「星月夜」のこと

 夢を描き続けている画家・鶴見厚子さんのことに関しては、しばらく前のブログで一度触れたことがある。家人は、市内の中学校の教員として働いていた頃、鶴見さんと同僚だったことがあり、その縁で私も彼女の絵に興味を持ったというわけである。彼女はその後美術の教師を辞めて画家となり、「夢の質感」をテーマに多くの作品を描いてきた。

 家人は、鶴見さんからところどころで個展の案内のハガキを受け取っていたようだが、当時は二人とも日々の仕事と暮らしに追われていて、絵を見に出掛けるような気分になれなかった。ご無沙汰しているうちに案内は途絶え、彼女との繋がりも切れてしまったのである。
 
 ところが、去年ふとしたことから鶴見さんの動静を新聞記事で知った。彼女は元気に活躍されていた。こちらも年金暮らしとなったので、彼女の個展を見に行きたかったが、今度はこちらがなかなか彼女と連絡が取れないのである。やむなく、家人宛の昔々の年賀状を引っ張りだし、ブログに書いた文章を添えて手紙を出してみた。届くのかどうかまったく分からなかったのだが…。

 鶴見さんは、以前お住まいの所に今も住んでおられたために、運良く手紙が届き連絡が取れた。彼女の返事には個展開催の案内もあったので、早速出掛けてみた。昨年の11月28日のことである。その個展のタイトルは「回想譚」となっていた。譚とは話のことだから、これまでの作品を展示しつつ自らの画業を回想したくなったということなのだろうか。

 馬車道駅の側にあった画廊にも直ぐに辿り着き、鶴見さんと会った。私の方は鶴見さんの顔を知っていたが、彼女は私のことなど何も知らないし、もしかしたら家人の記憶もぼんやりしていたかもしれない。あれこれ雑談を交わしているうちに、彼女の記憶もクリアになってきたようだった。

 小振りな画廊だったが、そこには鶴見さんのこれまでの画業を辿れるように作品が展示されていた。私は鶴見さんの絵に興味を持っていたので、気に入った作品があれば購入するつもりだった。彼女の真骨頂は大作にあるような気もしたが、そんな作品は値段も高かろうし、狭い我が家には飾る場所もない。買えるとしたら小品である(笑)。

 見渡してみて気に入った小品が二つあったが、二つも買えるわけはないので、「星月夜」と題した作品を購入した。彼女が2012年に描いた、緑と青を基調にしたシュールな絵である。星月夜(ほしづきよ)とは、晴れて星の光が月のように明るい夜のことを言うとのことだが、それは帰宅してからスマホで知った知識に過ぎない。

 それよりも、スマホで検索すると直ぐに登場するのはゴッホの有名な絵である。この絵は画集では見たことがあったが、「星月夜」というタイトルだったことなど知らなかった。左に糸杉が焔のように立ち上がり、右上には三日月が光っている。そして中央にはいくつもの大きな星が渦巻いている。なにやら広大な宇宙を暗示しているかのようである。

 手元にある美術全集を開いてみると、次のような解説がある。「星々が渦巻き、すべてが求心的な運動、統一ある動きを示すこの美しく壮大な夜の詩は、自然と物の内面にふれえたもののみのもちうる叙情性、神秘性を示している」。あるいはまた、当時精神を病んでいたゴッホは、「自然の内に入り込み、宇宙の律動と共鳴して、自己を没却し」、「死に乗って星に行くことをこがれていたのか」。

 こんなことを知ったうえで鶴見さんの「星月夜」を眺めてみると、なかなかに味わい深い絵である。空には三日月があり、無数の星が散らばっている。描かれているのは彼女が感じている夢の形なのであろうが、それはまた彼女が感じている宇宙の姿なのかもしれない。大した仕事もしない仕事部屋に立て掛けてあるが(笑)、異彩を放っていていつまで経っても見飽きることのない作品である。

 一通り見終わってから、鶴見さんと雑談を交わした。彼女は夢の絵を描く傍ら、マーサ三宅のもとでジャズを学んだらしい。多才な表現者でもあるようで、歌うことも好きなのであろう。マーサ三宅から筋がいいと褒められ、彼女の代役でライブハウスで歌ったこともあるとのことだった。折角来てくれたのだからということで、私たち二人のために2曲ほど歌ってくれた。何とも嬉しい限りである。彼女はしばらく前に大病を患ったらしいが、こんな振る舞いを見るとすっかり元気になられたのであろう。

 そのうちの一曲は、チャップリンが作曲し映画『モダンタイムス』に登場する「スマイル」だった。たまたまこの映画を推奨する一文を書くために見直したばかりだったこともあって、私にしては珍しく覚えていた(笑)。映画ではインストルメンタル(器楽曲)だった。あとになってタイトルと歌詞が付けられて、多くの歌手にカバーされているようだから、このブログの読者の方々も聞き覚えがあるのではあるまいか。以下の歌詞は鶴見さんの訳である。
 
 心がつらい時は笑うといいね
 心が破れそうになっても笑うんだ
 そうすれば最り空でもなんなくやっていけるさ
 恐怖や悲しみにも負けずに打ち勝って笑えたら
 多分明日はお日さまがニコニコと
 君に笑いかけてくれるのさ

 顔はいつも喜びで輝かせていたいよね
 悲しみの影なんて見せちゃだめ
 涙がついそこまで出てきていても
 そういう時こそ頑張って笑顔を忘れないようにするんだ
 泣いたってなんの得にもならないさ
 人生って・・・とにかく笑いさえすれば
 ああやっぱり生きる価値のあるものなんだなって思えるものさ 

 歌詞だけ見れば単純そのものではあるが、そうしたものからも(あるいは、そうしたものだからこそ)生きる力が沸いてくることもあるのかもしれない。ものごとに悩み苦しみ、そしてまた自己と他者を傷つけあう世界に我々は生きているが、そうした世界に足りないのは、「笑う」という如何にもシンプルで人間臭い行為なのではなかろうか。

 悩み、苦しみ、悲しむことの多い今の時代だからこそ、嬉しく、愉しく、面白いと感ずるような笑いを忘れてはならないのだろう。俗世間に生きる卑小な存在としての自己を見つめていると、遠景には、鶴見さんの描くような広大な宇宙が現れ、近景には、鶴見さんの歌うようなシンプルな笑いが浮かび上がってくるのかもしれない。

 最後に貼り付けておいたのは、ナット・キング・コールの歌う「スマイル」である。この曲の歌詞が、コールのレコーディングのために加えられたことを今回初めて知った。彼の何とも柔らかで伸びのある歌声を堪能してもらいたい。そして、笑ってもらいたい。私の笑いは、どうも胡散臭いものに対する「嗤い」になりがちなのではあるけれども…(笑)。

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