「芸術の秋」雑感(四)-落語を愉しむ-

 今回は落語の話である。11月の中旬に青葉公会堂で開催された「青葉寄席」に出掛けてきた。何故そんなところに出掛けることになったのかと言えば、青葉台駅前のフィリアホールであった演奏会に行った際に、チラシを手にしたからである。ホテルのレストランで昼食をとり、出ようとしたらロビーに置いてあった寄席のチラシが目に入った。近くでこんな催し物があることを知って、気持が動いたのである。

 娘は気を利かしてチケットを2枚とってくれたのだが、家人はこうしたものには興味が無さそうで、1枚が宙に浮いてしまった。そこで一計を案じ、小僧を寄席に引っ張り出すことにした。ただただ寄席の会場に足を運ぶだけでは能が無いような気がしたので、運動不足の解消を兼ねて、バスではなく徒歩で出掛けた。しかも、大通りの最短距離を辿るのではなく、これまで通ったことのない裏道を歩くことにした。

 小僧も散歩が好きなようで、喜んで私に付いて来た。家を出てすぐに、たわわに実ったミカンを取り入れていた老夫婦に出会った。何事も社会勉強かと思い、「こんにちは」と挨拶して「随分沢山なりましたね」と声を掛けてみた。小僧にも「こんにちは」ぐらい言わせようと思ったからである。元気よく挨拶すれば、ミカンの2つ、3つもらえそうな気がしないでもなかった。しかしながら、当人は恥ずかしいのか蚊の泣くような挨拶しかしなかったので、残念ながらミカンはもらい損ねた(笑)。

 しばらく歩いているうちに、まったく知らない場所に出てしまい、道に迷ってしまった。仕方が無いので、通りすがりの人に道を尋ねた。これも社会勉強である。その方はスマホを取り出して調べてくれ、すぐにてきぱきと道順を教えてくれた。私だってスマホを持っているのに、マップを使ったこともなかったので、これでは宝の持ち腐れである(笑)。そうか、こういう時に使えばいいのかと初めて知って、その後はよく活用するようになった。

 途中に初めて見る公園があった。こうした場所があると、すぐに寄りたくなるのが子供なのかもしれない。それほどの広さはないが、静かないい公園だった。広場にはすでにほとんど葉を落とした一本の木があった。裸木である。小僧はすぐに木登りにかかった。いつもそうだが、木を見付けるとすぐに登る。これでは小僧ではなく小猿である(笑)。
 
 今回は途中にお寺などは無かったが、そうしたものがあると、小僧は毎度毎度賽銭の小銭を放り頭をさげる。私は不信心者なので、賽銭も放らないし頭も下げない。そのぐらい律儀なら、自分の財布から小銭を取り出して、願い事を唱えればいいようなものだが、そうはせずにいつも私に賽銭をせがむ。自分の願い事しか頼んでいないくせに、何ともおかしな小僧ではある(笑)。

 その後、駅の側の蕎麦屋で昼食をとり、近くのスーパーでミカンとダンゴを買い込んで、その日の会場である青葉公会堂に向かった。早めに付いたので、公会堂の周りをぐるっと廻ってきた。公会堂は体育館と併設されており、体育館の方は昔ダンスをやっていた頃によく顔を出したが、公会堂に入るのは私は初めてである。あの頃のことを思い出して懐かしかった。

 ここまで、どうでもいい、たわいもない、つまらない話をだらだらと書き連ねてきた。私の気分としては、落語の本題に入る前の「前振り」とか「つかみ」とか「枕」のような話にしたいと思って書いてきたのだが、どうもそううまくはいかない(笑)。素人なので当たり前である。文庫本にもなり、CDまでだした小三治の「枕」は有名である。どうかすると、出し物の落語よりも「枕」の方が面白かったりする。

 私はお笑いは好きな方なので、サンドウイッチマン、博多華丸大吉、東京03,綾小路きみまろ、ロッチ、和牛など、いろいろ聴いてきた。スマホで夜寝るときに聞くのである。しかしながら、若い人のお笑いはしばらく前からちょっと五月蠅く感じるようになってきた。今好く聴いているのは、「睡眠落語」と称するもので、そのうちで大のお気に入りは、小三治と三枝である。志の輔だって志ん朝だってとても面白いのだが、ちょっと元気すぎて入眠を妨げられる。贅沢な話ではあるのだが(笑)。

 「世の中 楽な商売というものは ありませんねえ」
 「端から そう見えるっていうのは あるかもしれませんが」
 「私らの商売も そんなもんなんでしょうか」
 「正直 何も考えちゃいませんがね」

 たったこれだけの科白なのだが、その間といい、声のトーンといい、これだけで聴く人を引き込む。大したものである。あまりに自然に流れていくので、ほんとうに何も考えていないかのように聞こえる(笑)。芸の芸たる所以である。しばらく聴いているうちに、ゆっくりと眠りに落ちていく。

 寄席で居眠りしているわけではないので、談志に叱られる心配も無い(笑)。因みに、世評の高い談志だが、彼の前振りで語った時事ネタを昔聴いていて、アナーキーのレベルの低さに呆れ、それ以来聴いていない。年をとってくると、奇をてらっているだけの人間になぜだか興味が沸かなくなってくるのである(笑)。

 話を元に戻すと、会場で演じられたのは、二ツ目の林家まめ平の小噺ふうの落語、笑組(えぐみ)の漫才、林家あずみの三味線漫談、そして真打ちの林家錦平の落語という内容だった。素人の私はもちろんどの方も知らない。林家錦平という噺家は、地元青葉区の出身で、現在も青葉区在住とのこと。彼の熱演した人情話の傑作「文七元結」(ぶんしちもっとい)は素晴らしく、聞き惚れてしまった。さすが古典落語に拘っている人だけのことはある。その後スマホで彼の噺も聴くようになったのは言うまでも無い。

 芸人であれば、目立とう、受けよう、売れようといったあざとさが何処かに滲み出るものなのであろうが、それが何処にも感じられない。本人にも秘めた思いはあるはずだが、それをまったく見せないところが凄い。もとより私などは睡眠落語の愛好者なので、聞き惚れているうちについつい居眠りしかけたが、隣の小僧が私の袖を引っ張って起こしてくれた(笑)。いれば何かの役には立つということか。