「芸術の秋」雑感(五)-作品を観る眼-

 「芸術の秋」雑感の最後は美術の話を書くことにした。長年「夢」を描いてきた画家・鶴見厚子さんのことについては、別立てで投稿する予定なので、ここではそれ以外に出掛けた3箇所の作品展を取り上げてみたい。絵画だけ取り上げても、油絵もあり、日本画もあり、水彩画もあり、そしてまた世界に知られた著名な画家の作品もあり、ほとんど無名の方々(私が知らないだけかもしれない)の作品もあった。実にバラエティーに富む作品群である。

 ところで、当の私はそうした場所に何故に心惹かれるのであろうか。自分でも何か表現してみたいなどとどこかで思っているからなのであろうか。昔小学生の頃に、何年間か絵画教室に通っていたことがある。父親が勧めたとは思えないから、勧めたのはきっと母だったのであろう。遠い昔のぼんやりとした記憶なので定かではないが、小学校の恩師である長田先生の家の近くにその絵画教室はあったので、もしかしたら、長田先生から母に話があったのかもしれない。

 その絵画教室は、当時としては洋風のとてもモダンな作りの家で、先生と年老いた品のいいお婆さんとおかっぱ頭の美しくて利発そうなお嬢さんがいた。先生の奥さんの記憶はまったくない。あの当時絵画教室に子供を通わせるような家は、比較的裕福だったはずである。自分もそこに通っていたのだから、周りからはそう見られていたはずであるが、当の本人からすると、自分が住む世界とは違った世界に足を踏み入れているようにも感じられた。

 先生は生徒たちの間を廻って時折アドバイスしてくれた。私の目には先生はいかにも「芸術家」風に映っており、畏怖の念を抱くほどではないが、気軽に声を掛けられるような存在ではなかった。ある時先生が私の前で立ち止まり、「その白、いい色だね」と褒めてくれた。

 だがそこはまだ彩色を施していない画用紙のままの色だった。先生もそのことに直ぐに気付いて、「まだ塗っていなかったのか」と言って笑った。おかしな記憶だけが何時までも印象深く残っているものである(笑)。絵画教室に通った所為もあるのか、その後私は絵が好きになった。もしかしたら、「美」というものに対するセンスも少しは磨かれたのかもしれない。

 話を元に戻すと、最初に出掛けたのは、多摩美術大学の出身者で横浜在住の方々の作品展だった。まず家人の知り合いの河東さんの作品2点を鑑賞してから、他の作品をゆっくりと見て廻った。この作品展の面白さは、多様なジャンルの作品が展示されるところにある。油絵、日本画、写真、彫刻、陶芸、組紐、オブジェ、テキスタイルと何でもある。私は、どちらかと言えばかなりはっきりした色使いの作品や、鋭角的な構成の作品が好きな方である。風貌だけは鷹揚な雰囲気を漂わせているように見せながら、中身はかなり神経質な人間だからであろうか(笑)。

 今回は彫刻やオブジェに興味深い作品が多かった。その中でも、古い農具を使いながら組み立てられた作品に興味が沸いた。その発想がユニークである。ユニークと言えば、作品のタイトルもユニークだった。「非トリ」と命名されていた。鳥に非ず、すなわち人間だということなのか。

 こうしたアブストラクトな作品の場合、観客が作品名に引きずられることを嫌がるためなのか、「コンポジション」とか「無題」とか「ナンバー」とかと命名されることが多いような気もするが、「非トリ」と名付けるような遊び心も気に入った。この方の他の作品も、「ナカズ」とか「トバズ」だったので笑えた。

 もう一つは、同じ団地に住む江幡さんの作品が展示されている作品展であった。彼は水彩画のサークルに所属しているとのことで、そのグループの方々の作品が展示されていた。水彩画の作品展は何度か見たことがあるが、今回の作品はどれも大きなものばかりだった。小さな水彩画を描く人は世の中に数多いと思うが、大きくなるほど手軽には描けなくなる。それだけ力が入っていたということなのだろう。

 絵を観て自分がまず関心を示すのは、作者が切り取った構図である。私のような通俗的な鑑賞者が如何にも好みそうな構図を意識的に避けて、独自の切り口に拘っている絵は、観ていて嬉しくなる。そこには画家の「目」が「眼」となっているようにも感じられるからである。

 江幡さんの話によると、サークルの仲間には海外にまで写生の旅に出掛ける人も多いとのことだった。作品の中には、海外に材をとったものもいくつかあった。しかしながら、海外にまで足を延ばせばいい絵が描けるわけではなかろう。かえって、構図を切り取る「眼」が甘くなることさえあるかもしれない。すべてが物珍しく「目」に映るからである。

 帰りの電車で日吉の駅を乗り過ごしてしまったので、武蔵小杉でUターンした。ふと車窓に目を遣ったら、夕暮れの中に黒いシルエットの富士が浮かび上がり、稜線が鮮やかな橙色に染まっていた。息を呑むような美しさである。江幡さんの作品に金沢区野島の夕照橋(せきしょうばし)からの風景や馬車道通りの夕景があったので、なおさら先の景色が身に染みたのかもしれない。考えてみれば、夕景にことさらに拘ったりするのは、人生の夕景に差し掛かっていることを実感しているからに違いなかろう。

 河東さんの絵を見たギャラリーで、「トライアローグ」と題した展覧会が横浜美術館で開催されていることを知り、別の日にこちらにも足を運んだ。ダイアローグではなくトライアローグなので、三者による会話、いわゆる鼎談ということになる。横浜と愛知と富山の三つの美術館が所蔵する西洋美術の名品を、一同に展示した展覧会である。

 ミーハーの私などは、「20世紀美術史を彩った巨匠たちの作品」を厳選して紹介したとか、「横浜美術館長期休館前、これが最後の展覧会」だなどといったキャッチコピーにからきし弱く(笑)、ついふらふらと出掛けたのである。確かに名品揃いであり、そのことに何の不満もない。だが、観ているうちに巨匠たちの名前で絵を観ている自分にいささか疲れ、途中から自分の眼でのみ観ることにした。そうしたら、肩の荷が下りて実に爽快な気分となった。

 ついでだからと、大した期待もせずに同時開催の横浜美術館コレクション展も覗いてきた。横浜出身の作家たちの作品を展示していたが、素晴らしい作品や気になる作品が数多く、正直驚いた。勿論ながら、素人の私など誰も知らない方々ばかりである。「トライアローグ」のカタログよりもこちらのカタログの方が欲しかったが、残念ながらショップには見あたらなかった。


 
 またショップでは、これまでに作成されたカタログで売れ残ったものが格安で販売されていた。あれこれ眺めて「東山魁夷展」のカタログを購入した。コーヒーを飲みながら分厚いカタログのページを繰っていたら、以下のような文章が眼に止まった。紹介してみる。

 私も暗黒と悲しみを胸深く蔵してはいるが、苦悩をあからさまに人に示したことは無い。しかし、暗黒と苦悩を持つ者は、魂の浄福と平安を祈り希う者でもある。私の作品にあらわれる静謐、素純は、むしろ、それを持たぬ故に希望する、切実な祈りとも云える。

 静かだが、何とも味わい深い言葉である。この文章を読んだだけで、横浜美術館に足を運んだ甲斐があったようにも思われた。外は枯れ葉の舞う晩秋の午後。私は、私の「眼」を持って生きていく他に、生きる術はない、そんな決意のようなものがゆっくりと湧き上がってきた。