「敬徳書院」の扁額のこと(三)

 この間、北前船の航跡を辿って日本海沿岸の各地を巡る機会が三度ほどあった。北前船の稼ぎは、大阪から北海道に向かい北海道から大阪に戻る一航海で、1,000両にも達すると言われたほどだったので、船主たちの中には富豪となる者も現れた。彼らの多くは、広々とした豪奢な邸宅を構え、室内の意匠や家具にも拘り、書画や骨董の類を買い集め、園庭の造作にやたらに贅を凝らしたようである。

 しかしながら、こうした贅というものは、住む人がいなくなれば邸宅も庭も荒れ果ていき、蒐集された品々も、コレクションとして、つまりあるテーマを持って集められていれば話は別だが、そうでなければ個々の骨董品としての価値が残るだけで、代替わりを経るなかでいつの間にやら散逸していくものである。

 そうした運命を知ってしまうと、運良く保存されることになった船主の館跡で、集められた豪華な品々を拝観したり、家や庭の作りの素晴らしさをガイドの方から詳しく紹介されてみても、心を動かされることはあまりない。私などは直ぐに退屈してしまう方である(笑)。北前船の活躍と船主の繁栄がもたらしたものを再発見すると言うよりも、そうした活躍と繁栄がすっかり潰え去ったことの方に、気持が傾くからである。

 通常の多くの事例と比べてみると、喜平太のように膨大な書物を収集するのに金銭を費消した人物は、かなり珍しい存在だったようにも思われる。そうした方向に向かったのは、彼が学問を好むとともに大のビブリオマニアだったからでもあろう。異常なまでの本好きだったということか(笑)。この私は、そのことをもって特別に高尚な趣味であるなどと思っているわけではまったくないのだが、にもかかわらずそうした人物にわずかばかりの興味はわく。

 その蔵書が喜平太の死後も大事に保管され続けてきたのは、喜平太の後を継ぎ、娘婿として佐野家の当主となった秀作やその秀作の長男泰蔵もまた、似たような性癖を有していたからでもあろう。そこに流れているのは、書物というものは、金目になる豪華なだけのものとは別であるとの思いである。こうした感覚は、今の私にもかすかにだが流れているような気がしないでもない(笑)。

 それはともかく、これまで大事に保管されてきたものを、自分の代でバラバラにして売り払い散逸させてしまうのは、秀作にしても泰蔵にしてもやはり忍びなかったのではあるまいか。喜平太の存在が大きければ、尚更そうなることだろう。「佐野文庫」はこれからも大事な歴史資料として図書館に残っていくのであろうが、そこに関わりのあった3人の人物を眺めてみると、ある特徴に気が付く。

 喜平太は57歳で亡くなっているし、秀作は45歳で、泰蔵は46歳で世を去っている。喜平太は若死にとまでは言えないにしても、秀作と泰蔵はかなり早くに亡くなっている。泰蔵が頸椎スポンジロージスという難病で亡くなったことはわかっているが、喜平太や秀作の死因はよくわからない。地主の没落に決定的な影響を与えたのは、言うまでもなく戦後の「農地改革」であるが、その没落に拍車を掛けたのは、先の3名の人物が早くに亡くなったことだったかもしれない。「佐野文庫」とは対照的な運命を辿った三人の姿が、浮かび上がってくるのである。

 先に紹介した康太叔父が作成した冊子の最後には、『平家物語』にも登場する「生者必滅、会者定離」(しょうじゃひつめつ えしゃじょうり)という言葉が見えるが、それが何やら人生の「理」(ことわり)や世の「習い」のようにも思われて、柄にもなくいささか胸に染みるものがあった。冊子を纏めながら、きっと叔父もそんなことを感じていたのであろう。その叔父も2010年に亡くなり、これで当時の佐野家のことを知る人物は誰もいなくなった。

 私は昔縁戚の葬儀に参列するために柏崎に出向いたことがあるが、その時に叔父に誘われて一緒に電車で行き帰りしたことがある。葬儀が済んだ後、折角ここまで来たのだからと、叔父の誘いに乗って柏崎からタクシーで出雲崎に向かい、佐野家の実家の跡を見ることになった。叔父は、まだ隣に住んでいた知人と久闊を叙して懐かしそうだった。だが、跡地は既に雑草に蔽われており、土蔵もすっかり崩れかけていた。

 康太叔父の長男である従兄弟の話によれば、叔父は息子から頼まれたにも拘わらず、自分の息子や娘を実家の跡を見せに出雲崎に連れて行くことはなかったという。自慢げに紹介すべき物が残されていれば話は別であろうが、昔の栄華の残骸ばかりで何も無くなってしまった実家の跡地を、子供たちに見せる気がしなかったのかもしれない。

 この私は、定年を控えて「敬徳書院」という名の出版社を作り、そこからシリーズ「裸木」と名付けた冊子を出し始めた。2017年の8月には、その創刊号となる『記憶のかけらを抱いて』を作成した。立ち上げた出版社に「敬徳書院」などというかなり古風な名を付けることにしたのには、あれこれの理由がある。

 いい名前がなかなか思い付かなかったこともある。だが、母方の実家が「敬徳書院」と称していたことを既に知っていたことが、やはり最も大きな理由であるに違いない。わざわざ言うまでもないことだろう。それとともに、何処かで「敬徳書院」のことが気になっていたこともある。

 私の母は、喜平太の初孫であったために、彼に大分かわいがられたようなのだが、そんなことなども無関係ではなかったかもしれない。最初に生まれた長女がダウン症であり、次に生まれた長男を肺炎で亡くした母は、そのこと故に父との間にも間隙が生まれ、いささか薄幸な人生を歩んだように思われるが、そんな母が喜んでくれそうな気もしたのである。

 「敬徳書院」といった出版社を始めたためなのか、あるいはまた、定年後に暇な時間が生まれたためなのか、実家の過去を調べてみたくなった。扁額についても、だいぶ立派な額のようであったから、もしかしたらその所在が明らかになるかもしれないし、もしもそうであれば是非一度現物を眺めてみたいなどと思うようになった。私はいささか頑固な人間であるが、そうした性癖は何処かで凝り性にも結びつきやすいのである(笑)。

 検索を繰り返しているうちに、ネット上に「敬徳書院」の扁額の写真があるのを発見した。退職して間もない頃のことである。何処にあったのかというと、石原洋二郎さんという方の「みずすまし亭通信」と題したブログのなかにである。ネットの世界の効用とでも言うべきか。

 その石原さんは、長岡でデザインの仕事をされておりブログ歴もかなり長い方であった。「敬徳書院」の扁額の記事が載ったブログの日付は、2013年4月2日となっていた。大分前の記事である。扁額の写真に添えられていた文章は、以下のようなものであった。

 I宅にはこちらが目的で伺った副島種臣の書、佐野文庫扁額「敬徳書院」です。分厚い欅(けやき)材で左右1.5mほどの重厚なもので、かつてこの扁額に見合ったお屋敷に掛かっていました。佐野文庫は新潟県出雲崎在住の佐野喜平太氏が明治・大正年間に収集した蔵書で、和漢の典籍5,000点余、地方古文書約2,800点に及ぶ一大コレクションです。

 その扁額が明治初期に活躍し書家としても知られた副島種臣で、なぜか漂泊の果て個人コレクターのもとにただよっていった。なにせ欅の厚版ですから、表面を削られ再生直前に手に入れられたそうです。「佐野文庫」については新潟大学のHPをご覧下さい。この写真は我がブログ以外は見れませぬ。

 こんな文章が添えられていたのであるが、「敬徳書院」の扁額の写真は、確かに石原さんのブログでしか見ることはできなかった。彼がブログを書き綴っていなければ、私が扁額の所在を知ることもなかったであろう。偶然の出逢いと言ってもいいのかもしれない。ところで、石原さんのブログに登場する「個人コレクター」が、後述する猪本爾六さんすなわちIさんである。