん口伝』で知られる彼女は、多喜二虐殺の際に赤子を背負って弔問に駆けつけ、赤子ごと検束されている)も大仙市の出身であり、矢田津世子(『人民文庫』にも加わった彼女だが、その美貌や坂口安吾の恋人であったといったくだらない話題ばかりが注目され、可哀想である)も秋田市からさほど離れていない五城目町に生まれている。

また、『種蒔く人』の影響を受けてプロレタリア文学に近づき、その後農民文学の第一人者として知られることになった伊藤永之介も秋田市の出身者である。このように、秋田はプロレタリア文学と深い関わりを有した土地なのであり、上記のような錚々たる顔ぶれを眺めていると、近藤が金足農業高校の校歌を作詞することになったのは、何やら必然のようにさえ思えてくる。

さきほど、藤村は近藤の義父であると書いたが、近藤は東大で藤村に学んだ弟子であり、その藤村の娘である宮子(1907~1999)と結婚している。この彼女の来歴を見ていたら、当時幼稚園唱歌研究部に関わっていた父の藤村から、子どものための作詞を依頼され、「チューリップ」や「こいのぼり」、「オウマ」などの作詞を手がけたという。しかしながら、専業主婦となった宮子の名はいつの間にか忘れ去られ、長らく作詞者不詳として処理されてきたらしい。夫の近藤のみならず、弟の赤城さかえ(本名は藤村昌、1908~1967)も左翼運動に深く関与していたから、当の二人は勿論のこと、彼女もたいへんな苦労を強いられたことだろう。

ここに登場する赤城さかえは藤村の次男で、俳人でもありまた俳論家としても知られている。東大在学中に共産党に入党し、その後転向するも戦後復党。戦前結核の療養中に俳句にふれ、その後もさまざまな病気と戦いながら鋭い俳論を展開し、多方面で論陣を張ったという。死後に代表作となる『戦後俳句論争史』(この本の帯には、「戦後俳句界を震撼させた男」とある)が刊行されている。

また、近藤忠義・宮子夫妻の長男である近藤創は、赤旗編集部の記者として働いており、後に母の宮子が「チューリップ」や「こいのぼり」などの作詞者であることを公表した。そのことが『赤旗』の記事となったために、作詞者が近藤宮子であることが広く世に知られることになり、裁判でも彼女が作詞者であることが認められた。

近藤が眠る墓には「近藤の人々の墓」と刻まれているとのことだが、金足農業高校の校歌から、「かぎりなき意志」を持って「この道」を「拓かむ」と苦闘した「近藤の人々」やその周辺の人々の歴史が、今鮮やかに浮かび上がってくる。

赤城さかえの二句
レーニンの伏字無き書に五月の風
むつまじき吾が老父母にパンジーなど

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