「芸術の秋」雑感(三)-映画を観る-

 音楽の次は映画の話である。前回のブログでは、音楽を「聞く」ではなく「聴く」と表記したが、映画の場合も、「見る」ではなく「観る」としてみた。「聞く」や「見る」に対して、「聴く」や「観る」と書けば、何となく主体的で、意志的で、能動的な感じがする。次回は落語の話を投稿するつもりだが、この場合は「楽しむ」ではなく「愉しむ」と書きたい気分である。演奏会に出掛ければやはり「聴く」と書きたいし、映画館に出掛ければ「観る」と書きたくなる。

 今年は、自粛生活を余儀なくされたこともあって、在宅時間が長くなりその分家で映画をよく見た。この場合の「見た」は暇つぶし半分で見ているので「観た」ではなく「見た」でよかろう。芸術の秋に関係なく映画をよく見たのだが、映画館に足を運んだのはこの秋の2回のみである。

 映画はよく見たが、テレビはさっぱりと言っていいほど見なくなった。最初のうちこそコロナの感染状況が気になりニュース報道を夕食時に毎日のように見ていたが、家人が暗いニュースばかりで気持が塞ぐとこぼしたこともあって、すっかり遠退いた。テレビなど見なくても何の支障も無い。新聞とラジオで十分である(そうは言っても、「半沢直樹」だけは毎週愉しみにしてしっかり見たのだが-笑)。

 しばらく前にテレビを見ていたら、アナウンサーが専門家に「今大事なことは?」と尋ねていた。その答えが振るっていた。「外ではマスクをし、帰宅したらうがい手洗いを忘れず、3蜜を避けるという、基本を徹底することですね」とのことだった。そんなことを教えてもらうためにテレビに付き合っていても、時間の無駄だと言うしかなかろう。

 先日田舎の福島から美味しそうな食べ物が沢山送られてきた。大きな箱には特秀とランクされた立派なリンゴ、あんぽ柿、しみ豆腐、ゆべし、かき餅などが詰められていた。懐かしい食べ物ばかりである。そこには弟からのごく簡単な添え書きがあり、「年がら年中メディアは『コロナ禍』の報道で時間つぶしに夢中ですが、そちらはいかが?」とあった。みんな似たようなことを考えているものだなあと妙に納得した。

 しかしまあ、見なければテレビに腹が立つこともない(笑)。こうなると、テレビは映画のための受像機でしかない。私が自宅で映画を見るのは、次の三つの方法である。家に買い込んであるDVDを見る、テレビのBSプレミアムで午後1時からやっている映画を録画しておいて見る、そしてアマゾンプライムビデオで見る、というこの三つである。ごくたまには近くのレンタルビデオ店でDVDを借りてくることもある。

 こんなふうにして目にする映画は、すべて「観る」ではなく「見る」である。「愉しみ」ではなく「楽しみ」である。全部が全部暇つぶしの娯楽作品だと書くと卑下し過ぎているような気もするが、まあ似たようなものであろう。こうした自宅で見た映画と比べると、映画館まで出掛けて観た映画はやはり違う。そもそもこちらの構えが違っているるからである。

 横浜まで出掛けて観た神山征二郎(こうやま・せいじろう)監督の「時の行路」は、小さな映画館で上映されていたこともあって、3蜜の典型のような場所だった。家人は不安に思ったらしい。日本の映画では滅多にお目にかかれない労働問題、労働組合、労働争議を扱った映画である。こうした作品であること自体が貴重である。

 ケン・ローチなどが撮れば激賞する人々も、日本人の監督だと無視にかかる。左翼思想にかぶれたプロパガンダ映画のようにしか見ないからである。裁判に負け、妻を死なせ、家族と不仲になった主人公だが、「和解」の兆しが見えたところで映画は終わる。苦難、苦悩、苦労の連続だが、そこにこそ人間の生きる証があるのかもしれない。

 もう1本は、黒沢清監督の「スパイの妻」である。こちらは立派な映画館で上映されていたので何の心配も無かったが、観客はまばらだった。ベネチア国際映画祭銀獅子賞の受賞作品だということで観に行ったのだが、反戦映画であり、サスペンス映画であり、恋愛映画でもあって、その複雑な構成に魅入られた。

 関東軍の生体実験をめぐるおぞましい機密を知ったコスモポリタンの夫優作(高橋一生)と、スパイの妻呼ばわりされる聡子(蒼井優)の物語である。狂気の時代に翻弄されながら、正気と二人の幸せの狭間で揺れる聡子だが、どんなに罵られようとも正気を捨て去ることはない。その立ち姿が凜々しくも美しい。映画館で購入したパンフレットによれば、監督は、1940年前後の日本が「大殺戮を肯定する狂乱状態」へと突き進んでしまった時代と捉えているようだが、こうした映画を今のわれわれがどう捉えるのか、そんな問いが鋭く突きつけられているようでもあった。

 ところで、映画そのものではないのだが、近くにある「横浜歴史博物館」で、この秋「緒形拳とその時代」展が開催された。私はたまたま「砂の器」の映画評を書いていたので、材料探しも兼ねて観に出掛けた。その成果は特になかったのだが、主人公を演じた映画の「鬼畜」や「復讐するは我にあり」、テレビの「必殺仕掛人」での梅安役などが紹介されていて、とても懐かしかった。緒形拳というと、私にはどうしてもこちらの演技のインパクトの方が強い。

 「復讐するは我にあり」で殺人鬼を演じた緒形拳は、逃亡先で大学教授になりすまし、小川真由美と懇ろになる。そこで吐いた名台詞「学問の前後左右に女あり」は、今でも忘れられない(笑)。娘の一人は、時折ブログを読んで感想を書いてくるのだが、子どもたちもよく映画を観るようで、今回は以下のようなことを書いてきた。

 映画好きなら緒形拳を避けて通れないのですが、その中で彼が演じた特筆すべき役に(やはりというべきか)「鬼畜」「復讐するは我にあり」が紹介されており、特に後者の最後近くのシーン、緒形拳と三国連太郎が刑務所で対面するシーンが紹介されていました。三国が唾を吐きかけるシーンは脚本にはないアドリブだったそうですね。「唾を吐きかける」はルール違反。あの演技ですべてをもっていってしまうと後年佐藤浩市も指摘していますが、三国からそのような演技を引き出す緒形拳や、あっぱれ。

 何だか如何にも映画通のような書きっぷりである(笑)。その通臭さをもう少し削ぎ落とせば、さらりと読める文章になるのだがなどと、余計なことを考えてしまった。よく通ぶると言ったりするが、その意味は、ある分野に精通している振りをすることとある。

 たいして精通もしていないのに、精通しているかの如くに装うことなど論外ではあろうが、たとえそれなりに精通していたとしてもそんな素振りをまるで見せない人が本物なのではあるまいか。謙譲の美徳などを称揚したいのではない。精通すればするほど知らずにそうなると言いたいのである。それが「芸」というものであろう。緒形拳もそうした人物だったはずである。そんなことが窺われる展示だった。