「敬徳書院」の扁額のこと(四)

 ネット上に「敬徳書院」の扁額の写真を発見した当初は、その写真を拡大コピーし額にでも入れて飾るだけで満足するはずであった。しかしながら、ネットで見付けたブログの記事を読んで、扁額が個人宅に所蔵されていることが分かったこともあって、どうしても実物を目にしたくなった。それどころか、できることなら譲ってもらいたくなったのである。おかしなところに巣くっている収集癖が、この時突然頭をもたげたのかもしれない(笑)。

 そんな大きな扁額などを手に入れていったいどうするつもりなのかと、周りからは笑われそうな気もしたのだが、あまり後先を考えないところがいかにも私らしい。ブログの読者の方々は既にご存知のことであろうとは思うが、私もどことなく妙な人間ではある。もしかしたら、退職金が手に入っていささか気が大きくなっていたせいもあったのかもしれない(笑)。シリーズ「裸木」の刊行に私費を投じたりするのも、似たようなものであろう。

 そこで、先の写真をブログに載せた人に連絡を取ろうと考えたのであるが、アナログ人間の私にはどのようにすればいいのかまったく分からなかったので、息子に連絡先を調べてもらうことにした。その結果、「みずすまし亭通信」が石原さんのブログであることがわかり、また石原さんの連絡先もわかった。

 そこで、私から石原さんに直接電話してみた。自分の来歴をあれこれと話したところ、彼も少しばかり興味を持ってくれたようで、あまりぎくしゃくすることなく話が進んだ。そのうえで、肝腎の用件に関して尋ねてみた。そうしたら、「譲ってもらえるかどうか分かりませんが、そういうことならIさんに直接話をされてみてはどうですか」ということで、扁額を所有しているIさん、すなわち猪本さんのご自宅の住所と電話番号を教えてもらった。

 そんなことができたのは、二人が知り合いだったからである。先に電話したうえで、私は猪本さんに手紙を書いた。2018年4月末のことである。3月に退職したばかりから、それにしては何とも素早い動きではないか。退職後の片付けなどは退職前にあらかた済ませており、仕事からすっかり解放されて生気がみなぎってきたということだったのかもしれない(笑)。以下に紹介するのは、手紙のほぼ全文である。

 先日は、突然夜分にお電話をおかけしたりして、たいへん失礼いたしました。電話でもお話しさせていただきましたが、小生現在は横浜市に住んでおります。生まれは福島県福島市で、私の母の父が佐野秀作、祖父が佐野喜平太というつながりになります。同封させていただきましたコピーは、長女であった母の弟である佐野泰太が、15年ほど前に作成したものです。

 私自身も、この冊子を作るにあたって裏方で協力いたしましたが、この叔父も数年前に亡くなりましたので、母の兄弟はすべていなくなりました。母は苦労続きの人生を送り、1979年に64歳で亡くなりましたので、いつの頃からか母の人生を辿ってみたいという思いが私の中に生まれ、佐野家関連の資料をあれこれ集めるようになったというわけです。

 これまでに、『出雲崎町史』や『寺泊町史』、佐藤耐雪さんの『出雲崎編年史』などを手に入れ、時々暇にまかせて紐解いてきました。昨年秋には富山からの帰りに出雲崎により、2泊して良寛記念館や天領の里などを回ってきました。私も長年勤めてきた専修大学を、この3月で定年退職いたしましたので、これからは自由な時間を利用して、少し本腰を入れて資料を読んでみようと思っております。

 また、コピーと一緒に同封させていただいた冊子は、昨年私が自費出版でつくったものです。定年後の楽しみの一つとして、「敬徳書院」という名の一人出版社を立ち上げ、「裸木」というシリーズものの冊子を作ろうと考えているのですが、その創刊号に当たるものです。自己紹介かたがた同封させていただきましたので、ご笑納いただければたいへん幸いに存じます。

 今回は、たまたまお知り合いの石原さんのブログで「敬徳書院」の扁額の写真をみつけ、子供にもあれこれ助けてもらって、石原さん経由で猪本さんと電話でお話しできるところまで辿り着くことができました。本当に奇遇ですし、お電話で気持ちよくお話しもできて、たいへん嬉しく存じました。

 個人的な気持ちとしては、扁額を譲り受けられないだろうかと思ってはおりますが、たとえそれが難しかったとしても、現物を拝見し、猪本さんから当時の佐野家の様子などを伺うことができれば、それを文章にしてみたいと思ってもおります。

 そんなわけですので、少し休んで疲れをとり体調を整えてから、長岡にまで出かけようかと考えております。直接お会いしていろいろとお話を伺えるのを、今から楽しみにしております。見ず知らずの人間が、突然押しかけたりするのは余りにも失礼かとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 上記のような手紙を書いたのは退職後の4月だが、私が長岡に出掛けることができたのは、その後しばらく経った7月2日のことである。どうせ出掛けるなら遊びも兼ねた旅にしたかったので、長岡にのんびりと3泊もし、ついでに市内の美術館や古本屋を巡ったり、駅の側の小料理屋で一人飲んだりもした。また、市内を悠々と流れる信濃川の川縁にも佇んでみた。件の猪本さんには、隣の柏崎市にある貞観園まで案内してもらった。昔の大庄屋が作った見事な日本庭園である。

 肝腎の扁額についてだが、猪本さんと会ってしばらく話を交わしたところ、「この額は佐野家に縁のある人のところにあるのがいいのでしょう」ということで、快く譲ってもらえることになった。安い金額ではではなかったが、こちらとしては、余程高額でなければ譲ってもらいたいと思っていたので、提示された金額をそのまま受け入れることにした。

 その後二人で石原さんの営むデザイン室を訪ねて懇談し、さらに3人で近くの飲み屋に顔を出して飲んだ。石原さんは仕事柄か繊細な感覚をお持ちの方のようにお見受けした。とりわけ美術や文学に関する造詣が深く、なかなかの趣味人のようだった。その辺りのことは、彼のブログを開いてみるとよく分かる。それはともかく、お二人とも話題の範囲が広いので、初対面にも拘わらず話は尽きることなく続いた。こうして長岡の二日目の夜は更けていった。

 ところで、長岡には『マイスキップ』という名のタウン紙があって、それが各所に置かれており、誰でも無料で手にすることができる。そんなことを知ったのは、石原さんのデザイン室を訪ねた時にその最新号を見せてもらったからである。これを見ると、紙面の構成を担当しているのは石原洋二郎デザイン室と書かれている。

 そんなわけで、石原さんはこのタウン紙と深い関わりがあり、彼の話し振りからするとどうも実質的な編集長のようにも推測された。この想像はそんなに外れてはいないであろう。その『マイスキップ』であるが、一度手にしてみるとよく分かるが、なかなかに高尚な作りである。私のような人間にはついていくことが難しく感じるようないささかマニアックな記事が、ごろごろ掲載されている。

 私は、彼のブログ「みずすまし亭通信」を眺めていて、あまりの関心の広さに驚かされたが、それと同じような驚きをこのタウン紙にも感じた。こうしたいわゆるタウン紙らしからぬタウン紙を、普通の市民がいったい何処まで読めるものなのか、僅かに危惧の念を抱きながらではあったけれども…。このタウン紙『マイスキップ』を通じて、石原さんと猪本さんは知り合いになられたようだ。